データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)修行者の遍路①

 ア 阿波の駅路寺

 (ア)江戸初期の遍路びと

 中世末から近世初期においての遍路史料ははなはだ乏しい。その乏しい遍路史料を、遍路たちが残していった堂宇の柱や内壁などの落書に求めてみた近藤喜博氏は、その主なものとして、松山市の浄土寺本堂の厨子(ずし)、讃岐の国分寺本堂、道後温泉に近い石手寺護摩堂、さらには土佐国一宮拝殿内などに残る楽(落)書を紹介し(②)、「これらの楽書に名をとどめた人々は、恐らく沙門遍路・聖遍路・謂わばプロによる遍路たちであろう、それらは漸く近世の俗人遍路、大衆遍路に向おうとする頃の、先駆的な遍路を象徴しているかと思われる。(③)」と評している。
 一方僧侶以外としては、新城常三氏は次のように述べて、中世の参詣(さんけい)界一般に独占的に見られた武士がその姿を消し、江戸時代中期以降に爆発的ともいえる数の増加をみる四国遍路が、一般庶民であることを指摘している。

   中世末、僧侶のほかに、俗家(遍路)がわずかながら見られた。『甲陽軍鑑』二の品六の阿波の三善氏や、天正期土佐一
  宮落書の城州藤原富光等のごときはおそらくは侍に当たるものであり、同じく六郎兵衛・為次郎等姓を欠くものは、百姓に
  相当するのであろう。また侍は当時身分的分化の十分でない土着的武士を指すのであろうが、今後近世的武士は、一般参詣
  以上に遍路から遠ざかり、姿を消す。この意味で、武士の遍路はせいぜい江戸時代初期までで、今後の俗家遍路は百姓=庶
  民一色となるものといえる(④)。

 以下、江戸初期の遍路に関する史料の一端を紹介する。

   ① 石手寺護摩堂板壁の楽書には、「承応二年三月廿一日 忽那源兵衛 与州□奥島 □□□□四国返路舟州之住永禄
    十三年六月十七日□□静安五月吉日 二神家」とあって、承応2年(1653年)と永禄13年(1570年)と二つの年代
    が記されてあり、近藤喜博氏は、「意味の取り苦しい点もあるけれども、遍路資料の一つとはなる(⑤)」と評価してい
    る。
   ② 後述の澄禅『四国遍路日記』の五十二番太山寺の条に、「堂ニ、予本国犬童幡(播)磨守、元和三年六月十五日僧正
    勢辰謝徳ノ為トテ辺路修行スト在板札在リ。(⑥)」との記載がある。澄禅の本国とは肥後国であり、元和3年
    (1617年)の遍路を示す記事である。
   ③ 浄土寺厨子の楽書の中に、「寛永十七年五月二日」と寛永17年(1640年)の墨書がある(⑦)。
   ④ 納札であるが、五十三番円明寺に慶安3年(1650年)銘の銅納札(1枚)があり、次の針書(針やきり状のもので
    の線刻)がみえる。「慶安三年 京樋 □ (種子(しゅじ))奉納四国仲遍路同行二人 今日(月)今日 平人家次
    (⑧)」これは銅板製で鍍金(ときん)が施されており、現在、松山市指定有形民俗文化財である。奉納者の平人家次は平
    太夫、平大と称し、伊勢三宅郡の出身、江戸日本橋材木町に住み、材木商を営んだ豪商といわれ、後京都に移り住み、
    明暦元年(1655年)に没した。壮年時から、西国・坂東・秩父の観音霊場百ヶ所、六十六部回国成就し、ついで四国
    遍路をした篤信家であった。岩手県中尊寺や新潟県弥彦神社にも同人奉納の銅板納札がある(⑨)。
   ⑤ 真念の『四国邊路道指南』の中には、次の「道休禅門」という遍路の記事がある。「○たい村、皆々志有、やどか
    す。此所に道休禅師がはか有。此禅門ながく大師に帰命し奉り、はき物せずしてじゅんれいする事十二度、すべて二十
    七度の遍路功なりて、つゐに身まかるとて、
       いままでハとをき空とぞおもひしにとそつの浄土其まゝ(の)月
    皆々御回向頼たてまつる。(⑩)」とあって、時代や人物について明らかではないが、一人の多数度遍路の存在が知られ
    る。

 (イ)駅路寺

 「江戸時代の遍路史料の初見は、慶長3年(1598年)の阿波駅路寺史料であろう。」とする新城常三氏は、「ここに遍路が封建領主の関心を惹くほど、ある程度社会的に顕在化するに至っていたことを意味するようでもある(⑪)」と指摘する。
 この阿波国の駅路寺制とは、蜂須賀正勝(小六)が阿波国に入部後、二代家政により慶長3年6月に採用されたもので、領内8か寺を指定して、一般旅人並びに遍路の宿泊の便に供したものである。これを定めた法令の一条は次のようである(⑫)。
 このなかで、「出家・侍・百姓等に寄らずとは、遍路の身分を示したものであろう。すなわち、出家のほか現実に侍・百姓等が当時遍路に参加していたか、遍路の可能性があったのである。(⑬)」と新城氏は解している。
 これらの駅路寺は川北本道・伊予本道・土佐本道に沿って所在し、長谷寺(板野郡木津村)、瑞運寺(同郡引野村、安楽寺に併合)、福生寺(麻植郡川田村)、長善寺(三好郡中庄村)、青色寺(同郡佐野村)、梅谷寺(那賀郡桑野村)、打越寺(海部郡山川内村)、円頓寺(同郡宍喰浦)がそれで、これにはいわゆる札所は含まれていない。指定されたこれらの駅路寺には、藩主から堪忍分として寺廻りの10石の地が寺領として寄せられている(⑭)。この駅路寺制について、近藤喜博氏は、「これは旅行者・遍路乃至は侍百姓などの、行き暮れての一宿の安全保護策の一とし、併せて同時に交通政策的な面をもった制度であった。従ってそれは蜂須賀氏の領国経営の特殊な政策を示しているものだった(⑮)」と分析し、他には例のない、阿波徳島藩にのみ見られる特異性だと強調している。一方、新城常三氏は、後の澄禅や真念などの記述を根拠にして、「いわゆる駅路寺は遍路屋と同類のものと解して誤りない。(⑯)」と、駅路寺のことを四国遍路のための宿泊所、後の遍(辺)路屋に相当する施設の先駆としてとらえている。
 この駅路寺のうち、3か寺については、後世記録されているので、以下に挙げてみる。

   ① 円頓寺
     「次に宍喰円頓寺、四国行脚の為めにとて、国の守より建し所。(⑰)」
     「夫ヨリ浦ヅタヒニ鹿喰卜(云)所二至ル。此所迄阿波ノ国ノ内也。爰(ここ)二太守ヨリ辺路屋トテ寺在リ。往テ宿
    ヲ借タレバ、坊主慳貪(けんどん)第一二テワヤクヲ云テ追出ス。(⑱)」
     「○しゝくゐ、浦町有。入口右ぎをんのやしろ。又円頓密寺、辺路のため守護よりたてらる。(⑲)」
   ② 打越寺
     「四日寺ヲ立テ一里斗(ばかり)往テ、海部ノ大師堂二札ヲ納ム。是ハ辺路屋也。(⑳)」
     「○山川、内村。こゝにうちこし寺、真言道場、遍路いたはりとして国主より御建立。(㉑)」
     「山河内村(中略)、打越寺、往還の右の方山の側有、辺路人為大守様御建立(㉒)」
   ③ 青色寺(清色寺)
     「此佐野ノ里二関所在リ、(中略)又北ノ山ギワニ辺路屋在リ。(㉓)」
     「○さの村、爰に地蔵堂并(ならびに)阿州番所有、往来切手あらたむ。同所に清色寺とて、真言、地守護御方より辺
    路いたわる。(㉔)」
     「佐野村、(中略)清色寺国守より辺路人の為に建堂なり、山の麓にあり(㉕)」

 このユニークな駅路寺の存在から遍路の動向を見る新城常三氏は、この駅路寺が、遍路の発展に役立つことは少なくないであろうが、戦国の戦火がようやく収まった慶長3年当時の遍路の数はそれほど多くはないであろうとし、その半世紀後の承応2年(1653年)澄禅の遍路のころに至ってもなお、未だ遍路は低調のようであると推論する。その根拠としては、澄禅の遍路のころ、領主権力の援助の厚い土佐等を除き、阿波・伊予には共通して札所寺院が荒廃のまま放置され寺院の形態と機能をなしていない事実があるとしている。さらに傍証には、前田卓氏による過去帳の調査結果で、寛永年間(1624~44年)から存在する過去帳にも寛文年間(1661~73年)までは遍路の記載がないことを挙げている(㉖)。
 これに対して、澄禅『四国遍路日記』の発見者であり、同日記の書誌学的考察を行った近藤喜博氏は、近世遍路・庶民遍路へと移行していく姿を次のように推論している。「札所をつなぐミチの施設を、総括しておくならば、札所と札所との長いミチには、大師堂や善根宿が、中世末より見え始めたと思われ、澄禅が遍歴した承応年間は、余程巡りよくなっていたし、時代相応に遍路衆も多かったと思われる。これが真念の案内記の上梓を見た貞享年間には、近世遍路へと移行していく姿が、鮮明化してくる。茶屋も出てきた。道標も多数立てられるといった具合である。(㉗)」

 イ 諸藩の遍路規制令

 (ア)遍路の規制

 その後、徐々に遍路の数は上向いていったようである。そのことは、前田卓氏の研究によって明らかにされた。社会学者として巡礼の数量的研究を行った前田氏は、四国霊場の寺々の過去帳から、1,345名の遍路者数を抽出した(但し江戸時代は1,185名、出身地不明の遍路が114名)。そして、その内容を次のように報告している。「調査した過去帖で、まず第一に気づいたことは、寛永年間頃から過去帖のある霊場においても、遍路が記載されるのは寛文年間からであった。(中略)過去帖に遍路が記載されるのは私の調査によると、寛文年間に初めて、江戸から来た2名の遍路であった。そして次の延宝年間では阿波の住人が出てくる。それが元禄年間になると、3年、6年、11年、12年、14年、16年と隔年ごとに阿波、讃岐、備中などの遍路が出てくる。続いて次の宝永年間になると、毎年遍路が見出されるようになる。(㉘)」
 また、四国諸藩の遍路規制を検討した新城常三氏は、「四国諸藩に先がけて、松山藩が恐らく最初の遍路規制令を出したのが万治前、さらに土佐藩が寛文3年(1663年)(㉛)であることも注意される。このうち土佐藩は遍路の入国口を、阿波よりは甲浦口、伊予よりは宿毛口に限って、それ以外の口よりの出入りを認めず、それも国手形を持つものに限り、また村々で数日間滞留するものには、庄屋への届出を義務づけた。これは幕末まで続く土佐藩の遍路対策の基本法であるが、それが寛文期に始まることは、当時ようやくそれらの規制を必要とするほどの遍路の入来があってのことであろう。」とした上で、前田卓氏の収集過去帳の研究結果を踏まえ、「このようにして、遍路は年毎に上昇したであろうが、つぎの元禄前後の盛行とは比すべくもなく、未だ遍路の数は微々たるものであった。(㉙)」と結論している。このうち最初の遍路規制令として挙げられている松山藩のものとは、万治年間(1658~61年)までの初代松平定行時代に出されたという「家老中其外諸奉行諸役人御留守之御仕置如左書付也」のうちの「浅海山并中山番之者中(㉚)」の一節である。これは同藩の番所の番人に対する職務に関する命令で、遍路の通過に当たっては往来手形を改め、内容の不確かな者の通行を禁じるように厳しく命じたものである。

 (イ)武士の参詣

 一般に中世における社寺参詣では、長い間武士が参詣者の地位を独占してきたが、江戸時代に入ると、一般武士の参詣は低調になってきたといわれる。その理由として、新城常三氏は、主従関係における武士行動への規制を挙げている(㉜)。それによると、戦国時代末期には、大名が家臣の城下町集住を図り、統制を強化するに伴い、武士の行動一般が窮屈になったことは、『分国法』等が示唆している。その後、江戸時代に入り、幕藩体制の成立という封建制度の完成に伴う家臣統制の強化により、武士の長日の行旅や他国参詣は勤務に支障をきたすために制限され、ますます困難になったとする。その結果、武士が多年参詣界で占めていた首座から転落したことは伊勢参宮や高野山参詣・富士登山等において実証されているという。
 この証例を新城常三氏は多く挙げているが、そのうちの四国諸藩に関するものに、「神宮文庫蔵、外宮御師来田氏の参宮帳がその明証である。すなわち彼の『讃岐国参宮帳』は、主として丸亀藩領の西讃岐地方で、その旦那には丸亀藩士や高松藩士等も多いが、参詣者のうち武士の数は次のごとくきわめて稀である。(中略)伊予小松藩の場合は一層鮮やかである。宝暦以来、幕末まで四十数年間分の同藩の『会所日記』を通覧したが、藩士の参詣は、往還4、5日の金毘羅詣を除外すれば、伊勢参宮・四国遍路・安芸厳島詣等に、ほとんど一人として発見することができない。この間、同藩民衆のこれらの参詣数は、5,600名に及ぶのである。もとよりかかる傾向は、その他の社寺でも同様である。(㉝)」というものがある。
 また、藩士の社寺参拝制度については、「伊予小松藩では、往還4日程度の讃岐金毘羅宮への参拝は、すでに享保以前から幕末まで、一般領民に対しては、何らの手続きなしに無断で認めたが、庄屋と藩士は足軽に至るまで届出て、その許可をまたねばならなかった。(中略)土佐藩でも、寛政かなり以前より代々、侍中及び諸奉公人の四国遍路を禁じているから、遍路以外の禁止はもちろんであったであろう。(㉞)」と指摘している。

 (ウ)領民の他国社寺参詣

 一般的に諸藩は、その領民の国外旅行に警戒的であったが、藩によって寛厳の差があったといわれる。このうち閉鎖性のとくに濃い藩として、文化13年(1816年)の『世事見聞録』二には、「国風により土民を一円他所へ出さざる制度あり、薩摩・肥前・阿波・土佐など殊の外、厳制なり」と西日本の4藩が挙げられている(㉟)。
 こうした藩側の他社寺参詣無用の意図はどのような点にあったのか。「四国辺路願御示之事」は、寛政3年(1791年)に土佐藩が発した布令である(㊱)。こうした統制令をみると、遠隔参詣は領内社寺への冒とくであるとか、参詣に行けば浪費をするためその後の生活に懸念が生じるとか、あるいは貨幣の国外流出によって領国経済が貧窮化することや風儀が乱れること、専ら遊楽にすぎないことなど、さまざまな理由を挙げていることが分かる。
 そして、諸藩では、人数・日数あるいは時期の制限など、参詣をできるだけ圧縮・抑制し、経済的その他の影響をできるだけ食い止めようとしている。