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久万町誌

八 船田 一雄

 船田一雄は、明治一〇年一二月七日、久万町東明神で父信衛、母エイの長男として生まれた。
 明治一六年、七歳を迎え、上浮穴郡第一番学区東明神小学校初等科第六級に入学し、およそ半年で一級ずつ進み、一〇歳の冬に初等科第一級を卒業した。
 明治一九年、父信衛が土佐街道改修工事の一部を請負ったので、下浮穴郡第五番学区山口小学校中等科第六級に転入し、約半年後の明治二〇年の春には再び東明神に帰って六級を卒業した。五月から久万町の久万高等小学校に入学し、明治二四年春、一五歳で卒業した。
 小学校各学年を通して進級のたびに優等の褒賞をもらったが、反面腕白で、船田がおらぬと学校が静かだといわれ、着物の片袖がとれて帰るようなこともたびたびだったといわれている。
 高等小学校を卒業した当時、上級学校としては県にただ一校の松山尋常中学校、と師範学校があった。師範学校に入学しようと志したが、姉のすすめで中学校に志望をかえ、高等小学校卒業後の一年は一心に勉強して、明治二五年、一六歳の春、松山中学二年(正式には尋常中学校第四級)の編入試験に首尾よく合格した。一雄少年は希望に胸をふくらませて中学に入学し、船田家に下宿して明神役場吏員酒井重吉の親許で一年余りを送った。のも父信衛の友人のあっせんで代議士、弁護士藤野政尚の家で玄関番として、またその息子の勉強相手として中学卒業までの二年余りを過ごしたのである。
 当時、松山中学校は新築で立派な学校であった。「坊っちゃん」で知られている夏目漱石の赴任したのは明治二八年であったから、一雄が五年級の時であった。夏目先生から「御馳走するから遊びに来い。」といわれ、友人を誘って漱石の下宿へ行き牛肉や西瓜などを御馳走になったということである。
 一雄は、友人からも非常に信頼され、親にも話せないようなことでも一雄には打ち明けるというぐあいであった。また、弁論もすきで校友会の弁論大会には常に熱弁をふるった。そのため弁論部や雑誌部の委員にあげられ活躍した。
 一雄は明治二九年の春、二〇歳をもって松山中学校を卒業した。
 立派な成績で中学を卒業したのに、これで学校をやめさせてはかわいそうだという父、親せき、知友のすすめで熊本第五高等学校文科の入学試験を受け合格したのである。五高には九州だけでなく四国・中国の学生が集まっていた。入学の時、どこに欠陥があったかわからないが、「体格検査で危く不合格になるところであった」と聞かされ、このことが動機となって中学時代の趣味を一変して、剣道で心身の鍛練をすることにした。稽古は一日も休まないという熱心さであったから、段こそ取らなかったが、三年の後には校内で屈指の実力者になったといわれている。
 明治三二年、熊本第五高等学校を卒業し、東京帝大法科独法科に入学した。学費は久万山凶荒予備組合から貸与されるようになっていたのでじゅうぶんではないが一応の安心はあった。旧松山藩主久松家が旧藩子弟のために設けた常盤会寄宿舎に寄宿した。
 明治三三年八月六日、父信衛は病気のため死亡した。五四歳であった。父を失った一雄の肩に、一家の経済の重荷がかかって来たので、凶荒予備組合の貸与金全額を母の生活費にあて、自分の学費は松山の海南新聞社よりの月額一二円と、讃岐新報よりの月額八円の寄稿料を得て補った。当時、大学の修業年限は四年であったが、七か年かかって明治三九年の夏卒業した。
 その年の七月三〇日、水戸区裁判所検事代理の辞令を受け赴任した。年俸四〇〇円であった。水戸勤務の後半、検事試験を受け好成績であった。明治四一年四月、検事に任官し、五月に東京地方裁判所検事局兼東京区裁判所検事局詰めとして栄転し、年俸八五〇円を給せられることになった。その年の五月、愛媛県周桑郡田野村の豪農で県会議員であった兼頭鶴太郎の三女克代と結婚した。時に一雄は三二歳であった。小石川原町の新居に母堂を迎え、ともに生活をしたのである。
 明治四三年六月、一雄が大学時代世話になった常盤舎の舎監として秋山好古中将を迎えた。しかし、秋山中将は公務のため監督として寄宿舎及び舎生の世話をみることができないので、一雄が舎監となり補佐することになった。郷里の者に関することでもあるので常盤舎内別棟の舎宅に移り、至誠と熱意をもって努めたのである。
 明治四四年七月、一雄の一大転身が行われた。すなわち検事をやめ、三菱合資会社地所部庶務係の一職員になったことである。この転身は同僚・友人・郷里の人々を驚かせた。この一大転換の理由は、三菱側の法律に通じた者をなるべく司法畑から迎え入れようとする勧誘にあったといわれる。鉄道の大臣を歴任した江木翼や上司にも打ち明けて意見を聞きつつ自分でもいろいろ考えぬいた結果、一大転換を決定したのである。
 明治四五年、かねて健康を害していた夫人が、結婚生活五年に満たず享年二四歳で不帰の人となった。舎監住宅を気軽くひき払い、母堂を郷里に帰し、常盤舎の一室にはいって舎生と同じように生活をするようになった。
 大正二年、東京府士族本多成美の娘豊子と結婚し、一時郷里に帰していた母堂を再び呼び寄せ、三年春、本郷森川町の新居に落ち着いた。五年九月、長男昌一が生まれ、四〇歳で初めて父となったのである。
 大正六年一一月、営業部から鉱山部に転じた。総務課長兼会計課長の一雄が、同時に理事代理として専務理事を補佐したのであった。そのころ三菱合資会社はその経営する各部の事業を独立の株式会社として発足させていた。したがって、鉱山部及び炭鉱部が三菱鉱業株式会社となった。鉱山部時代の総務課長から引きつづき鉱業会社の総務課長となって七年、更に常務取締役として七年、合計一四年間鉱業関係の仕事をした。年齢でいえば四一歳から五五歳の間で働き盛りの時であった。
 この時代の家庭をみると、大正七年一〇月、次男邦男、大正一〇年二月、長女輝子、大正一一年六月、次女英子、大正一二年七月、三男寿雄が生まれ、大正一三年七月、神奈川県逗子町に借地して別荘をつくった。別荘といってもささやかなもので久万山荘と呼び、そこに母堂と姉を住まわせ母堂を慰めたのである。
  八〇の母健やかに炉を焚きて
と詠んで、毎週土曜日には必ず逗子に行って、母堂とともに一日を送り孝養をつくしたのであった。
 昭和六年一二月、三菱鉱業会社常務取締役を辞任し、三菱合資会社理事となった。理事会は最高機関であり、社長の手足となって活躍したのであった。
 昭和七年六月、三菱商事会社の取締役に就任していたが、昭和一一年取締役会長に選任された。この時六〇歳であった。昭和一五年三月までの会長時代には、二・二六事件や広田内閣、林内閣、第一次近衛内閣、平沼内閣、阿部内閣、米内内閣とめまぐるしい内閣の更迭が行われた。その間、日支事変、日独伊防共協定、第二次世界大戦などの事変があった。このような情勢のもとで、社内の対人関係、人的結合を重点としたため、社内の気風は一新し、規律も確立し、社外の信用も加わり事業は急激に伸展していった。
 昭和一二年、三菱合資会社を三菱社と改める。昭和一五年三月、株式会社三菱専務取締役に就任した。昭和一八年、社名を三菱本社と改め、一雄は理事長となった。太平洋戦争は次第に激しくなり、軍需工場や都市の空襲爆撃が繰り返される中で、一雄は社長の相談相手となってよく助けたのであったが、ついに終戦を迎えたのである。
 昭和二〇年八月、連合軍が日本に進駐して占領政策の実施に着手し、財閥を解体させようと強要しはじめた。一雄理事長は病気の社長に代わって株主総会を開き、その議長を勤め、岩崎社長一家の退陣、会社重役の退職について了解を得た。議案として、会社の目的を変更して単なる投資会社に性格を変えることや、役員機構の改正について提出し承認を得、一雄理事長のゆきとどいた説明によって円満に終了したのである。かくて三六年間にわたる一雄の三菱生活は終わったのである。
 一雄の半生を捧げた三菱はなく、公職追放という刻印をおされたため身の動きようもなかった。さらに、二度の戦災で身辺のものはことごとく灰となり、火災保険の打切りや、預金の封鎖などに会い、定収入のなくなった一家の経済に、わずかにしのぎをつける道さえふさがれてしまった。その上、財産税の徴収という大きな負担を果たさねばならない生活が続いたのであった。
  事多き歳を迎えて古稀の春
  我も亦翁と呼ばるる明の春
の二句を吟じそのおもいをもらしたのであった。
 昭和二四年六月、郷里久万へ帰り、念願の墓参も果たし、郷土の人々と語り合った。かつて一雄の寄付でできた上浮穴高等学校の講堂で生徒たちにも話をすることができ、郷土の人々と別れを惜しみながら帰京したのである。
 昭和二五年三月、首相吉田茂が議会開会中の忙しい中を一雄の病気見舞のため船田家を訪問した。一雄はたいそう喜び、ふたりは心ゆくまで話し合った。
 春の深まりとともに病気は重くなり、同年四月一八日、ついに七四歳の生涯をしずかに閉じたのであった。
 いつのころからか一雄は郷里の困窮者に対して、年二回盆、暮れに寸志として見舞金を毎年送っていた。また、明神小学校・久万小学校に対しては、大正九年ころから卒業生に記念品を贈ることを始め、終戦の年まで実に二六か年も継続したのであった。男児には辞書、女児には裁縫箱ときまっていたが、いつとはなしにそれが船田賞と呼ばれるようになり、これを受ける児童ばかりでなく、親の喜び・名誉ともなるようになった。しかし、一雄は決して優等生になることを奨励したのではなかった。手紙に「略……成績の奨励は第二義と存候。」と書き送って、学校教育の陥りやすい弊を戒めているのである。一方、郡村の青年団に対しても援助を惜しまず、毎年継続して図書雑誌類を選択して寄贈し、競技大会の賞品、撃剣道具の寄付など青年の体育、徳育にも心をそそいだ。また、村内の高齢者には祝いの酒肴料を贈り、親しい老人の年祝いには、東京で作った紋服を着せてやりたいと、わざわざ寸法を問い合わせ仕立てさせて贈るなど、深い思いやりがあった。このようなことは余裕のあるなしの問題ではなく、全く郷里に対する至情からほとばしり出たものであって、その純粋さに胸の暖まる思いがするのである。
 消廉な一雄には、経済的に余裕があまりあるわけではなかったが、郷里のことについては精神的な無形の支援だけに止まらず、金銭的にも援助を惜しまなかった。村内・郡内の教育関係はもちろんのこと、産業・土木方面の施設等にも数多く寄付している。昭和一六年に久万町に新設せられることとなった農林学校の建設に当たっては、郡に対してまとまった金額を寄付したほかに、明神村に割り当てられた負担額の三分の一を進んで援助したのであった。昭和一九年には一雄の寄付金をもって講堂が落成した。命名を依頼された一雄は、「知今堂」と名づけた。
 一雄は終生その郷土を愛した。遺言にも、遺骨は東京豪徳寺と郷里の墓地に埋葬することと記してあったので、令息昌一、寿雄の両人が遺骨を護って帰郷した。石田佐々雄を葬儀委員長として、式場は縁りの深い旧明神村役場をあてて盛大に葬儀を挙行した。久万町内はもとより郡内各町村、遠くは松山方面からも会葬する人々が多かった。墓地の清掃、墓碑の運搬等、青年団員五〇数名が進んで奉仕をした。
 ここに建てられた墓碑の銘は、友人一雄のために快く筆をふるった吉田茂の書を刻んだものである。
 また葬儀後、郷土を中心に「船田大人頌徳会」が有志の間ででき、その事業として墓前に歌碑が建立された。
 かつて一雄が母堂の遺骨を捧じて帰郷したおり、郷里の情愛に深く感激し、
  村人のいつも変らぬ真心に
       嬉し涙は止め得もせぬ
と歌った。その心に感じた歌を碑に彫り込んだものである。