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久万町誌

九 宇都宮 音吉

 音吉は、明治一四年九月一五日、久万町大字東明神皿木一七九番戸で、宇都宮又三郎、同トラの四男として生まれた。
 天性の学問好きは幼少のころからその片鱗をみせ、明神小学校時代は抜群の成績を収めた。当時、高等小学校に進む者は極めてまれであったが、生来の才能を更に伸ばすために、久万高等小学校へ進んだ。ここでも人後におちない優秀な成績を修め、級友の人望を一身に集めた。久万高等小学校卒業後、家で農業の手伝いをしながら、独力で学問に精励し、そのかたわら青年団活動等に積極的に参加して、地域青年の中心的存在となっていった。明治三四年一二月、二〇歳の時、現役兵として第一一師団(善通寺師団)野戦砲兵第一一連隊に入隊した。入隊後の勤務成績は断然群を抜いてよく、上官にもそれを認めてもらい、わずか三か年余で五階級も昇進して軍曹となった。
 明治三七年五月、日露戦争のため清国に出征し、馬郡丹付近の戦闘の際、第二砲車長として勇敢に指揮をとり戦った。この戦闘は、激戦につぐ激戦で実に七昼夜におよんだ。度々の敵の逆襲によりわが軍の損害は甚大で敗色濃厚となっていった。音吉の所属する砲兵隊も援護射撃にあたっていた。しかし、敵の猛攻はいっこうにおとろえず、第一線部隊は後退せざるを得なくなった。砲兵隊でありながら敵前わずか一〇〇〇㍍の至近距離に砲列をさらす破目になってしまった。敵のしつような砲撃や逆襲に砲兵隊も損害を受け、第二砲車でも砲車長である音吉と砲手を残して全員戦死した。しかも、砲の照準器は敵の砲弾で破損し使用不能となった。
 この時音吉は、砲火の中でただひとり砲の修理にあたり、臨機応変の処置はその修復に成功、砲手を指揮して攻撃してくる敵に猛砲撃を浴びせその戦意を挫折させた。更に的確な援護射撃に友軍を反撃に転じさせるとともに多大の損害を与え敵を敗退させた。
 この戦闘を日本軍の勝利にみちびいたのは、勇敢で沈着機敏な音吉の適切な行動によるものである。
 音吉の武勲は抜群であるということが認められて、鴨緑江軍司令官陸軍大将従三位勲一等功三級男爵川村景明より、明治三八年四月三日に感状を受けた。更に、この功によって軍人最高の栄誉である金鵄勲章功六級および勲七等に叙せられた。
 明治三九年一月、大陸より帰迷し、解隊と同時に除隊した。
 過去の軍人としての生活を反省し、生涯の生活設計、人生の意義を考えるにおよんで医師を志望するに至り、明治四〇年一月に東京医学校に入学した。医学生としての研修を積み重ね、明治四三年の春同校を卒業し、温泉郡中島村(現在の中島町)大浦で開業医として地域の人々の診療に当たった。その後、伊予郡郡中町(現在の伊予市)に移り、地域の人々のために働いた。
 大正五年、郷里である久万町に帰り、福井町で開業した。その当時、久万町には藤井医院、竹村医院、大野医院があったが、いずれも内科を専門としていた。その中で主として外科を担当し、地域住民のため骨身を惜しまず患者の診療に尽くした。
 当時の医者は、和服を着ており、往診には人力車を用いたり、田舎の細道になると荷かきほごやもっこなどに座布団を敷き、その上に乗って患者の家に行ったりするのが常であったが、音吉は、遠い近いを問わず、いつも自転車で往診していた。したがって、患者への往診にも雑作がなく、患者から親しみ喜ばれていた。また、このような往診方法をとったため、実質的に費用が軽減される結果となり、患者からの往診依頼が順次増していった。
 「医は仁術」である。ということを音吉は身をもって実践し、常に社会奉仕の精神に徹して民生安定のために努力を惜しまなかった。その顕著な例として、低所得者、貧乏人には特別に愛情を注ぎ、カルテに書かれている診察料や薬代のところに斜線を引いて消し、彼らからは料金をとらなかったことがあげられる。貧乏な患者はその都度料金を支払うことができず、半年も一年もたってようやく支払うことができるようになって行ってみると、すでに納入済で処理しているなど、仁術を施して惜しまなかった。このような恩恵に浴した者は、数え知れぬほどである。
 そのほか、郡医師会長、県医師会理事等の要職にあって、地域住民の健康管理に貢献する一方、医師会の育成にも努め、その功績は今もなおさんぜんと輝いている。
 一般開業医として、前述のように社会に貢献する一方、大正一〇年八月より久万町立久万小学校の校医となり、ついで明神小学校・久万中学校・上浮穴高等学校の校医として四二年間もの長きにわたって児童生徒の健康管理に力を注いだ。これは全く献身的なものであった。
 児童生徒の衛生・健康管理を徹底するため、細心の注意をもって臨み、各児童生徒の個別診断はもとより、各教室を回って通風・採光について指導をしたり、児童生徒の姿勢から鉛筆の持ち方にいたるまで助言したりするなど、まさに温情あふれるものがあった。更に、気の毒な家庭の児童生徒に対しては無料で診察したり治療したり、必要な者には栄養剤までも与えたりして、その健康管理に万全を期した。このように児童生徒はもちろんのこと、地域の住民に対し、終始一貫して愛情を注ぎ、「医術は仁術」であるということの範を示した。この功績が認められ、昭和三六年には学校保健功労者として、文部大臣から表彰された。
 行政面では、大正九年に久万町助役に就任し、医業を営むかたわら、よく町長を助け、その政治的手腕を発揮して町発展のために力を尽くした。大正一一年には久万町消防組頭(現在の消防団長)を兼務して、久万町の治安のためにも献身的な努力を払った。しかし、この間、学校医・一般医としての業務もあり、相当の負担となったため、大正一三年に久万町助役を辞任した。
 その後、方面委員制度の発足に伴い、方面委員最適任者として早速選ばれ、地域住民の民生保護に努めた。やがて、方面委員は民生委員と改称され、はっきりと制度化されたが、引き続きその要職にあってその任務を遂行した。貧しい者、弱い者へのいたわりのまなざしは暖かく、常に血の通った愛の手をさしのべたため、人々からは慈父として慕われた。このような人柄が認められ、県知事表彰、厚生大臣表彰など数回にわたって受賞した。
 また、久万町社会福祉協議会長・上浮穴郡福祉協議会長・久万町教育委員長などの要職を歴任し、町民の福祉・文化・教育などのあらゆる分野にわたって献身的に奉仕した。
 昭和二八年一一月三日に、その功績が認められて藍綬褒章を受賞した。藍綬褒章の記の全文は次のとおりである。
 音吉が、生涯で最も悲嘆にくれた時はなんといってもあのいまわしい第二次世界大戦中であっただろう。なぜなら、長男をグアム島で失ったのだから。しかし、音吉はいつまでも悲嘆に暮れてはいず、私事を乗り越えて公的な仕事に取りかかっていった。
 戦没者の遺家族の中には、柱と頼む夫、子供を失って路頭に迷う者も多くいた。久万町内にもこのような気の毒な家庭が多かった。音吉は心からこれを憂い、全国にさきがけて久万町内の遺家族に呼びかけ、久万町遺族会を結成した。ともすればくずれ落ちそうになる遺家族にとって、この結束がどれほど支えになったか計り知れないものがある。
 音吉は、遺家族の総意によって会長となったが、つづいて上浮穴郡内一〇か町村にも働きかけ、各町村の遺族会結成の陰の力となった。更に、各町村に遺族会が結成されると間髪を入れず上浮穴郡遺族会連合会を組織した。ここでも上浮穴郡遺族会連合会長の重要なポストに推され、遺家族のために敏腕をふるい、生活安定のために骨身を砕いて東奔西走したり、遺家族を慰問し激励して回ったりするなど、その活動は実に超人的なものであった。町内はもとより郡内の遺家族すべてに慈父と慕われた。晩年は遺族会の成長発展にすべてをかけ、「遺族会といえば宇都宮音吉だ」ということがだれの頭にも浮かぶほどになった。
 遺族の補償問題などではたびたび上京して陳情したり請願したりした。もちろんこれに要した費用は自弁であり、公的な援助は全く受けなかった。このように、私を忘れた活動を繰り広げ、名実ともに、町・郡はもとより県遺族会の推進力的存在となった。
 また、郷土史家としての音吉も見逃すことはできない。第二次大戦後の荒廃した社会を建て直すためにも、滅びすたれゆく郷土の史蹟・史実を保存するためにも、郷土史の研究が必要であることを痛感し、いちはやく「山之内仰西翁奉賛会」を作った。この奉賛会の初代会長となって、手はじめに広く同志を集め、仰西の業績を調査・研究していった。更に「上浮穴郷土談話会」を組織し、その代表者となって、月々自宅で会合を催し、町内・郡内の遺跡・文化財・古文書などの調査・研究に取りかかった。
 昭和二九年には機関誌「浮穴史談」の創刊号を出版して、郷土史を広く一般に紹介した。引きつづいて二、三、四号を刊行し配布したが、上浮穴郷土談話会に油がのり、軌道にのって着々と研究が進められていくようになった時、五号の浮穴史談を枕辺に置いて眺めながら、永遠の旅の途についたのである。時は昭和三八年一二月八日のことである。
 久万町教育委員会ではこのあとを引き継ぎ、郷土史の研究を続けていくと共に、その発展に努めている。
 音吉のなした郷土の調査・研究が資料となって、今回発刊した久万町誌をいろどっており、音吉に負うところが多い。
 音吉は、七〇歳の老齢期を迎えてからも、毎月新刊書を購入して読書にふけり、その読書意欲と研究意欲は倦むことを知らなかった。音吉の生涯は、まさに久万町民の生きた範であるということができる。

褒章の記

褒章の記