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久万町誌

2 警防団

 ア 防空訓練
 昭和一四年一〇月、国民精神総動員によって国内はすべて戦時体制に切り換えられた。防空法は、日中戦争が全面的な規模になった時から、大々的な空の守りを行い、昭和一三年四月に灯火管制規則が公布されてからは、強制的な防空訓練が続けられることになった。
 昭和一四年四月、これまでの消防組は改組して新たに警防団となり、町内の治安の維持や、戦時下郷土の防衛に当たることになった。そして、軍・警察と緊密な連携のもとに防空訓練を実施し、町民に対して防空思想の普及につとめた。
 久万警防団は、団長一名・副団長二名・各分団に分団長一名、各小集落に(町内)班長がいて、その下に班員一〇名ぐらいの編成であった。明神村・川瀬村・父二峰村共に、編成はほぼ同じ状態であり、町・村にいる青、壮年は全員警防団員であった。
 各小集落では、家庭防火組の結成がすすめられて防空班長をつくり、各家庭ではバケツ・防火用水・ムシロ・火たたき・スコップ・ハシゴの防空七ツ道具を玄関にきちんと整備して置くことになっていた。また隣組や防空班を通じて、爆音のききとり方、機種の見分け方、防空壕の作り方から、爆弾、焼夷弾の知識についてまでの講習会を行って、防空意識の昂揚につとめるなど、警防団活動は実にめざましいものがあった。
 消防組の当時から始められた防空訓練は、警防団に引きつがれてから、ますます戦局が重大化するに正比例してたび重ねて行われ、町民に徹底した防空知識を教育した。警威警報発令と同時に、家庭では、ムシロを用水にひたし、竹竿の先に縄をしぼりつけたボンデンの火たたきを水につけて待機した。また、衣料切符・主食配給通帳・弾丸切手・戦時債券・預金通帳・実印などの貴重品を小袋につめた「非常持出」を背負うというぐあいであった。それぞれの防空壕には、簡単な寝具や、食糧をたくわえていて、老人や子供は直ちに防空壕に退避し、その他の元気なものは全員家庭内で待機して次の命令を待っていた。「焼夷弾落下」の声で飛び出し現場にかけつける。火を噴く焼夷弾を見つけて、「ぬれむしろ」をかぶせて火力をおさえ、その上から砂をかけて完全に消す。柱・フスマ・障子に飛び散った炎は、用意の火たたきで火の粉をたたきおとす。天井板が一番燃えやすいということで、天井板をはずした家も多かった。
 「訓練警戒警報」のサイレンが夜空に無気味にひびきわたると、家庭では夕食中でも、病人がいても、電球に黒いおおいをかけ、窓には残らず暗幕をたらした。隣組の防空班長がゲートル・国民服・戦斗帽・防空頭巾という勇ましい姿で、メガホンを片手に町内をくまなく点検する。「訓練警戒警報発令」と連呼する。「○○さんあかりがもれていますよ。」と戸外から名指しで注意する。
 「訓練空襲警報発令」であかりはすべて消される。家族は全員息をつめて次の指示を待ち、身のまわりを整とんし、伝令、救護・避難の誘導にと、それぞれの任務につく。一方では、石油カン・バケツをたたく音がけたたましく町内をかけめぐる。「空襲、退避」の指示で老人、子どもは防空壕へ、「焼夷弾落下延焼中」でバケツリレー、間もなく「訓練空襲驚報解除」これで人々はほっとするのであるがそれもわずかの時間であった。次にどんな号令が家族の生活を追いたてるか予想もつかない毎日であった。
 昼は、また、一戸に一人の出動でバケツの注水訓練が行われた。高くはられた標的に向かって、かけつけながらバケツの水をかける。少しでも遠距離から、水が飛散せず、かたまりになって標的に当たるよう訓練が繰り返されたが、町民もよくこれにたえて、実際に空襲に会った場合にそなえていた。これらの訓練に参加しなかったものは、「非国民」から「国賊」に、驚報下にあかりをもらした家は、「敵機に信号を送るスパイ」と大まじめに指弾するほど、隣組は「相互監視」の組織になっていった。それは、警防団がその間にあっての活躍を示すものである。
 イ 松山大空襲
 昭和二〇年七月二六日、この日は朝から薄ぐもりで涼しい日であった。小学生を送りだしてほっとした八時過ぎ警戒讐報が発令され、一時間もしたころ解除となった。このころになると、前年の秋から一八〇回にも及んでいる警戒警報であったので、久万町民もだいぶんなれっこになっていた。その折も夕方までに四回の警報が出されて夜にはいった。
 夜一一時二五分、五回目の警戒警報が菊ヶ森の久万監視所の報告により、防空本部から発令された。情報によると、
  「B29の編隊、数十機は宿毛(高知県)沖に集結しつつ豊後水道を東北に向かうもののごとし」
ということであった。
 中、四国全県と九州に警戒警報が発令されたものであったが、警報直後の二六分には全県下に空襲警報が発令され、佐田岬から愛媛県を縦断する様相を見せてきた。
 いつものように豊後水道を通って瀬戸内海に抜けるコースとはいくぶん違っているということで、「これはあぶない、松山か? 新居浜か?」と、緊張が松山市民の間に走った。
 あかり一つない息をつめた松山市の上空にパッと照明弾、松山城の天守閣も灯火管制でかくされた市街も、住宅も、瞬間に裸身をさらけ出された。空襲警報が発令されてからわずかに四分たらずで「グァーン」と空も圧する音だけが市民の耳にはいった。
 新町に第一弾、あたりの民家がふっ飛んだ。防空壕から飛びだして、必死の消火をこころみたのもつかの間、頭上から雨のように焼夷弾がふりそそいだ。宮田町も旭町周辺からもパッと火の手があがった。
 二番機、三番機と松山の上空をぞんぶんに舞うB29、五〇〇㌔爆弾、一〇〇ポンド、六ポンドの焼夷弾が無差別にふりまかれて、キナ臭いにおいが全市にひろがり、「泣きさけぶ声」「にげまどう姿」その中をかけめぐる警防団員、市民は白昼のようなあかるさのなかを、しだいに水を求め、幅の広い道路をさがして逃げはじめた。
 はじめのうちは、平素の訓練どおりに受け持ち区域で、救助と消火の体制を固めていた。しかし、周辺部からあがる火の手と、空から無数に降る焼夷弾の雨は、全市をまたたく間に炎でつつみ、区域ごと、警察や警防団との連絡も瞬時にたちきってしまった。
 昭和一三年の灯火管制からまる七年間、婦女子まで動員して続けてきた。統制と規律の防空訓練の成果も、全市に及ぶ大火には手のつくしようもなく、各自が荷物をかついで飛びだしていった。その市民の上にふりそそぐ焼夷弾、これには抗しようもなかったのである。
 久万警防団では、松山からの要請によって救援に行くことになり、久万警察署の岡添部長を隊長として、団長田村輝雄の指揮のもとに、三台のトラックに、三台のポンプと団員が分乗する予定で、久万町役場前に整列、人員点呼を終わったが、まだ自動車の準備ができなかった。そのころの自動車は代燃といって木炭で走る車で、元火から木炭につけ、木炭を入れたタンクが充分火になってからでないと動かなかった。団員は、直ちに集合したが、こんなことで出発がおくれ夜中を過ぎてから出発した。
 出発はしても、空襲下にライトを照らすことは危険であるので、松山市のもえ上がる炎の光をたよりにのろのろ運転であった。
 明神まで行った時、駐在所で「久万警防団は直ちに引き返して町内の警備に当たれ」と、誤った命令が伝えられたために引き返し、また、あわてて出発した。
 明神の一、二分団にも、同じ救援の命令が伝えられていた。明神では、田中副団長を隊長として、徒歩で三坂旧道越しで松山へ向かった。
 久万・明神の分団とも森松についた時には火災も終わりに近く見えた。ポンプを森松橘下にちいて団員のみが松山へ向かった。
 東雲小学校だけでも大型爆弾二三個、小型は数知れず落とされていた。各町内でも、一弾二弾は日ごろの訓練が効をそうしてよく消しとめたが、万策つきて、重信川・石手川の各堤防や、山越・山西などの郊外の山に難を避ける人のむれでごったがえしていた。やけどを負って、はだか同然の人、すでに息をひきとった乳飲み児をしっかりだいて、髪をふり乱して狂う母親、ぬれぶとんをかぶった人、子どものゆくえをさがして阿修羅のようにかける人、死体があちこちにころがり、なかには横たわったままからだの一部をかすかに動かし油脂に焼かれている人も見かけた。
 逃げまどう後から、前から焼夷弾の雨、その上、道路も家財も運ぼうとして途中で捨てた荷車や、荷物でふさがれ混乱はなおいっそう大きくなった。全市を一挙に燃えあがらせる熱気が、避難民のからだを焼き、人々は用水を見つけては頭からかぶり、城濠の中はあとからあとから飛びこむ人で埋まった。
 空襲は二時間半に及んだ。久万警防団が本部を置いた立花橋横の石手川土手から、朝日がのぼるころには全市の道すじが図面のように見渡せた。わずかに残った建物は、県庁・市庁・裁判所・図書館・日本銀行ぐらいのものであった。
 久万警防団員は、後続車で送りとどけられたたき出しのにぎりめしを食べた後、直ちに県庁前に全員集合し、県警察の命令によって、避難民の救護、久万から持って来たたき出しの分配を行った。あちこちでくすぶる煙と油脂のにおいがたちこめ、死体が日光をうけてふくれ上がって光っていた。
 ボロボロの衣服に焼けただれたからだをひきずって、焼け跡に二人、三人と帰ってきはじめた。市民の顔は人間のそれではなかった。
 それらの人を見つけては、一人一人たき出しを配って回った。被災者たちは、焼け落ちたわが家のあとに腰をおろし、ただぼうぜんと、たきだしのにぎりめしをほおばっていた。