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久万町誌

1 三坂峠

  旅人の歌のぼりゆく若葉かな
 この句は、松山が生んだ俳聖正岡子規が、三坂峠に立って作ったものである。
 標高七二〇㍍の三坂峠から眺める国立公園瀬戸内海の島々と、松山城を中心とした松山平野、遠くにかすんで見える中国山地の山々などは、旅人の旅情を慰め、旅の疲れを快くいやしてくれる。
 この三坂峠は、藩政時代に要害の地として重要視されていた。松山藩では文久年間(一八六一~一八六四)、すなわち国論沸騰し、内外ともに多事多難のとき、台場を築き、六斤砲二門を備えつけた。慶応年間(一八六五~一八六八)に入ると、面河村の若山より産出した銅を使って、前よりも大きな砲二門を鋳造し、ここに備えつけたという。この三坂峠が敵からの侵略を防ぐために、いかにだいじな所であったかがうかがい知れる。
 三坂峠からの景観を賞して有名無名の客が訪れている。記録によると正岡子規は明治一四年と二二年に訪れ、友人と共に漢詩を残しており、その詩碑が昭和三六年九月に建てられた。次はその碑文である。
  ○ 三 坂 即 事
  草履単衣斑竹杖
   (草履 単衣 竹杖 斑なり)
  孤村七月聴綿蛮
   (孤村の七月 綿蛮を聴く)
  青々稲長恵原里
   (青々稲は長ず 恵原の里)
  淡々雲懸三阪山
   (淡々雲は懸る 三阪の山)
○ 越 三 坂 嶺
  三坂山頭凸又凹  三坂山頭 凸また凹
  層層雲霧掛松梢  層々たる雲霧 松梢に掛る
  寥寥市遠人行少  寥々市遠く 人行少し
  無奈山家乏美肴  山家美肴に 乏しきをいかんせん
○ 三 坂 望 松 山 城
   欹危小径砲晨行
    (欹危たる小径 晨を破って行く)
   松田蒲森絶世情
    (松樹蒲森 絶世の情)
   独停竹節回首望
    (独り竹節を停め 首を回らして望めば)  
   白雲湧処是松城
    (白雲湧く処 これ松城)
 昭和五七年四月には、稲田山頭火の句碑もできた。
  正面 秋風あるいてもあるいても
  側面 晴れたり曇ったり酔うたり覚めたり秋は行く
 揮毫は、松山市の一草庵主、白扇がしている。
 愛媛と高知を結ぶ重要な動脈として、国道三三号線が開通したのは明治二五年である。以来、その沿道はいろいろと変化を遂げてきた。高知までの長い道のりを、なんとか楽しんでもらおうと、沿線に桜を植えたりもした。特に昭和三五年には町当局の側面的な援助のもと、峠に有志の手でバンガローや展望台を作ったりした。三六年には「久万桜樹会」を組織して桜を植えたりもして、観光地としての足がかりを作った。
 四一年七月、伊予鉄の手によって、三坂峠の町有地にドライブインが建設された。このことで三坂峠が観光地として、春の新緑、夏の納涼、秋の紅葉、冬の雪見と、四季を通じて観光客に楽しんでもらえることとなり、足を止める人も多くなった。
 また、愛媛県は昭和四二年に、三坂峠を含めて「皿ヶ嶺連峰愛媛県立自然公園」の指定を行った。