データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

1 史実にみられる農業生産

 農業生産物についての記録は、「久万山手鑑」による寛保前後(一七四一)のものしか見当たらないし、作付反別、反当収量も全くわからない。
 記録のある作物は、当時、藩が課税の対象として指定(ある作目は現物、あるものは現金として)したものであって、今日でいう商品化作物である。記録には、久万山の産物として米・茶・麻萼・真綿・藹藤・炭・漆・焔硝があげられている。
 初代松山藩主松平定行が、伊予に着任したのは、寛永一二年七月(一六三五)で、この定行が宇治より茶の実をとりよせ、久万地方に茶の生産を奨励した。これが、久万地方の茶の始まりだといわれている。
  人 蓼
 享保七年(一七二二)に久万山産の人蓼を、松山藩が初めて幕府に献上している。この人蓼というのは朝鮮人蓼にかわるものとして、野生の「とちばにんじん」を献上したのではないかと思われる。
 享保七年九月七日の「勘定奉行大久保下総守殿よりの御渡書」というのに次のようにでている。
 「伊予岡久万山
  「右山に人蓼生候処有之由に付、弥其通に候哉左候はゞ人蓼生候山二ツ有之内一ヵ所之山者五ヵ年も留山に致置一方の山を有来之通、所之者も入候様に致し候はゞ人蓼も多相増可中倒、尤五ヵ年過候はゞ又一方之山を差留、右之通かはるはる留山に致候はゞ、所の痛にも成間敷候哉、右之儀吟味之上、人蓼生候はゞ可被差出候事(垂憲録拾遺)」
  久万山製紙業の発達(御手山半紙)
 久万山製紙業は、幕末の状態から推測すると、かなりの発展を遂げていたようである。久万山に製紙業が発達した原因は、久万山住民の生活自身と松山藩の諸制度であった。すなわち、久万山の農民の生活は、風土の制約のために少なからず辛抱を余儀なくされていた。階段式の水田に水稲を作っても反当収量は少なく、栽培期間も長くかかった。風土を考慮せずして収量のみを考え品種を選んだとしても、その実はあまり上がらなかった。麦作も行われるが、反当約一石で県下の最下位であり、総じて裏作は極めて少なかった。
 これは、一、二の例であるか、このように自然条件に左右されることが多かったため、風土に適した楮の栽培と紙すきの産業は大きな意味をもっていた。その上に、松山藩には租税制度において銀納を行った形跡もあったが、幕末には松山市立花橋の南東に紙役所があったのをみても、少なくとも久万山農民の納税のために、紙・楮の果たした役割は大きい。
 松山藩が、道後平野と高縄半島西岸及び久万山を所領として、その領域内における可能限度の自給をもくろむとき、藩の御納戸と称せられる久万山の特異な地位が明瞭になってくる。そして、その一部分となっている紙が、御手山半紙として採用された理由もわかる。
 これらの条件が久万山の製紙業に拍車をかけ、久万山の村々に製紙業を普及させていった。米作を主体とする明神村を除く久万山の六か町村には、それぞれ製紙業者がいた。
 御手山半紙の仕向地はもっぱら松山であった。したがって、紙を藩管事業とした大洲藩は、松山藩に属している久万山へ品物を搬入することは許可しなかった。また、松山藩も絶対に大洲へ出荷しなかった。それは、大洲藩がとった父二峰村における密売事件の処罰をみても明らかである。
 久万山各村の紙は、代官所のある久万へひとまず集荷され、それから城下ヘ送り出された。運搬は、ほとんど馬で、紙を積む馬のことを紙馬とよんでいた。村々から久万までの紙馬は、日帰りか一夜泊りの行程で、これには各村の馬方が当たっていた。久万から城下までの運搬には、久万山の馬方も当たっていたが、多くは三坂峠の麓の荏原、中野の馬方が当たっていた。かれらは、まず久万へ来て紙馬を仕立て、その夜は自宅に泊まり、翌日松山へ運んだ。そうして、雑貨などを買い求めて帰った。荏原や中野の馬方がこれに当たったのは宿賃関係からであり、宿賃のいらない三坂の西麓にこのような職業が増していったのは当然である。(郷土地理論文集)
 明治二〇年発行の伊予温故録によると、上浮穴郡の物産として次のようなものが記録されている。
   上浮穴郡物産
  若櫪欅扁栢之類・久万大豆小豆・綾布・柴布葛布鹿者・蘭・山葵・扇茄子・橘子・煎茶・甘艸・番茶・蕨粉・硝石・鹿瞿・カモシカ・奉書紙・椙原紙・仙花紙・久主面河川鮎・露峰伊予簾・小田大豆小豆・板類・木材・椎茸・大麻
 明治四三年、久万町郷土史にはじめて各町村別の作物反別、生産量の記録を残している。
 徳川期の米の反当収量は、大体一石とされていたが、この時期の反当収量はどうなっていたかを、県の平均反当収量の動きによってさぐってみよう。県の平均反当収量は表のとおりである。
 明治政府の勧農政策は、爆発的人口の増加に追いつけず、二六年から三〇年にかけて年平均五○万石の米を輸入している。
 政府は軍事上からも、米の増産の必要性を痛感し、また、地主擁護の立場から明治二九年には日本勧業銀行法、農工銀行法、三二年には耕地整理法と、相ついで農業に対する金融制度、助成措置を講じた。更に、私立、県立の農業試験場を設けて、品種改良、病虫害防除、施肥改善と、増収のためには労力を惜しまず投人するという集約農法を奨励した。
 明治三四年、県令で害虫駆除予防規則を改正して、常水苗代から短冊型の水をたたえぬ愛媛苗代への切りかえを強制し、更に、三八年には同じく県令で正条植えを強行して、警察官の立合で普及するという強硬手段をとった。大量の違反者拘留、科料に処したという記録かある。
 このような努力が、結局は徳川期の二倍に近い米の生産をあげたのである。

明治42年の各町村別農産物

明治42年の各町村別農産物


明治中期における愛媛県の米収量

明治中期における愛媛県の米収量