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久万町誌

2 穀物中心に移る農業

 大正年間の記録はないが、昭和一〇年、一一年産の麦類及び一〇年産の米の県統計があるのでこの記録を検討する。
 裸麦は、水田の裏作の場合は反当平均約四俵一斗、畑は三俵二斗(いずれも一俵の重さが六〇㌔)となっている。
 米は反当平均収量が約五俵で、明治末期の愛媛県平均収量とほとんど差がない。
 統計資料のとり方は、この当時各地区に調査員を委嘱し、毎年県からの指導もなされており、かなりの正確さをもったものである。
 この県統計は、県が主体となり、各町村の協力を得て明治三四年から昭和一六年まで続けられたものである。戦争のため一時中断したが、昭和二三年から再び始められている。
 戦時中は、食糧が軍需物資としてきびしい統制経済下におかれ、収穫までに二度の予想収穫調査報告の義務づけを行っていた。それらの資料は、強制割当供出の問題も含めて秘密扱いとされたようで供出量の記録はない。
 第二次世界大戦後の第一回の調査は昭和二三年である。このころは、戦時中以上に食糧難で、占領車の監督のもとに強制割当供出がなされていたのである。
 供出の対象となった農作物は、米・麦・甘藷・馬鈴薯で、その代替供出としてトウモロコシ・大豆が認められていた。
 供出は、反別(田畑)と地力を基本として町村長の責任において各組長に割り当てたが、組と組の間が不均衡であるとか、過重割当だとかいって徹夜で議論をしたことがしばしばであった。
 また、割り当てを越えて供出をすれば、衣料や肥料などの報奨もあった。
 ともあれ、供出量において米が一万三一二二俵・麦が一七六五俵・甘藷四万二七五○貫・馬鈴薯七万八八一六貫が出荷されている。米り割当供出は、雑穀の代替えにより、かろうじてその責を果たしている。
 後述の久万町米販売高記録をみても、供出体制が大幅にゆるんだ昭和二六年以降においては、三〇年にはじめて、二三年実績を上回る販売があったに過ぎず、当時の強制割当供出がいかにきびしいものであったかをうかがうことができよう。

昭和10~11年旧町村別麦生産調べ(愛媛県統計)

昭和10~11年旧町村別麦生産調べ(愛媛県統計)


昭和10年久万町米生産高調査(愛媛県統計)

昭和10年久万町米生産高調査(愛媛県統計)


昭和23年度供出実績表・昭和23年久万町主要農産物(愛媛県農林統計)

昭和23年度供出実績表・昭和23年久万町主要農産物(愛媛県農林統計)