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久万町誌

7 産業の発達と関東大震災

 第一次世界大戦の好景気をきっかけとして大正期はいろいろな産業も発展した。
 製糸業も盛んになり、大正五年ごろになると「米作りも稀有の豊作で農家の収入は予想外にのぼり、歓声四方にあがり、撃壊鼓腹の状態」となり、一一月の糸価は一四〇七円を示し、本県の繭産額は一〇万石を突破したという。
 西松岩太郎が久万製糸工場を笛が滝公園入口附近に作ったのもこのころである。また西松岩太郎が松山の井上要・大本貞太郎・坂本徳松らにはかり株式組織による製糸会社の設立をはかったのもこのころである。
 その他の織物業も今治を中心にして盛んとなり、松山を中心とした伊予絣・南予の綿布製造・紡績業・東予を中心とした製紙業など時々の景気に左右されながらも盛んになっていった。
 発電事業も大正の初め伊予水力電気株式会社による柳谷村黒川発電所の新設があり、電灯も点るようになった。大正五年には久万水電によって電灯五七〇灯を点灯した。
 鉱業も欧州大戦の勃発でアンチモニー・銅の価格が暴騰し、県内の諸鉱山は異常な活況を呈した。大正六年ごろ上浮穴郡内で九か所の試掘が原鉱業によって行われている。
 海運業でも大正五年以後未曾有の活況を呈し、山下汽船会社社長山下亀三郎は船成金といわれた人である。
 また大戦が終わると世の中は不景気になり、大正九年には早くも恐慌がおとずれた。大戦中に破壊されたヨーロッパ諸国の諸産業は復興し、これに圧迫されて、我が国の輸出はふるわなくなり、大戦中に拡大された生産組織で多量に生産された製品は、消化力の低い国内市場ではさばききれず、海外市場へ投げ売りしなければならなくなった。
 しかし外国では自国の産業を守るために、日本商品の輸入をことわるようになった。貿易は再び入超となり、産業界も不振となった。
 中でも輪出に依存していた紡績業や製糸業は事業を縮小したため、失業者は続出し、農村では農産物の価格がさがったため、中小農民は没落した。
 その上、大正一二年九月一日関東大震災が起こり、東京をはじめ京浜工業地帯が全滅して、経済界はますますひどい痛手を受けた。
 関東大震災は地震の上に火災が起こり、関東全域、静岡、山梨にわたる大災害であった。
 全壊一二万戸・全焼四二万戸・死者行方不明一四万名に及んだ。全国各地から見舞として、食糧品衣料品などが送られた。上浮穴郡でも梅干など送って見舞をしたのである。
 こうして大正期は一五年で終わり、昭和へとひきつがれるのである。