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久万町誌

6 紀伊守利直

 大野系図に見える朝直は、「予陽河野家譜」及び庄屋文書類では安芸守直家とあり、土佐長宗我部氏に対抗する将として衆望をになって迎えられ大除三代の祖とされているが、別にさしたる軍功も記されていない。あるいは、このころ久万・小田郷は小康を得ていたと見るべきであろうか。朝直の死は永正一六年(一五一九)七月五日のことで、行年四九歳、法名を口称院殿唯心即是大居士という。
 天明六年(一七八六)上川村庄屋大野和五郎直尚の手記に、久万町万徳山口称院法然寺は、天正文禄のころ加藤嘉明の臣佃十成が、往古入野村にあった口称院という小堂を移し再建したものと伝えるが、入野村のロ称院というのは朝直の法号からみて、彼の建立したものか、あるいはその墳墓ではなかったかと推定している。
 三四代利直は明応二年(一四九三)三月一五日、朝直の長男として生まれた。母は河野通秋の娘、幼名を高寿丸、永正二年(一五○五)一三歳で元服して弥二郎、右衛門太夫、紀伊守に任官している。
 天文一三年(一五四四)、五二歳のとき長男友直に家督をゆずったが、その友直が翌年死去したため、利直は、再び大除城主となり、天文一七年、友直追善のために菅生山大宝寺に梵鐘を寄進している。
 この鐘は現在石手寺にあって、国の重要文化財に指定されており、鐘銘に、「菅生山大宝寺一山大法主、大旦那大伴朝臣大野紀劦利直」の文字、また、「天文十七戊申十一月吉日」の文字があるから、疑う余地がない。
 この前後、利直は周布郡剣山城主黒川通俊と結んで久万山勢を率い、井内峠を越えて戒能通運を小手が滝城(川内町大宇井門、中野の東方、標高五二〇㍍)に攻めて激戦を交え、その用水を絶ったため城は陥った。通運は逃れて、更に大熊城(川内町大字則之内、惣田谷、標高九〇五㍍)に拠ったので、利直・通俊らは進んでこれを囲んだが、この山城は一ノ森、ニノ森、三ノ森と三段の急峻をなした要塞で、攻めるに困難をきわめた。遂に空しく囲みを解いて退いたが、勝に乗じた城兵の追撃が急で、黒川通俊は馬を射られて遂に自殺し、利直はかろうじて久万山に引きあげた。
 この戦いは利直と浮穴郡棚居城主平岡房実の不和に原因し、平岡の一党である戒能を攻めたものといわれる。果たしてそうであればこれははなはだ不義理な戦いである。平岡房実は河野の一族であり重臣、その娘は利直の妻となって四男直昌を生んでいる。いわゆる政略結婚というものであろうか。義父との不和は特別な事情あってのことか、あるいは戦国の弱肉強食の自領拡大にあったのであろうか。
 その後も黒川通俊の子通堯は、利直に協力を求めて大熊城を攻めたが、平岡及び久米郡岩伽良城主和田通興が戒能を援助するため目的を達することができなかった。
 越えて天文二二年(一五五三)、再び利直は兵を起こして平岡の支城である拝志郷の花山城を攻めて、これを陥れ、家臣森家継に数百騎をつけてこの城に置き、凱歌を奏して久万山に帰った。
 この年、利直は四男直昌に家督を譲り、天正八年(一五八〇)七月一四日、八八歳で死去した。法名を威徳寺殿儀山道雍大居士という。

利直が菅生山大宝寺に寄進した梵鐘の刻文字(現在石手寺所蔵)

利直が菅生山大宝寺に寄進した梵鐘の刻文字(現在石手寺所蔵)