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久万町誌

5 大野氏と大除城

 応仁の乱は一一年続き、京の町を焼き払って文明九年(一四七七)に終ったが、郷国に帰った諸将は敵味方それぞれ怨恨を含み、かつ自領の拡大を企てて、全国は戦乱の世と化した。これがいわゆる戦国時代である。
 文明一一年(一四七九)、細川義春は阿讃の軍勢を率いて伊予国に進功して来た。この共同の敵に対して予州家の通春も湯築本家に協力して善戦し、西讃に撃退することができたが、その後は再び反目が続いた。応仁の乱のとき、大野通繁は伊予にいて西軍山名方として数度の戦功があったが、通春に通ずる彼の立場は湯築河野家と不仲となり、混乱の中で長享二年(一四八八) 一一月四日に討死している。
 通繁討死のあとは、長子冨直が早世したため、通繁の弟の綱直が四四歳で三二代の総領となった。その後も引き続いて戦いが行われたが、明応元年(一四九二)に綱直と湯築の河野通秋の間に和議が整い、嗣子朝直(実は通繁の次男)と通秋の娘の婚儀が成立し、同九年三月一五日、本領安堵の御教書も発せられた。
 三三代朝直は文明三年(一四七一)七月一八日の誕生で幼名千寿丸、同一五年に一三歳で元服、同年大田郷上川村の蔵王大権現を中原景義に命じ、再興させる等のことがあった。永正五年(一五○八)、三八歳で大内義興とともに上京し、三好合戦に加わって負傷して将車義稙から懇ろな言葉を受けたりしている。翌年六月大除に帰り、七年家督をうけ左近将監安芸守に任官した。
 大野氏の拠った大除城址は国道三三号線が三坂峠を越して明神を過ぎ久万町に入ろうとする左手、仰西渠の遺跡から川をへだてて見上げる高さ約二〇〇㍍の山頂にある。南北に流れる久万川が山麓をめぐり、川に沿う街道筋を扼する要害の地にあって、平常居館のあった槻の沢部落から城址に登ると、久万盆地が一望のもとに望まれ、西南方指呼の間に幕下の番城入野天神森城址と相対して、三方切り立った険しい地形で屹立している。東側だけが裏山の「茶蔵」に続き、この地点にはから堀や石るいで防塞を施し、それに続く裏山の所々にも大がかりな防禦工事の跡が残っている。城址は「天守台」と称する高台を中心に南方予土国境に向かって、扇形に二段ずつ東西に広がり、天守台の裏手には、苔むした石垣が往時を偲ばせ、昔より「入らず」と称した城山東山麓には、今は水が枯れてしまっているが古井戸も残っている。
 また山麓の槻の沢には、殿様が使ったという不浄の者を忌むつるいや「馬場柿」と称する柿の古木、直昌屋敷と伝えられる俗称「そえの畑」等があり、ホノギとして「かまえ」「射場」「堀」「城の岸」「古寺」「蔵が森」、家号として「中鍛治」「射場」、地名として「鍛治屋敷」「店町」「茶蔵」等が残っている。また、裏山には俗称「直昌つつじ」と称するひかげつつじが群生し、これを他の場所へ移すと必ず枯れるという伝説が古くから部落に伝わっている。もちろん当時の城は兵農分離以前のもので、平時は槻の沢にあって耕作と軍事の訓練をし、いざ合戦となると住居を引き払って兵糧、武器を携えて城に立てこもる手筈だったと思われる。城といっても簡単なもので臨機にあり合わせの材木等で周囲に柵を立てめぐらせ、防戦する程度であったのであろう。「予陽大野軍談」には当時の事情を
  久万太田辺り山嶮しうして、その峠に城を築き、から堀、草屋根の風情とはいえども、攻撃する時は大石大木の箇切れを転ばしかけ、槍を走らかし、矢を射かけ、大敵といえども女童まで防ぐ便となり
と語っている。
 大除築城については「予陽河野家譜」に、
  久万山は伊予土佐両国の境にあって山高く谷深く嶮しい地形をしている。住民も多くこれまで他国の侵入を受けることもなく平和な生活を楽しんでいたのに、先年来土佐の一条家が兵をくり出して防戦に困難となって来た。そのため道後湯築城主河野氏は久万山明神村に新たに山城を築いて大除城と名づけた。大除とは敵をはらい除くという意味で、宇津城主大野安芸守直家を迎えてこの新城の城主として久万小田地方の守りとした。これ以来、土佐よりの侵入もなく住民も安らかに生活している。
と記してある。また「大野直昌由緒聞書」には
  小川五千石の地は日野・林・土居・安持の四人で支配していたが、土佐の長宗我部元親がたびたび侵入して苦しむようになった。四家は長宗我部に対抗するような勇将を推戴する必要があると話し合ったが、河野氏は年若く一家中をおさめるのに困難な程だから頼みにならない。さすれば宇津の大野殿をおいて外にない、家柄といい人柄といい申し分なしと決議して、久万十八家の舟草・明神・山之内・政岡・平岡・森・立花・菅家・梅木・山下ら河野氏の家人に申し送った所、みな喜んで賛成したので、直家を大除域に迎え入れ、何れも家来としての忠誠を誓った。
と記してある。
 ここに出る直家は大野系図にはないが、おそらく朝直と同一人と思われる。大除築城は年代不明であるが、郷土史家伊藤義一は「大除築城は長禄寛正、つまり一四六〇年のころであり、あるいは朝直のとき大修理を加えたのではないか」といっているが、浮穴郡大田郷上川村庄屋大野和五郎直尚の書き残した天明年中の覚書にも「寛正五年ニ久万出雲入道ノ跡三百貫ヲ領シテ大除に砦ヲ構ヘラレシハ相違無之モノ也」とも記されている。

大除城址(1955、6、12測量)

大除城址(1955、6、12測量)