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中山町誌

五島 キヨミ (ごしま きよみ)

 中山町泉町木炭業上田家の四女として明治三四年(一九〇一)四月生まれたが、母方の五島家の養女となって、五島キヨミとして育った。生来勝気で聡明、思った事は必ずやり通す根気強さを持ち、中山校の高等科を優秀で卒業後松山技芸女学校に入学。卒業後上灘小学校に職を奉じ、やがて中山小学校に勤める様になった。一時家庭の都合で退職し、砥部小学校へ復職、ついで中山小学校訓導兼実業補修学校助教諭となって郷里の教育に専念した。四年後松山技芸女学校に転出し、四年間女子教育に努力した。
 昭和二三年松山味酒小学校PTA副会長に選ばれ、一三年間家庭教育の推進と学校環境の整備充実に奔走した。また終戦直後より一七年間、味酒婦人会長にも推され日本婦人の民主化、家庭生活の合理化に献身的努力を払い、味酒婦人会を松山地区有数の優良婦人会に育て上げた。特に婦人会貯蓄組合の活動は全国に名を高めたと聞いている。
 多年の念願であった、「家庭的に恵まれない子供達を養育する養護施設」の許可が昭和二八年六月に下り、これより親和園経営に最後の努力を傾注した。父母のない者、父母の愛を全く受けない子ら一五〇名を預かり親代りとなって暖かく育てた。もちろん主人五島伝の理解ある援助もこの道を助け、園児は明るくすくすくと伸び、また園舎は一期二期三期と順調に増改築された。宿願も一応完備して、これから理想的園児教育に取りかかろうとしたが、しかし、竣工式(昭三八年一〇月二五日)祝典の謝辞半ば脳卒中で倒れ、遂に不帰の客となった。
 『不正には極度に反発する潔白な性格の人で、善と思い正しいと信じる事は敢然と実行に移す強力な実行力の持ち主であった。それでこそ一切の私財を投げ出してあの立派な養護施設親和園の設立と経営に成功する事が出来たのだ』と万人に称えられている。昭和三八年一〇月三一日勲六等瑞宝章を受けている。