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中山町誌

小西 平内 (こにし へいない) (小西金久)

 明治三二年(一八九九)佐礼谷日浦に小西磯吉の長男として生まれた。家が貧しかったため、村の小学校を高等科二年の時中退し、村の鉱山で働いていたが、志を立てて、大正五年三月一八才で上阪した。初めは学問の必要を感じ、商家に奉公のかたわら独学勉励し遂に関西大学に入ったが、不運にも病にかかり、法華の宗門に入信、名も平内と改めた。
 大正一四年以来楽焼が特殊な芸術品であることを思い、この道で名を成そうと決心し、昭和三年頃伊予市の江山焼を見学して大いに得る所があった。さらに昭和四年、五年にわたり道後水月焼、好川恒方翁に師事寄寓し自己の天才的な手先の器用さを生かして研究を重ねるうち、昭和一六年春甲子園ホテル内に在住の時、縁あって川喜田半泥子翁に入門師事、同時に登窯を築いて本焼きをも始めるようになった。その後、昭和二〇年以降有馬山中に居を移し、登窯及び楽窯を築いて作陶に努めた。こうして日中戦争前早くも多くの名士の後援を得て、東京で帝展に出品の準備まで出来ていたものを、太平洋戦争にあたり、美術品は贅沢品といわれて一時不況に沈んだ。しかし戦後再び楽焼は愛好されるようになり、殊に茶道の発展と共に作品も大いに認められ始めた。
 戦時中耐え忍びつつ克く研究し、寸時も陶芸から心を離さなかった氏の努力がここに実り、優れた芸術作品は天下に聞こえ、氏の名声もにわかに知れ渡った。中でも五島慶太翁の絶大な後援により、待望の第一回個展を東京東横百貨店で昭和二九年三月に開催した。そして、第二回個展を、大望抱いて故郷を発って四〇年目の昭和三〇年秋に郷里松山で開催し得た時の氏の感激はいかばかりだったろう。
 電灯も無い有馬の山中に住んで黙々として焼いていたが、質素で誰でも親しめる氏の人柄が焼きものの上に、形に、釉に現れ、その後、宮西市甲山大師前で又新しい意欲を持って伊賀焼きに専念した。その後、昭和三九年引退、二代目平内に譲り自らは太平とした。平成三年四月一七日逝去。