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中山町誌

第二節 相撲

 相撲は力とわざによって行う競技で、角力とも書く。円形の土俵の中でまわしを締め、素裸で一定のルールに従って相手を倒す、もしくは押し出して勝負を争う。
 相撲は古来国技と称せられているように、一般の人々に親しまれて来たものであるが、本町においても元来催物や娯楽の少ない田舎であったために、各神社の祭礼に当たって奉納行事として催されたようである。いつ頃から始まったかは古い資料がないため判明しないが、古老の話によると、江戸末期、嘉永年間(一八四八~一八五三)には既に行われていたということであるから、それより古くからの歴史を持つと思われる。
 江戸末期から明治初期の当地で活躍した力士は、
泉川、初代昇藤(大矢-上岡家)、成の石(野中-成岡家)、錦山(大矢-太田家)などがいる。
 当地出身の行司岩井茂太郎の碑文には、

「明治二年廿三才にして行司となり、廿五才にして角力大世話方となり、明治四十三年以来定例旧八月五日永田神社境内大角力創始及び存続に最も功あり、今年八十五才の高令を以て意気尚壮者を凌ぐ
 昭和六年八月建之
 昭和十年一月三十日、八十有九才を以て歿す」

と記され、永田三島神社境内に碑が建立されている事から考えてみると、それまでは当神社の祭礼日に催されていたようである。
 当時西尾伝二郎、新崎弥吉、大村平吉、谷口清蔵が勧進元世話方となって角力の振興発展に尽力し、いわゆる宿角力として県下各地から力士を招いて、毎年継続して盛大に角力大会が挙行されていた。かくして本町の年中行事の中でも、最大なものとして親しまれて来たのである。
 当時出場した力士は県内は勿論、県外各地からも多数参集し、その人気を集めた。参加力士は次のようであった。

 一 宮(宇和島)  日吉川(日 吉)  小城浜(宇和島)
 大見嶽(西宇和)  要 岩(伊 方)  大江山(大 洲)
 男 山(長 浜)   三熊山(大 洲)  早 船(野 村)
 大 錦(松 山)    九紋竜(松 前)  勇 川(小 田)
 国 松(小 田)    羽 衣(筑 前)  筑紫川(久留米)
 王 笹(余 戸)   濤の音(道 後)  若 勇(松 山)
 満 月(広 島)   三日月(広 島)  島根山(島 根)
 磯 柳(小 田)   伊予ヶ潮(松 山)  竜浜(立 山)
 高の浜(高 浜)   千船山(松 前)

 なお大正年間には大阪角力の巡業興行を二回招いて行っていることを思うと、当時の盛況が窺われる。
 また当地出身の活躍した力士としては、

 昇 藤(影之浦)  生駒山(栗 田)  伊勢松(栗 田)
 玉城山(栃 谷)  金ヶ崎(高 岡)   灘 海(泉 町)
 文字崎(豊 岡)  六升蒔(平 村)

などで、多数の力士を出している。
 大正末期より昭和一〇年頃が、宮角力として最も盛んに行われた時代である。各神社の祭礼日に当地をはじめ近隣町村より力士が招かれた。
 当時の活躍した力士としては、
 小田国盛、本川米吉、米田武美、森忠彌、堀高徳、新岡富長などがいる。
 日中戦争・太平洋戦争が始まった頃、青年の士気を鼓舞することで盛んに青年角力が行われ、郡大会でも優勝し輝かしい記録を残している。またその当時各町村の神社の祭礼には、宮角力として町村対抗青年角力大会が行われていた。
 青年団の主な力士は、
 宮田鷹雄、西岡知教、亀田實美、森平實衞、橡木武雄、大松利通、橡木忠男、磯岡義久、北野秀雄、平岡清光 等である。
 かく長年盛況を極めた角力も、大戦後昭和三〇年頃までは永田三島神社で催されていたが、時勢の推移に伴い、地方力士の減少と、経費の増大などの関係上衰退し現在に至っている。
 昭和二七年四月、西尾藤衛が世話人となり、日本角力元双葉山の時津風部屋を招き、中山小学校校庭の特設土俵で興行をした。
 その時の主な力士は、鏡里、大内山、不動岩、時葉山等である。この時の記念の献額が永田三島神社拝殿に奉納されている。
 続いて日本角力佐渡ヶ嶽部屋を招き、永田三島神社で興行を行っている。
その間にあって、本町角力道に尽力し功績のあった西尾藤衛に対して、時津風親方(双葉山)より門人に差加えられ、地方世話役に取立てられる旨の免状を授与されている。
 また今岡政繁雄が世話人となり、再度(昭和二九年四月)日本角力時津風部屋を招き、永田三島神社で興行を行っている。その時、西尾藤衛と同様に時津風親方(双葉山)より免状を授与された。