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中山町誌

第一節 スポーツの流れ

 本町では山間僻地という地理的悪条件にも拘らず、スポーツ振興に力を入れてきた。特に数多くの先輩諸氏が熱心に指導されたので、他地方に比べても、早期から充実・発展できたのである。その振興母体となったものは渓友会であった。即ち渓友会の発展は、中山町スポーツ界の進展を物語るものであるといっても過言ではない。

 渓友会
 明治末期頃、中山小学校に勤務していた茶野伊衛門、妻鳥暁太郎、阿部十拳らが発起人となり中山小学校を中心に渓友会が野球・庭球などのスポーツ振興を目的として結成された。そこで町内のスポーツ愛好者は続々と渓友会に入会し、急速に運動熱は盛り上がり、その活動も盛んになった。
 当時、中山町から県下の各中等学校に進学していた生徒は、既に小学校時代から教師茶野らの指導を受けていた為、基礎的な技能をある程度身に付けていた。それで入学後も選手として活躍した者が多かった。
 こんな影響もあって、町内のスポーツ界は益々発展向上した。渓友会員は県下の庭球大会にも多数出場し、次第に優勝することも多くなった。そうする内に、渓友会の存在は県下でも認められるようになり、渓友会主催によって県下の庭球大会を開くまでに発展した。昭和六年には当地において県規模の庭球大会を開催し、当地出身の市岡冬太郎によって優勝旗の寄贈も行われた。なお、県下各地即ち松山・八幡浜・大洲・内子・郡中からも一流選手が多数参加し華々しく盛大に催された。その後も長年引き続いて実施されたが、戦時中には運動具の不足や選手の減少によって次第にさびれていった。
 終戦後は漸くして運動熱も戻り始め、昭和二二年(一九四七)頃になると運動愛好者によって渓友会復興の気運も盛り上がってきた。また、昭和二五年頃から島田稔等の斡旋によりP・C・Mの会の組織も結成されて、庭球・野球等の体育の振興を見るに至った。当時は資金も乏しく遠征もままならなかった。そこで有志の寄付及び事業によって資金獲得に努力し遠征などにも参加した。
 その後、愛好者の発起により中山野球倶楽部が結成された。
 また戦後になって社会体育も重視され、教育委員会の中に中山町社会体育推進のための機関が設置された。大きく分けて、指導委員連絡協議会、公民館による体育活動の推進、中山町体育協会、中山町スポーツ少年団等である。「すべての住民が参加するスポーツの推進」を目標として活動している。
 体育協会は昭和五七年(一九八二)に設置され、八連盟が作られ、それぞれ何チームかが活動している。そして、連盟により年何回かの試合がもたれ、町外との試合もあり、活動は活発である。
 スポーツ少年団は各小学校区ごとに支部があり、男女とも町内外において活躍している。また、公民館は町民すべてのスポーツの推進という面から活躍しているし、近年は町外との試合で好成績を収めている。
 ともあれ、中山町民憲章の「スポーツの輪を広げ、健やかな明るい町をつくりましょう」に則り、町民運動場の開設とともに、体育の進展は目覚ましいものがある。
             (詳細は社会体育の項参照)