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中山町誌

一三、 その他

 ア 蓑 笠
 小池・大矢を中心に、農家の冬の副業として古くから生産され、港湾荷役や、農業労働者の雨具として愛用された。昭和一六年農会技師西岡進が規格を統一し、特産品として売り出し、戦後も広く県外まで出荷して農家経済を潤すところ大であった。昭和二〇年代末期まで一部農家で製造されていたが、化学製品の雨具の普及に伴って姿を消していった。

 イ 楮・三椏
 大洲藩政下における特産品として、その栽培の歴史は古いものとされている。統計資料によると大正一三年における栽培面積は、楮七五〇反・三椏二一○反で、生産量は黒皮で楮七、五〇〇貫、三椏五、〇四〇貫となっており、生産額は八、七五五円である。昭和九年には楮三八〇反、三椏二〇〇反に減少し、生産額も一、九五四円と減少している。
 楮・三椏は和紙の原料として製紙業の盛んな、五十崎町、内子町方面へ出荷されていた。
 楮、三椏の生産は、和紙製造の衰退と共に下降していったが、戦後の二〇年代までは、泉町四と豊岡二に黒皮の製造所があり、大きい釜で茹で上げた楮や三椏の原木から黒皮を製造する「かじむし」や、皮剥ぎの作業が行われていた。

 ウ 和紙製造
 和紙原料とされる楮・三椏の生産地であるところから平沢と平村の一部では古くから大洲半紙といわれる和紙製造を行ってきた。資料によると大正一三年には和紙製造戸数三〇戸で小判紙一、四〇〇締五、六〇〇円を生産しており、昭和九年には二〇戸が製造に従事し、小判紙、チリ紙一一五締、障子紙三三〇締で一、二三八円の生産額となっている。
 和紙製造は、平沢において昭和二〇年代まで続けられたが西洋紙を中心とする製紙業界の発展等によって衰退していった。
 なお当時使用した、漉舟、蒸釜等についても農家改築の際に壊され、本町に現存するものが見当たらない。