データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 重信川の旧河道と集落

 集落と行政区画

 重信川の左岸の久谷大橋と重信川橋の間に広瀬という集落がある。十数軒の集落であるが旧浮穴村分で、今は松山市に合併している。広瀬のすぐ西は旧原町村(現砥部町)の高尾田であり、南東は荏原村(現松山市)の河原である。重信川の対岸に飛地になって旧浮穴村分の広瀬があるのは、重信川の旧河道が広瀬の南を流れていた証拠である。
 伊予市と砥部町に跨って八倉という集落がある。集落の中央を南北の線で二分している。西は旧南伊予村分の八倉であり、東は旧原町村分の八倉である。
 重信川の河口の右岸の垣生村と余土村(保免・市坪・余戸)が、明治三三年(一九〇〇)四月一日に、伊予郡から分離し、温泉郡に合併した。今は松山市域である。垣生村と余土村の北側が、郡境であったのは、重信川を改修するまでは、旧河道であったと推定される。
 宝暦年間の伊予郡の略図(伊予史談会蔵)をみると、重信川・国近川・名子谷川・大谷川・八反地川が描かれ三角州に飛地や新田が分布している。垣生村の今出の西には「宝暦八年御代官所開発新田」がある(図3-38)。


 重信川の旧河道の調査・研究

 旧河道の研究については、松沢巖・鵜久森熊太郎・西園寺源透・村上節太郎・渡辺達矩・橋本経吉・池内長良・建設省松山工事事務所・高市喜慶等の調査報告がある。また重信川流域の地下水については野間泰二・西岡栄の研究がある。
 これを簡単に紹介すると、①松沢巖は大正四年『伊予史談』四号と五号に、藩政時代の石手川の論文を書いた。

石手川の流路は足立重信の改修前は、岩堰から湯月城(今は道後公園)の傍を過ぎ、湯渡校から西流し、持田の中央を一貫し、玉川町辺より二番町を流れて、八股榎に出て、それより南堀端を南に流れて、今の妙清寺辺を過ぎて吉田浜に注入したるが如し。重信は加藤嘉明の命を受け、石手村の岩石を穿ち、流路を南に導き、余土村の市之坪で、伊予川(重信川)に合流せしめ、堤防をつくり、旧河道を埋めて、数百町歩の良田を得たり。

と説いている。また『松山叢談』を引用し、石手川の氾濫と松山の水害および治水工事を述べている。
 ②鵜久森熊太郎は、大正八年『伊予史談』の一七号と一九号に、石手川が松山城の北を流れていたことを、和泉砂岩系と花崗岩系の礫を証拠に論じている。
 ③西園寺源透は、大正九年『伊予史談』二二号に、「松崎城の沿革」と題して、

伊予川はもと上流の高井の里の南方河原の辺より麻生八倉の山根に沿うて流れ、出作大溝などを経て松崎の南方に至って海に注ぎしものなり、かくて沿岸の村落および松崎は、年々水害の煩に堪えざるに因り、大いに土工を起して現在の流域に河身の開鑿を行いしなり。此の普請奉行が足立半右ヱ門重信なりしを以て、其の名に因みて重信川と呼ぶに至れり。この改修流路長さ約二里に及ぶ

云々とある。
 ④村上節太郎は、昭和一四年『伊予史談』第一〇〇号に、略図二つを載せ、昔の地形と水系を推定して描いている。実地調査(昭和九年の夏の干魃の時に、水系を調べ井戸を掘り数十か所でモーターで汲み上げた)と地形図の読図から推定して、現在県道(八倉松前線)の通っている集落の、八倉-出作-神崎-鶴吉-大溝-東古泉-松前の集村の地形が、周囲より若干高いのは、昔の伊予川(下流は長尾谷川)の旧河床か自然堤防の一部と推察している。また余戸-八反地-中垣生-今出の徹高地の道路も、小野川の旧河道と推察し、さらに竹原-生石-中屋-西川-高岡-山崎-御鷹場の道路も、旧石手川の分流した旧河床か堤防の一部と考えている。すなわち村上は、足立重信が伊予川を八倉から西北西の方向に、石手川を湯渡から南西の方向の出合で合流工事をするまでは、道後平野の諸河川は、ほぼ東から西の方向に平行して乱流したと推察している。なお出合から下流は、もとの内川の河道の延長としている。現在西流する国近川・長尾谷川・大谷川および北流する三津の堀川(上流は大法寺川)や和気の久万川などは、重信の改修工事で截頭された河川と考えている。
 足立重信が松前城や松山城を築くために、伊予川や石手川を改修したように、河上安固は今治城を造るため、蒼社川を南に改修しており、入江常真は西条の陣屋を造るため、加茂川を西に付替えるなど類似性がある。
 戦後はブルドーザーで道路改修や宅地造成が容易に、大規模に行われたので、微高地など旧河道や自然堤防の残象が消滅し、旧河道の追跡調査は現在困難になった。
 宝暦八年(一七五八)開発新田のある伊予郡の古地図や、二万五千分の一地形図で湧泉と灌漑用水路を辿ると、河口近くは三角州らしく、小河川の堤防に古い道路があるのがよく判る。八反地川は天井川式で、白水で県道が川底を通っている点を報告している。
 ⑤渡辺達矩は昭和一五年『伊予史談』第一〇三号に「石手川と大川文蔵」の論文を発表した。従来、宣信川とその支流の石手川の改修は、もっぱら足立重信ひとりの功績のように伝えられているのを修正した。享保八年(一七二三)西條藩の浪人大川文蔵が、松山藩に召されたこと。文蔵は重信の造った新河道が河幅が広く河底が浅かったことに注目した。重信の水制工は千鳥掛けの波戸で、鎌なげと称するものであった。文蔵は鎌なげの水制工を改めて、河身に直線的に突出するいわゆる「曲出し」式を採用し、これを両岸から一所に交互に構築したので、以来土手堤の痛みが少なくなり、次第に河がほれて深くなったという。
 『松山叢談』第四巻(二六九頁)に「延宝の頃までは石手川出水には毎々城下へも水溢れ迷惑したる事云々」とある。大川文蔵の治水工事により、その後文政八年の決潰のほかは安泰であった。今日の石手川堤防の松並木は一部枯死したが、樹齢からみて大川文蔵時代のものである。
 ⑥重信川の流路の変遷については、戦後松山工業高校の土木科教諭の橋本経吉が、建設省重信川工事事務所の依頼を受けて、生徒約二七〇人(作業日数四日)を動員し、地下水の調査を行ない、昭和三一年報告を出している。彼によれば、重信川の流路を森松より上流と下流と二つに分け、各四期に分けて流路の変遷を述べている。第一期は約八〇〇年前から約五五〇年前まで、第二期をその後四〇〇年前まで一五〇年間、第三期を三〇〇年前までの一〇〇年間としている。第四期はその後である。青写真で五万分の一地形図に、流路変遷推定線と等地下水位線を入れている。これは短期間の調査で、なお検討の余地もあるが、従来の推定考察よりも一歩進んだ実証的研究である。
 ⑦村上節太郎は、昭和三七年発行の『松山市誌』の第一篇第三章の「重信川および石手川の治水と流路の変遷」の項で、以上の研究報告を紹介し、さらに昭和一八年七月の重信川の氾濫で決潰場所を指摘した。すなわち重信町の下林の森ノ木と開発部落、今の久谷大橋の下の河原、森松の重信川橋の南詰の高尾田、旧北伊予村(松前町)の中川原、旧岡田村(松前町)の北川原と開と塩屋の北方、旧垣生村(松山市)の八反地の南方などの堤防が切れた。当時北予中学校の生徒をつれて勤労動員して復旧工事に協力した体験がある。これら決潰した部分は、いずれも重信川の旧河道の氾濫原であった。自然の力は偉大で、昭和一八年の豪雨は、もとの河道を復原した形であった。河川の流路の攻撃斜面、とくに左岸南側の堤防が、弱く決潰している。
 ⑧野間泰二地質調査所技官が、昭和二九年から同三二年にかけ、松山市の地下水を電気探査した資料がある。昭和三七年発行の『松山市誌』に水比抵抗等値線図をのせて、野間の研究を紹介した。石手川から供給される地下水の透水帯は、(1)道後石手の下流付近から右岸にのび、道後公園と松山城との間を通って城北地区へ向かうもの、(2)城南の立花橋付近から右岸に滲透し、松山市駅付近をほぼ西に向かうもの、(3)支流小野川の合流点付近から右岸側に、西―西北西に向かうもの、などが顕著なものである。これらの主な透水帯は、かつての石手川の流路とほぼ一致しており、その旧河道にあたる地帯は、質量ともに地下水にめぐまれている。戦前松山市の上水道のなかった時代、城南地区は井戸水が多く良質であったのに対して、国鉄松山駅から土居田地区は水質が悪かった。
 ⑨西岡栄は、重信川下流の地下水について、学術報告書を出した(愛大紀要第六部第六巻一号、昭和三五年)。彼は重信川下流の両岸において、南北六km、東西四kmの二四km2にわたり、五〇〇m間隔の方眼の各節点に、既設井戸約八〇余と、測水管約二〇か所を利用して、約一〇〇点の地下水を一週間毎に実測した。その概要は、『松山市誌』第一篇にも紹介している。
 西岡栄の研究によれば、重信川下流の補給量と地下水位の関係は夏季と冬季で差が著しい。五日間の移動平均の期間中(昭和三一年七月二五日から九月二四日まで)の変量は、上流部(大間の東方国鉄との間)二七cm、中流部(岡田駅のすぐ西方)四五cm、下流部(筒井の北方)で二六cmとなった。上流部と下流部は、ほとんど同値であるが、中流部は七〇%大きい。これは中流部で工業用水に〇・二m3(毎秒)を採取して、地域外に導水しているためである。また上流部と下流部では一回の雨量一〇mm程度で、水位が一五cm上昇するに対して、中流部では一〇mm程度の雨量で、三五cmも水位が上昇している。これは中流部の地下水の収束部に流動蓄積されるためと考えられる。夏季は降水量に比べて水位上昇が著しいのは、常時湛水の地下水補給と、全般に土壌が飽和しているためである。これに対して冬季(昭和三一年一一月二五日から一二月二五日まで)の平均変量は、上流部で六cm、中流部で二五cm、下流部で一三cmとなり、いずれも夏季の変量の二分の一程度である。また冬季は二〇mm以下の小降雨による地下水の上昇はほとんど見られない。
 ⑩池内長良は、昭和五〇年『伊予史談』第二一六号に「重信川の流路変遷と問題点」という論文を発表した。池内は慶安元年(一六四八)と天保五年(一八三四)の道後平野の村別の石高の増加率図を作成した。最も増加率(慶安元年を一〇〇とす)の高いのは和気浜の三五五で、これに次いで、見奈良一六六、上村一六四、北河原一五八、太山寺一四六、三津一四三、垣生一四一、大間と浮穴と井門が各一三二、松前一三〇となっている。これらの村々の石高と耕地開発については、更に検討すると興味がある。
 次に池内は重信川下流の条里制の復旧図を作成した。東垣生と柳井田の北側を通る坪割の食い違いが、古代からの伊予郡と温泉郡の境界としている。ここに旧河道があったので、条里の地割を別々にしたものと思う。また出作-神崎-鶴吉-永田-上沖-東林寺に至る幅約一〇〇mの条里制地割の空白地帯を指摘した。これを旧河道と推定している。しかし旧河道は何百年前か、時代的解明は今後の研究に俟たなければならない。慶安から天保の約二百年間の検地の村別石盛の増加と、この条里制の復原図の喰い違いによる指標で、旧河道を追跡する池内長良の方法は、新分野の研究成果である。
 ⑪高市喜慶は、昭和五二年に「松前地区内における旧伊予川の南限と流路の推定」を発表した。彼は自由地下水(上水)と水質(清水かカナケか)を調べ、旧河道を推定した。清水の所は流水地帯であり、カナケの所は滞水湿地帯としている。彼は松前町の全集落三三か地点の井戸水を実地調査した。上水道の設置前(三〇年前)の井戸についても、聞き取り調査を行なっている。今ではカナケのある井戸水地帯で、住宅地に不適当の所も、土地造成が行なわれ、上水道を引いて公共用宅地や住宅団地に利用されている。

図3-38 宝暦年間の伊予郡の略図(伊予史談会蔵)

図3-38 宝暦年間の伊予郡の略図(伊予史談会蔵)