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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

六 郡中と原町の街村

 替地後の開拓村

 伊予市の郡中も砥部町の原町も、寛永一一年(一六三四)までは松山藩領の原野であった。蒲生氏がお家断絶となり、一か年間大洲藩主加藤泰興が在番を命ぜられた。その間に大洲領の風早郡や桑村郡は飛地で、領政上不便という名目で、松山領に替え、大洲藩は地続きの伊予郡浮穴郡の地を得、双方約一万三千石の地域の替地が許可されたのが、寛永一二年(一六三五)八月である。
 当時、今の郡中新川の地方は、牛子ケ原と称して、追剥ぎの出る淋しい松原であった。原町も同じく宮内村と麻生村の間の未開拓の、追剥ぎの出る原野であった。郡中は宮内氏が、原町は大野氏が、寛永一三年大洲藩の許可を得て、免租地にしてもらい地割をして計画的に開発した在町であった。昔の俤が残っている。


 郡中の灘町

 伊予市の中心街である郡中の灘町は、安政元年(一八五四)の絵図(伊予市役所蔵)でも、明らかなように、整然とした町割である。灘町は米湊村分で、上灘村の宮内庄右衛門正信の子の、九右衛門通則と弟の清兵衛正重の兄弟が、寛永一三年に藩に願って開発に着手した。間口七間、奥行一五間か三〇間の短冊型に地割している。一族をはじめ知人縁者隣人を招き、町を形成した。藩主もこれを援助し、町名を灘町、宮内家の屋号を灘屋と称し、免地にして商家が殖えた。
 開拓後三〇年目の寛文七年(一六六七)の幕府の『西海巡見誌』の記録によれば、家数五三軒、舟数六艘、加子数十とある。宝暦五年(一七五五)には灘町の家数一九八軒、内本門三四軒、借家一六四軒、人口七七八、男四〇三、女三七五人。町の長さ五町四一間五尺、舟数三うち一四〇石積二隻、一〇〇石積一隻とある。さらに天保年間には灘町が二五七軒に発展している。
 灘町の開拓者で町年寄の宮内小三郎(襲名)の屋敷は町の中央にあり、間口一七間で、宅地は約一〇〇〇坪ほどあった。東は今の明治生命、西は松岡医院の区域で、昔の俤が残っている。
 大洲藩の郡中奉行の屋敷と藩邸を上屋敷と称し、今の徳本酒造場や町の駐車場の区域である。灘町一丁目の本通り東側に札場があり、西側に町番所、海岸に海番所、その他綿役所、船蔵、藩の役人の住宅などがあった。当時の地図が、町の公民館(市制以前に)と大洲の城戸医院宅に保存されていた。
 寛永一七年(一六四〇)に、灘町の東南端に新谷藩の屋敷が設けられ、これを下屋敷といった。伊予鉄の郡中港駅の南西で、永井病院や黒住教会所や福井富三郎宅の一画で、南東には漢学者武智五友の旧宅がある。


 郡中の湊町

 郡中の灘町の北端を梢川が西流している。梢川より北の街村を湊町と称し、下吾川村の分村であった。初め小川町といい、火災が多かったので、享保二〇年(一七三五)に湊町と改称した。既述の如く牛飼ヶ原という松林で、追剥ぎの出る淋しい原野であった。替地とともに藩主泰興は、漁師町にするため家一〇軒を取り立てたが、衰えて三軒に減った。そこで上灘村の網元の四郎左衛門の父が、願い出てここに住みつき、網子などが来てくれて、繁昌し町並が形成された(伊予市誌)。
 湊町は宝暦五年(一七七五)には家数一七七軒、うち本門一〇一軒、借家七六軒。人数八二七人うち男四二二人、女四〇五人。町の長さ四町一九間二尺一寸、浜の長さ七町二八間六寸。舟数八艘うち二〇〇石積一、七六石積一、四〇石積二、三五石積二、二八石積一。漁船二九艘とある。(伊予市誌)。天保時代の湊町の軒数は二七六軒になり、八〇年間に一〇〇戸殖えている。


 新谷藩の三島町

 伊予市の三島町は図3-39の如く、郡中町の南に位する新谷藩の街村である。今も昔の町並の俤が残っている。宅地も計画的に地割されている。
明治時代には木臘や陶器の製造が盛んであった。宝暦五年の三島町の家数は六二軒で、うち本門三五軒、借家二七軒。人数二七九人うち男一四一人、女一三八人。町の長さ東側二町四三間八歩。西側三町一二間半。舟数一艘四五石積(伊予市誌)とある。
 この三つの街村は文化五年(一八〇八)五月二九日に郷村から分離し、町方目付を立てることを許された。三つの町には、おのおの町年寄(町老)の下に組頭・五人組があり、自治的に町政を運営した。三つの町の分担の割合は、灘町四六・二%、湊町三〇・八%、三島町二三%であった。
 なお御替地の山分の砥部郷では、大平村と岩谷口村が新谷領であり、御替地の里分の伊予市の区域では、市場村と稲荷村と黒田村(松前町の南黒田が新谷領、北黒田は松山領)が新谷領であった。


 渓口集落の原町

 砥部川の咽喉に位する街村の原町は、昔は素麺や製粉業が盛んであった。明治四三年の『原町村郷士誌』をみると七軒あった。初めは砥部川の水車を利用して製粉していたが、明治三四年から機械化した。街村は大洲藩の在町として、大洲藩に替地になってから発達した。段丘上の原野に、宮内村と麻生村に跨って町割を作った。今でも町の真中が旧村界大字の境である。奥行は二二間に四〇戸分を区切り、間口は四~八間であった。大野祐吾の資料によれば、天和二年(一六八二)の町割は一九戸、享保五年(一七二〇)には二一戸、文政七年(一八二四)には二七戸の本門戸数があった。その後各戸の裏の畑を水田化して、奥行二二間を全部五間短くした。原町は街村でありながら半農半商であるのは、郡中の灘町の街村とは趣きを異にする。どの屋敷も道路に面して店を作り、奥には倉庫がある。
 宮内分の上の原町(南部)が早くでき、麻生分があとからできたので、下(北部)を原新町という。街には昔の本瓦葺きの低い二階建、厚い壁、格子戸などの面影が残っている。国道二三号(今は三三号と称す)は原新町が曲がっていたので、斜に切って道路を広げた。
 原町は郡中と異なり、交通機関の発達で、渓口集落としての機能を失い、一時は伊予鉄の終点の新しい街村の森松に繁栄を奪われた。最近は高尾田や南ケ丘や山並団地など、大きい住宅団地が、次々とできたので、商業形態が大きく変わった。またバイパスができ、運動公園などができたので、集落の機能も変化した(図3-40・41)。
 原町の街村の民家の間取りなどについては、愛媛県高校社会科地理部門の報告書に、共同研究として発表されている。

図3-39 伊予市の湊町・灘町・三島町の街村の形態

図3-39 伊予市の湊町・灘町・三島町の街村の形態


図3-40 砥部町原町の街村の形態

図3-40 砥部町原町の街村の形態


図3-41 砥部町原町の集落と道路の変容

図3-41 砥部町原町の集落と道路の変容