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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 道後平野の新田集落


 新田集落と地名

 道後平野の新田集落は道前平野ほど明確ではない。集落名に開拓を示す字名やホノギがある。重信町の八反地・開発、南吉井村の新村・出作、浮穴村の出白・五反地・六反地・新開・上新田・中新田・下新田、小野村の新立、石井村の今在家・越智六反地・八反地・九反地・三軒屋、桑原村の新百姓(束本村)、北伊予村の出作、岡田村の開などその例である。これらの集落はいつ開拓されたか、越智村のほかは明確でない。


 新田村越智村

 俚諺に「星ノ岡から越智村見れば、裸馬かや鞍(倉)がない」といわれ、貧乏村であった。しかし越智村は天保六年(一八三五)に同じ松山藩の越智郡大三島から移住した開拓村で、起源が明確である。そしてほとんどの苗字が、菅原か越智である。これは大三島の姓である。
 明治一五年の「久米郡地誌の越智村」の項をみると(『松山市史料集』第九巻)、次の如く書いてある。

「本村ハ往昔ヨリ久米郡吉井郷ニ属シ、天保六乙未年三月、北土居村ヨリ田畑八町余、星岡村ヨリ田畑五町一反余、東石井村ヨリ田畑五町余ヲ合セ、越智郡大三島諸村の人民移住シ、越智村一村トナル、其後明治四年(一八七一)三月分離シテ前三ケ村ヘ付属セシ処、同五年再ヒ合併シ、土居村分越智組ト称セシ処、同一二年ヨリ、越智村一村トナル」

とある。
 越智村の地勢は

「久米郡ノ西部ニ位シ、幅員東西ニ長ク南北ニ短シ、土地平坦運輸便利ト雖モ、薪炭魚塩ニ乏シ。人家字永昌分、登リ立、永田、八柱、石原ニアリ、富者ナシ貧者ノミ。地味ハ田其土黒クシテ埴シ其質美ナリ、稲麦ニ宜シ、年ニヨリ旱損ノ患アリ云々」

とあり、さらに

「戸数は本籍三六戸、内訳士族二、平民三四、社一戸、総計三七戸。人数は男八八口、内訳士族六口、平民八二口。女九〇口、内訳士族五口、平民八五口、総計一七八口。牛馬は牡牛七頭、牡馬五頭。神社は春日神社、伊予豆比古命神社の末社。学校は北土居村星陵学校、通学ニ係ル生徒男一一人、女八人、一ヶ年校費概算一四円四〇銭。物産  は米一ヶ年輸出高七五石、代金三六〇円。民業は「男農ヲ業トスル者三六戸」

とある。
 越智村が日下伯巖の指導のもとに、大三島から移住させ、三七戸の村が形成されたのは次の理由による。同じ松山藩領でありながら、小野川と内川の間のこの地は人口稀薄な未開拓の土地であった。いっぽう大三島は享保一七年(一七三二)の飢饉にも甘藷が普及していたので、餓死者を出さず人口過剰であったことなどによる。
 当初越智村には立待井掛の池田泉だけで、大正三年(一九一四)に越智泉が掘さくされるまでは、旱魃年は不作であった。現在大山神社の境内に、越智泉之碑と越智郷創建頌徳碑とが立てられ、それぞれ由来を刻んでいる。越智泉之碑(写真3-29)は大正一四年(一九二五)一二月の建立で、大三島宮浦出身の菅菊太郎の撰文であり、越智郷創建頌徳碑は昭和三六年一二月景浦直孝の撰文である。
 越智町の大山神社と越智公民館は昭和四四年に、道路改修のために今の地に移したのである。越智泉之碑は町の東端にあった泉に建立されていたが、今は泉は埋めて住宅地となり、記念碑は移して大山神社の東の公民館の脇に立っている。大山神社は越智町の住民が郷里の大山積神社を明治一三年(一八八〇)に勧請したものである。拝殿に米を三石から一斗まで分に応じて寄附した三六人の人名を書いた額がある。
 昭和二〇年、終戦当時の越智町の戸数は三八戸であった。うち二戸は七月二六日夜の空襲で、運悪く焼夷弾で焼かれた。越智町は周知のように今は住宅地化した。大正三年(一九一四)には一時二九戸に減っていた。(図3-37)。昭和二〇年三八戸が、昭和二五年六七戸になり、同四〇年一四六世帯、同四五年二二八、同五〇年三〇一、同五五年四一五、昭和五八年一月には四一九世帯に増加した。

図3-37 伊予鉄道のたちばな・いしい駅付近の昔の集落

図3-37 伊予鉄道のたちばな・いしい駅付近の昔の集落