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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

六 西条・周桑地方の鉱山と庭石

 四国有数の銅鉱山の分布

 別子鉱山以西、中央構造線桜樹屈曲部の間の東西約三〇㎞にわたる三波川帯には、鉱量数十万トンからごく少量なものまで多数の層状含銅硫化鉱床がある。産出銅量の多い主な鉱山をあげると、千原(四五〇〇トン)、基安(四〇○○トン)、愛媛(二二〇〇トン)、野地西之川(二〇〇〇トン)、新居、亀が森・竜王などが図3―15のように分布し、四国では佐田岬半島冲松山南万につぐ密集状態をなしている。
 鉱床群を含行地層は、三縄層下部~主部層と考えられる厚い緑色片岩で、黒色片岩および石英片岩をはさんでいる。結品片岩居の構造をみると、別子鉱床南方の中七番背斜の西方延長部にあたり、その両翼に鉱床が存在するが、背斜軸の方向は部分的にEW(~WNW)からSW(~WSW)に変化している。以下、この地方の代表的鉱山について、『日本地方鉱床誌四国地方』や『四国地方の鉱山と鉱床の概要』などから要約をした。
 丹原町千原の千原鉱山は、往時松山藩士により採掘製錬されたというが、その時代は不明である。明治初年に佐々木貫一が廃山を開坑して以来盛衰はあったが、経営者も久門益太・春原隅太郎を経て明治三七年(一九〇四)に中江種造に移り、人正三年(一九一四)まで採掘製錬を行った。大正四年福田祐ニに移り売鉱中心となったが、同九年中江産業が鉱業権を取得し、昭和初年まで月産鉱量一〇〇〇~一五〇〇トンを採掘したが、昭和一三年休山した。主として本鉱地区から銅量三六七トン、硫化鉄鉱(含有硫黄華)二・七万トンを産出した。昭和二三年に千原鉱業㈱が再開して、同三八年九月の休山までに二坑、三坑を中心にして銅八七五トン、硫黄二・五万トンを出鉱した。昭和三一年当時の従業員は五三人で、坑内夫が三一人を占め、半農のため四四人が自宅通勤者で、社宅も七棟あった。千原鉱床群の東方延長部に峯鉱山がある。ここは、昭和二五年再開後、ニ八年の休山の問、硫化鉄鉱の鉱量で六九一トンを出した。千原の南方五㎞にある九騎鉱山(川内町九騎)は、大正四年から開発され、昭和ニ六年から三〇年まで千原鉱山の支山として採掘された。千原東南方の鞍瀬川上流右岸にある明賀鉱山は、大正年間に開坑され地表近くを稼行していたが断層につき当たり休山した。昭和一〇年に再開され同一四年まで盛人に稼行した。戦後は、二六年から二九年までと三〇年から三三年の間稼行した。戦後の生産量は鉱量で二二四トンであった。
 愛媛・高知県境にある標高一七五六mの伊予富土の直下に鉱床のある基安鉱山は、発見の時代は明らかでないが、大体、明治初年ころと思われ、明治一〇年ころより同四○年ころまでは小規模に稼行し、山元で製錬も行ったらしく、坑口付近には、鍰の堆積がみられる。昭和四年に基安~枝折間に索道を架設して翌五年より出鉱を開始した。数年間け鉱況も良好で、従業員一〇〇~一二〇人を使用し、出鉱量も月産四〇〇トンに及んだ。その後、次第に衰微し、従業員およそ四〇人、出鉱量も月産一〇〇トン程度であった。昭和一八年に住友金属鉱山㈱が買収し、翌一九年には枝折―下津池聞に架空索道を新設し、既設索道を利用して鉱石はすべて住友専用鉄道黒石駅まで運搬され、ここより星越選鉱場へ送鉱されるようになった。戦後は、二六年より本格的出鉱を開始し、二七年には出鉱量も月産一〇〇〇トンを超えた(銅二・三%、硫黄二八%)が、四七年一〇月に閉山した。昭和三一年当時の従業員は一四〇人で、七二戸の社宅と独身寮二(二八室)や加茂小学校の分校(ニ学級)もあったが、今は完全なゴーストタウン化している(図3―16)。
 新居浜市大生院にある愛媛鉱山は中萩駅の南方約八㎞、標高八〇〇mに位置している。大正一三年(一九二四)に第一鉱体を見出して久原鉱業㈱が昭和四年まで操業し、同八年に日本鉱業㈱によって再開して第二・第三鉱体を発見して、二八年までにほとんど掘りつくした。その後、高越鉱業(株)が残鉱採掘を行ったが三二年に休山した。この問の出鉱量は銅鉱一四万二六八〇トン(銅一・五六%)、硫化鉄鉱一三万トン(硫黄四八%)であった。ここの鉱石は軌道および簡単な軽索で選鉱場に運ばれ手選され、精鉱はさらに軌道(二〇○m)、軽索(六七〇m)、基安索道を経て索道終点の黒石駅に運ばれ、これより住友鉄道で別子星越選鉱場に送られていた。愛媛鉱山の東方には約三三〇年前に開坑されたといわれる新生(旧大和)鉱山がある。明治末期から本格的稼行をみ、多くの人の手を経て終戦で。時休山したが、昭和二五年に再開され、二七年までに銅鉱三二ニトン、硫化鉄鉱三四二トンを産出した。また、愛媛鉱山の東北方の標高七〇〇~一二〇〇mの峻険な山地にある大永鉱山は、別子銅山(元禄三年―一六九〇)と同時期に開坑したといわれる。大永鉱山としては明治四四年から稼行し、昭和二五年以前に粗鉱数一〇〇〇トンを産出しかと伝えられている。
 西条市加茂川の上流にある野地鉱山は、赤谷(西之川)坑・野地坑・有永坑からなる。このうち赤谷坑はもと西之川坑として明治年間から開発され、盛時には選鉱製錬設備を有して精鉱三〇〇〇トンを毎月出鉱し、野地坑・有永坑は支山として操業された。昭和二〇年に休山し、二六年に再開されたが、八二七四トンの産出をして三一年に休山した。
 西条市藤之石字川来須にある新居鉱山は、元禄年間に発見され、時の藩主の手によって稼行されたといわれている。明治三七年に松山鉱業が稼行したが、鉱況不良で休業状態となった。大正三年(一九一四)に日本鉱業㈱により年産一万トン、従業員一五三人規模で再開稼行をみたが同七年には業界の不況により休業した。昭和八年に再開された時には盛況を呈し、二七年に休山するまでの間に粗鉱九万六二五〇トンの出鉱をみた。
 西条市西之川の東および北方に亀が森・竜王鉱山がある。両者は明治四二・四三年から開発され、大正九年に休山した。昭和初期から二〇年まで三菱鉱業㈱により再開され、三〇年からは吉岡鉱業㈱に移ったが、四七年に鉱業権を消滅させた。亀が森坑は瓶が森の北斜面の標高一一〇〇mに、竜工坑は千野々にある。大正年開の盛時には合わせて年産七〇〇〇トンを出鉱し、昭和一五年ころは亀が森坑より年産四〇〇〇トン、竜王坑より八〇〇トン程度の出鉱をみた。

 伊予の青石

 愛媛県の北部をほぼ東西に走る中央構造線の南部一帯には三波川帯が横たわり、三波川結晶片岩帯に分布する緑色・青緑色系統の岩石を伊予の青石と称している。とくに西条市の加茂川水系や周桑郡の中山川水系には、河川や山中の表層に転石として散在する自然石である。岩石の種類は火山噴出物起源の広域変成岩で、緑泥石片岩が多い。緑泥石・緑簾石・緑色角閃石を主とし、曹長石・石英などから成る。緑色味の強いものは緑泥石、黄色は緑簾石、青色は角閃石が多い。色の濃淡、摺曲模様、白色の曹長石、石英脈など表面の変化に富んでいる種が珍重されている。本県の代表的な自然石であり、県下各地の石碑や庭石、石垣石に広く使用されている。
 西条市には工藤・久門・酒井・杉森・伊藤・白石の六人が正式な採石販売業者として登録している。現在は河川敷よりの採石は自然環境保護や防災のため全面的に禁止されている。国道一一号や一九四号沿線の集石販売所に置かれている青石の大部分は規制前の採石のストックで、現在は一部民地内での造成工事や道路改良工事等により排出される残土内よりの採石がみられる程度である(写真3―17)。
 なお、秩父帯がよく分布する中予・南予の高知県近くの山開部には、秩父古生層中の赤色系岩石で、岩種が赤色塊状チャート、赤色系ドロマイトの多い伊予の赤石と称される自然石があり、庭石や石垣石として利用されている。仁淀川上流水系・肱川上流水系・広見川水系などに見られるが、これも自然環境保護・防災のため採取は禁止あるいは制限されている。






図3-15 新居浜・西条・丹原地方の含銅硫化鉄鉱床の分布

図3-15 新居浜・西条・丹原地方の含銅硫化鉄鉱床の分布


図3-16 西条市・基安鉱山と寒風山隧道付近の地形図

図3-16 西条市・基安鉱山と寒風山隧道付近の地形図