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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 発電

 四国第三位の火力発電

 東予地方の電力会社は、松山より遅れて、今治出身で京都電灯の技師長であった広川友吉の勧めに応じて、今治綿業中興の祖といわれる阿部光之助らが明治三九年(一九〇六)に今治電気㈱を創立したのが初めてである。同社は、翌四〇年に玉川の長谷水力発電所(一八〇kW)を完成させ、同年一二月から営業を開始し、さらに同四ニ年には今治に蔵敷火力発電所(七五kW)を完成させている。また、西条地方においても、明治四○年ごろから水力発電事業の計画があり、工藤干城が西条水力電気㈱を起こして供給地域上しのぎを削ることになったが、時の知事伊沢多喜男等の斡旋によって、円満に両者の合併となり、同四四年愛媛水力電気㈱が誕生し、阿部光之助が社長となって経営に当たり、今治の綿工業や東予方面の産業発展に貢献した。愛媛水力電気創設当初の営業状況は電灯三一六六灯、動力二四〇馬力であったが、大正二年(一九一三)に新居郡加茂村に出力一〇〇〇kWの加茂水力発電所を完成させ、翌三年三月に越智郡、周桑郡、新居郡の三郡にわたる九町二五村に供給を始めた。この時の営業状況は電灯一万三二一六灯、動力五九八馬力、純益二万九九二八円、配当率も年九分と順調であった。その後、大正八年(一九一九)には、出力八〇〇kWの鈍川水力発電所を完成させたが、動力需要については、翌九年六月の同発電所の運転開始前にすべて契約で売りつくすという好景気であった。大正一〇年末には、供給地域も今治市を含めて三郡九町四〇村にわたり、電灯四万四五六灯、動力一六八〇馬力、純益一六万九四一一円、配当率年一割五分に達した。
 この後、今治市の港湾整備や国鉄予讃本線の開通など東予地方における経済発展に対応して愛媛水力電気は発電電力量の増加を企図し、なお水源を求めて二五〇〇kW程度の電力生産を考えていた。一方、伊予鉄道電気は、大正一一年(一九二二)に出力四〇〇〇kWの第二黒川水力発電所の運転を開始したことによって、供給電力量に余剰を生じてきたため、電灯電力需要家開拓に乗り出したところであったので、いたずらな販売競争を避けるため両社の統合問題がおこり、県知事の斡旋もあって大正一一年には両社の合併が成立した。この結果、愛媛水力にとっては東予地方の工業発展にともなう電力不足の解消と料金の値下げが可能となり、伊予鉄道電気にとっては余剰電力の解消となって、それぞれ大きな利益の獲得につながった。
 戦時色が濃くなった昭和一三年には、電力管理法の下、日本発送電㈱法が公布され、翌一四年には日本各地の電力会社は日本発送電㈱に統制された。その結果、伊予鉄道電気の発電施設は相次いで同社に出資の形となり、さらに同一七年には全国に九配電会社が設立され、四国には四国配電が新居浜に本店を置いて発足した(昭和一九年に本店は松山に移り、日本発送電㈱四国支店となる)。この間、同一七年三月には日発西条火力発電所(一万二〇〇〇kW、一八年には三万二〇〇〇kWに増設)が完成している。
 戦後、四国配電は二六年の公益事業の再編成指令に基づき四国電力㈱として再発足し、今日におよんでいる。
 四国電力㈱西条発電所の前身は、前述の日本発送電㈱時代の昭和一七年の石炭燃焼による一・二万kWの火力発電所である。当時、西条に火力発電所の立地をみたのは、四国のほぼ中央に位置し、近くに新居浜という一大電力消費市場をひかえ、蒸気発生用の水に恵まれ、石炭移入に便利な瀬戸内海の臨港であったことなどによった。この火力発電所は昭和二七年には四万kWに、さらに二九年には六・二万kWに増設され、四九年一二月まで稼動した。
 昭和六一年度末の四国電力㈱の電力供給設備の規模は、水力発電所五七か所、一〇九・七万kW(二〇・三%)、火力発電所四か所、三一七・一万kW(五八・七%)、原子力発電所一か所(伊方町)、一一三・二万kW(二一・〇%)の合計五四〇万kWである。このうち火力発電所は、坂出火力発電所の一~四号機合計一三七・九万kWを最大に、阿南火力発電所の一~四号機一二四・五万kW、西条火力発電所の一~二号機四〇・六万kW、松山火力発電所の一四・一万kW(五六年休止)とつづいている。西条火力発電所は、東予新産業都市地域のエネルギー供給地として、旧西条火力発電所を補う形で昭和四〇年一一月に一号機が一五・六万kWで運転を開始したものである。石炭・石油とも使用できる設備でスタートしたが、四九年からは石炭との混焼をやめて石油専焼として運用されてきた。なお、二号機は四五年六月に二五万kWの規模で完成し、これも石油専焼で運転されてきた。運転開始以来、二度のオイルショックを経験した四国電力は、石油代替エネルギー確保と電源多様化を進める見地から、既設石油火力の燃料転換計画を検討した結果、西条火力発電所は次の理由で石炭転換計画の対象となった。すなわち、一号機ボイラーは石炭使用ができる設計であったこと、一・二号機を同時に転換することは貯炭装置などを共用できるため経済効果が大きいこと、構内に貯炭場、灰捨て場を確保できること、脱硫装置などにより現行公害防止協定値を守れること、年間六〇万klの石油節減で脱石油方針に合致し、効果が大きいことなどであった。この石油から石炭への燃料転換工事は、五六年に着工し、五八年七月に一号機が九年ぶりに石炭火力に復活し、ついで五九年一月に二号機の石炭転換が完成した。この間、約五三〇億円の工事費(うち約二七〇億円を公害防止対策設備費にあてる)をかけたが、これにより四国電力の石炭使用量は年間約九〇万トンで主に豪州炭を使用している。これによって四国電力の発電量のエネルギー源別シェアは、石炭が転換前の三%から一気に一六%に達し、石油は三一%から二五%に落ちてエネルギーの多様化が一段と進んだ。
 ところで石炭火力の仕組みは、海外からの中継基地となる広島県福山市のコールセンターから船で運ばれた石炭を揚炭機で陸揚げし、これをベルトコンベヤーで貯炭サイロに送り込み、使用分だげ微粉炭機で粉末状に砕いてボイラーで燃焼し、この蒸気でタービンを回し発電する仕組みである。石炭受げ入れ施設として長さ一一〇mの揚炭桟橋と連続式揚炭機を設置している。揚炭機は一時間あたり一〇〇〇トンの能力を持っている。貯炭方式としては用地の有効利用と炭じん飛散防止のためサイロ方式を採用している。貯炭量一万三〇〇〇トンのコンクリート製ジャンボサイロ(高さ四三・四m、上部直径二六・六m)を三基もち、計一〇日分の貯炭量を備えている(図3―14)(写真3―15)。

 住友系企業の発展と住友共電

 住友共電は、土佐吉野川水力電気㈱として大正八年(一九一九)に創立され、昭和九年に四国中央電力、同一八年に住友共同電力と名称を変えている。これはいうまでもなく、別子鉱業所における製錬事業に必要な電力の供給と、一連の電気関係施設が次第に拡大していく中で、その技術的発展と安全性維持のためにも、本格的な電力会社として設置されていった。このような発電事業は、先の関連企業としての化学工業への電力供給ともなり、あるいは、四阪島への海底電線の敷設は住友電線㈱の技術によって行われるといったように、いずれもきわめて住友系企業の密接な連けいの上に押し進められている。したがって、その発電所の設置も、四阪島発電所から端出場火力発電所および水力発電所を経て、新居浜火力発電所へと至る同社の発展は、新居浜地域における住友系企業の維持にとって、欠かすことのできない動力エネルギーの自家供給として必須のものであった。
 以上の経緯をもつ住友共電の現在の設備状況を表3―17に示した。供給設備は、水力発電所九か所、七万八六〇〇kW、、火力発電所三か所、六一万八五〇〇kW、変電所八か所、五八万五四〇〇KVA、その他送配電設備等である。このうち新居浜東火力発電所の三号機(二万kW)、同西火力発電所の三号機(一五万六〇〇〇kW)及び壬生川火力発電所(二五万kW)の合計四二万六〇〇〇kW(同社の発電能力の六一・一%)は重油燃焼方式のためコスト高となったことと、アルミニウム部門を中心とする住友関連企業の構造不況のため電力需要が減少し、現在は休止している。表3―17からもわかるように、これまで増加する電力需要に応じ、逐次火力電源の開発に努めてきたほか、新居浜西火力発電所における石炭焚増し(昭和五八年)、新居浜東火力発電所における石炭焚き流動床ボイラーの設置(昭和六一年)など火力発電所の燃料の多様化を進めてきた。さらに、大気汚染防止を中心とする環境保全対策として、昭和五九年に火力発電所から排出される石炭灰を処分するため岩鍋灰処分場を設置した。住友共電設立の目的が住友系諸工場に対する電力供給であったことはすでにふれたが、現在の主な供給先をみたのが表3―18である。最大の供給先は電源立地の住友化学工業㈱で、次いで住友金属鉱山㈱、住友重機械工業㈱、その他となっている。なお、卸電気事業者として四国電力㈱他との間に電力の相互融通を行っており、低廉で安定した電力供給という重責を果たしている。その契約受電電力量は、四国電力との間で最大一五万kW、電源開発㈱と八〇〇〇kW、愛媛県営と三二五〇kW、別子山村森林組合と一二五〇kWとなっている。
 住友共電は、新居浜東火力発電所に抽気背圧タービンを昭和三八年に設置し、発電のかたわら隣接する住友化学㈱愛媛工場及び住友ノーガタック㈱愛媛工場に対し、最大一七五T/Hの蒸気の供給を行っている。また、住友共電最大の壬生川火力一号機(二五万kW)は、昭和五〇年三月に完成をみた最新の設備である。これは、昭和五〇年四月に操業し、年間生産能力九万九〇〇〇トンをもつ住友アルミニウム製錬の菊本製造所東予工場(東予市北条、最盛期には約四〇〇人の従業員)に電気を供給するために立地したものであった。しかし、同五四年ごろからのアルミ地金の低迷、高電力料金によるアルミの国際競争力の低下を招き、減産体制を余儀なくされ、六〇年四月には同工場はついに撤退した。こうした状況に伴い住友共電壬生川火力発電所も五八年六月で発電をストップした。
 住友共電では、昭和五五年に脱石油の一環として、石油から石炭への燃料転換を図ろうとして、新居浜市菊本町の住友アルミ菊本製造所北端の一〇万平方mの埋め立て地に、出力一九万kWの新石炭火力発電所の建設を計画していた。しかし、その後の景気停滞と特に同社電力の最大供給先である住友アルミニウム磯浦工場の休止などのため、この計画は中止された。

 水力発電と太陽光発電

 昭和四八年のオイルショックのあと、愛媛県下の電力供給の変化は、大規模なものは石油から再び石炭へ燃料転換をみたのと原子力発電の開始であり、小規模なものとしては水力発電の開発と太陽光発電の開発である。
 脱石油発電をめざす住友共電の九番目の水力発電所である黒瀬発電所は、加茂川上流の黒瀬ダム(有効貯水量三四〇〇万トン)から放流される水と、遊休落差を利用して最大出力二〇〇〇kW(一般家庭七〇〇世帯分相当)の発電を行うもので、黒瀬ダムのえん堤から約三〇〇m下流の加茂川左岸に五七年九月に完成した。発電システムは黒瀬ダムの放流水を利用するもので、放流管の途中から分水し、山にトンネル鉄管を通して最短距離で導水している。満水時のダム水位と発電所間の有効落差五一mを利用し、毎秒最大五立方mの水を斜流水車でとらえ効率的に発電する。黒瀬ダムは治水、工業用水の確保を第一義にしているため水位が極端に下がれば放流を停止し、発電もストップするが、同社は年間三〇〇日程度の稼動は可能と予想している。脱石油発電をめざして国が新設した中小水力発電開発補助金交付(一四・一%)を四国の施設では初めて適用された。また、オイルショクの後、県下に誕生した水力発電所では五〇年の伊予三島市の県営銅山川第三発電所に次ぎ二番目である。発生電力は同社既設の大保木線に連係して新居浜市の西の谷変電所に送られ住友グループ各社に供給されている。なお、同社の水力発電所については表3―17に示した。
 西条市西ひうちの四国電力㈱西条太陽光試験発電所では、石油代替エネルギーの開発をめざす通産省の「サンシャイン計画」の一環として、その推進母体である「新エネルギー総合開発機構(NEDO)」から、四国電力が財団法人電力中央研究所と太陽光発電システムの研究開発を共同受託し、昭和五五年以来研究開発を進めてきた。発電システムは、光を受けると電気を発生する太陽電池(シリコン半導体)をパネルに組み込み、斜角三三・九度で太陽に向け配列し電気(直流)を取り出すものである(写真3―16)。五七年二月一七日に初めて発電に成功し、同年一二月には、日本で初めて一般家庭で、“太陽光の灯”がともった。当初、太陽電池を四〇~五〇個組み込んだパネル六〇〇枚を設け、出力二〇kWでスタートした。その後は表3―19に示したようにパネルの増設を進め、四万平方mの埋め立て地に二万七〇〇〇枚のパネルを配し、六一年二月には出力一〇〇〇kW(一般家庭用五〇〇戸分の消費電力)、直流交流交換能力一〇〇〇kW、蓄電能力一八〇〇kWの世界最大級のプラントが誕生した。日本では筑波大学が学校用システムとして、また東京電力が分散型(敷地のあちこちに太陽電池パネルを分散する方法。西条は一か所に集めた集中配置型)で試験運転を行っている二〇〇kWが最大級である。外国では、アメリカのサクラメント電力庁と、同じくアメリカのルゴのアルコソーラー(太陽電池メーカー)の施設がともに一〇〇〇kWで、これらに並ぶ能力でまさに世界最大級といえる。
 この施設が西条市に立地した理由は、ここは瀬戸内海のほぼ中央で日照時間が長いことと台風などの強風の少ないことである。ところで、太陽光発電の長所は、雨や曇りの日はあっても、ともかく燃料費がいらないのが最大のメリットである。その反面、太陽電池パネルを並べるために広大な土地を必要とするのが難点で、西条では四万平方mの敷地で一〇〇〇kWがほぼ限界である。また、発電コストを比較すると、一kW発電するのに火力なら約二〇万円で済むが、太陽電池だと約一五〇万円かかるといわれ、最大の難点である。

図3-14 四国電力西条火力発電所の施設配置図

図3-14 四国電力西条火力発電所の施設配置図


表3-17 住友共同電力㈱の供給設備一覧

表3-17 住友共同電力㈱の供給設備一覧


表3-18 住友共同電力㈱の電力供給先

表3-18 住友共同電力㈱の電力供給先


表3-19 西条太陽光試験発電所の概要

表3-19 西条太陽光試験発電所の概要