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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

七 市之川鉱山の変遷

 日本最古の歴史を持つ鉱山

 加茂川の支流丸野川沿いに約ニ㎞上ったところにあるアンチモンの市之川鉱山は、日本で最も古い歴史を持つ鉱山の一つといわれている。その記録は、平安時代初期の延暦一六年(七九七)に完成した『続日本紀』に見られる。そのうちの文武天皇二年(六九八)の部分に「乙亥。伊予国献白錫。乙酉。伊予国献すず(かねへんにくず)鉱。」とあり、この白すず(かねへんにくず)、すず(かねへんにくず)鉱が共に輝安鉱であり、市之川産であろうといわれている。輝安鉱はアンチモンと硫黄の化合物でsb2s3の分子式で表され、七一%がアンチモンである。色は鉛色で、新しい面は美しい金属光沢で、柱面にそって完全なへき開性がある。現在は、スズ、鉛、アンチモンなどを混ぜて活字合金、軸受合金などを製造している。
 その後二〇世紀に及ぶ空白の後、市之川鉱山は江戸時代の延宝七年(一六七九)に再発見される。この再発見の様子を『市之川鉱山沿革誌』は次のように記している。

延宝七年九月五日。保野山ヨリ市之川山二通ズル道路破壊セシニ付山民二命ジテ修繕セシム。親信山民ト共二保野山字仏ケ峠二於テ午餐ブ喫シ休息ス、然ルニ足下ノ岩石ト岩石ノ間二鎗ノ穂ノ如手形ヲナセル石(石英ナラン)アリ。直チニ山民二命ジテ掘出サシメシニ其下ヨリ燦然タル。塊ノ金ヲ掘出ス。名ヅケテ白目ト云フ。

 この記録中の親信とは曽我部右衛門尉親信という人で、その所有の開墾地内で発見し、曽我部氏は独力で鉱山の開発を行った。千荷坑(写真3―18)・処後坑・大鋪坑・本番坑などを次々と開発し、産出量も増大して享保年間(一七一六~三五)には運上金を納めるまでになった。しかし、鉱山技術に関しては素人で製錬も思うようにいかなかったのであろう。元文元年(一七三六)、大阪の人大阪屋源八と共同経営とした。宝暦七年(一七五七)、新たに、新居郡金子村の真鍋伝右衛門と組合営業としたが、明和六年(一七六九)事業不振のために廃業した。
 寛政七年(一七九五)八代曽我部六郎左右衛門は、新居郡永易村の矢野矢一右衛門と組合営業したが、同九年(一七九七)価格が暴落して負債を生じ、六郎左右衛門は田畑を売り、これを償却した。文化元年(一八〇四)、周布郡小松村の重二郎という人が加わり組合営業したが、内部紛争があり一時休業した。
 その後、曽我部氏は文政一一年(一八二八)石州赤摩郡西田村ニ川三右衛門と同じく銀山師加藤庄造の両人と組合営業を開始した。ついで一一代曽我部陸之肋が営業したが資本欠乏のため天保一二年(一八四一)小松藩一柳家の経営となった。小松藩営で操業したが、あまり良い結果は得られなかった。

 明治期の大繁栄

 明治四年(一八七一)の廃藩置県に件い、市之川鉱山の経営は小松藩から石鉄県へと引き継がれる。石鉄県は、県庁係官矢崎忠直を総理とし、曽我部陸之助・包助を元受として市之川鉱山の経営にのぞんだ。翌五年一一月には曽我部陸之助・包助所有の民間への移行がなされた。この後採鉱を続け、国内市場の拡大策として、明治九年(一八七六)に開催された京都府博覧会へ輝安鉱を出品して好評を博した。一方、海外市場の開発策としては同年パリで開催され九万国博覧会へ輝安鉱を出品し、非常な好評を得た。特に、パリ万国博覧会への出品は市之川鉱山の名を広く海外に知らせ、海外市場の開発に重要な役割を果たした。このころ、鉱石価格は騰貴を続け、事業は好調であった。そのため、明治一〇年以後、試掘願いあるいは借区願いを申し出る者が続出し、明治一五、六年ころからは紛争の絶えることがなく、明治一七年(一八八四)に工部省は実地検査のうえ、借区願いの没収処置を決定し、市之川鉱山は再び愛媛県直轄鉱山となった。県は鉱山の経営を大阪の豪商藤田伝三郎に用達した。この処分の後、河端熊助・岡崎高厚・吉田保次郎ら借区人は、再三再四、県庁等へ、再度の民間への移行を求めた。明治二二年(一八八九)白根専一知事の着任後、綿密な調査の結果、藤田伝三郎の用達を中止し、翌二三年、借区人及び関係者五〇余名に再び借区券を共同経営を条件として下付した。しかし、借区券の下付の後、借区人は各坑口ごとに事実上は単独経営としたため、借区券没収以前と変わりなく、再び紛争をおこした。このため長屋忠明を仲介人で元貴族院議員三浦安松を事務長として経営改善に努めさせ、明治二六年(一八九三)市之川鉱山㈱を組織した。
 市之川鉱山㈱の成立以降、日清戦争の勃発(明治二七年)の影響もあり、市之川鉱山は最盛期を迎える。事業規模も拡大し、西条市本陣川川口には製錬所を建設した(明治二七年)。この製錬所の大煙突は、西条港の目印になった程で、当時発行の絵はがきにその雄姿が見られる。また、鉱区面積も九五万坪にも及び、探鉱を進めた結果、富鉱帯に出合い、出鉱量は増加し、事業はますます好調となった。また、アメリカ人ディーナーにより市之川鉱山の輝安鉱は世界的にその優秀さが伝えられた。しかし、明治三五年(一九〇二)、中国からの輸入などにより鉱石価格は下落し、負債を生じ、会社は解散となった。解散後、債権者の一人、工藤善次が事業を請け負し、私財を投じて市之川鉱業商会を発足させ操業を続けた。
 明治三七年(一九〇四)、日露戦争が勃発し、弾丸製造にアンチモンを必要としたため、当時一二円前後の相場が八〇円以上に暴騰し、再び非常な好況を呈した。同三九年には市之川鉱業㈱を組織したが、戦争終結と共に、鉱石価格は再び下落し、同四五年休業となった。

 再生から閉山へ

 大正三年 (一九一四)、第一次世界大戦の勃発と共に、下落していた鉱石価格は再び上昇し、事業も再開されて、以後順調に操業を続けた。大正四年には水力発電所を設置し、鉱山関係施設へ送電した。また、その電力を利用する巻揚機、排水ポンプを設置し、さらに手作業選鉱からテーブル選鉱機、浮遊選鉱機などを使用する機械化がなされた。翌五年には㈱市之川鉱業所が組織されたが、大正七年に第一次世界大戦が終結したので、高騰を続けていた鉱石価格は下落し、休山を余儀なくされた。大正一五年(一九二六)に伊藤武平、高橋房吉示再び事業を開始し、以後細々と採鉱を続けた。昭和一四年には社名を市ノ川鉱業㈱と改名し、商工省の増産命令を受けて事業の拡張を行ったが、成果を上げることはできなかった。同一九年には住友鉱業から櫛部喜三郎が探鉱のため派遣され、巻揚機を設置したが、良い結果を得ぬまま敗戦により中止となった。
 昭和ニ一年、市之川鉱山は井華鉱業(現住友金属鉱山)の所有となったが、翌二二年休山した。同二六年、再び開発を開始し、探鉱及び開坑の必要から二九年にはさく岩機を使用して探鉱用坑道を掘進した。鉱石は手選鉱をして別子鉱業所へ送り、そこで製錬した。翌三〇年になってからは、試錐機を設置してボーリング調査を行った。その結果、鉱脈のあることは確認されたが、生産コスト高のため、三三年事業を中止し、現在に至っている。二七年から三一年の間の鉱量は四万七二七一トン(sb五八・ニ%)であった。三一年現在の従業員数は坑内夫一一人、臨時夫一〇人など合計二四人であった。
 なお、この市之川鉱山の輝安鉱をはじめ、各種岩石、鉱物等の科学標本や書画、古文書等多方面にわたる資料の収集を成した田中大祐(一八七二~一九五六)の寄贈品を基に、昭和二七年に西条市立郷土博物館が発足した。現在、海外の主要な大学、研究所等で、市之川産の輝安鉱を収蔵しない施設は、ほとんどないといわれる。同館蔵の高さ五〇㎝、重さ四九㎏の輝安鉱群晶は、昭和三四年に国際博物館会議に重要資料として登録されている。