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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 筏津社宅のくらし

ア 階段状の集落構成

 「筏津には、昭和48年(1973年)に筏津坑が閉山となるまで、銅山川の谷底から山腹の斜面にかけて、鉱山に勤める人たちの社宅が階段状に形成されていました(図表1-3-2、写真1-3-1参照)。最上段に筏津坑長、その下に病院の先生、担任、分任たちが住み、最下段の長屋に鉱夫たちが住むというように、地位の上の人ほど上段に住んでいました。坑口の西側に鉱山の事務所があり、社宅と娯楽場の間に病院(住友別子病院の診療所)があったほか、生活に必要な物資を販売する配給所(後の生活協同組合)やお風呂などもありました。配給所の倉庫の近くをレールが通っていて、索道で下ろした物品をここへ運んでいました。筏津には会社の胴元(本部)のほか、配給所や病院、娯楽場など多くの施設があり、別子山では一番賑(にぎ)わっていましたが、これらの施設は別子山村の人なら誰でも利用することができました。」

イ 狭かった棟割長屋

 「坑長の家は一軒、職員の家は二軒長屋でしたが、私(近藤保美代さん)が住んでいた八軒長屋には6畳と3畳の部屋と入口に少しばかりの空間があり、そこに家族2人から5人が住んでおり、隣の家は夫婦と子ども4人の6人で住んでいました。2畳くらいの庭がありましたが、部屋が狭いので多くの家では庭に建て増しをしていました。よそから働きに来ている独身者は、『合宿』と呼ばれていた相部屋の独身寮に入らなければならず、住友鉱山の職員の人が御飯の世話などをしてくれて、結婚すると社宅の長屋に住むことができました。」

ウ 共同利用の炊事場、お風呂、トイレ

 「屋内に炊事場はなく、屋外に共同の炊事場があり、そこでみんなが米などを洗っていましたが、私(近藤保美代さん)の夫は器用だったので、社宅で最初に外の水を家に引き込んで、屋内で炊事ができるようにしてくれました。男女の共同浴場は八軒長屋の坑口側にあり、入浴料は無料で、入浴時間も普段は午後4時から8時まででしたが、お正月は朝風呂に入ることができました(図表1-3-2参照)。共同トイレは八軒長屋の両端にありましたが、屋外にあったので冬は凍っている地面に足を取られながらトイレに行っていました。」

エ 配給所での買い物

 「筏津社宅にあった配給所には米や酒、醤油(しょうゆ)、豆腐など何でも売っていて、お魚も毎日新しいものが並んでいました。それらの品々は、東平(とうなる)から日浦(ひうら)まではかご電車で、日浦からは索道で運び、鉱山の社員が配給所へ運び入れて、販売していました(図表1-3-1、写真1-3-2参照)。配給所に置いていない品物は注文すれば取り寄せてくれて、翌日か翌々日には届いたので、山に住んでいても町の人と生活は変わりませんでした。配給所は社宅の人だけでなく、別子山村の地元の人も利用することができ、お米、その他の商品を買いに来ていました。また、配給所にはいろんなお菓子が売られていて、私(近藤保美代さん)の息子は子どものころ、親戚から10円をもらって配給所でお菓子を一杯買い、汚れた手で食べたせいもあって病気にかかってしまったことを憶えています。
 社宅の人たちは鉱山に勤めていて経済力があったので、ほとんどの家で新聞を取っていました。索道は筏津まで延びており、新聞は索道を利用して会社へ運ばれ、会社の人が郵便局に言付けて、郵便局が手紙を配達するついでに配ってくれていました。おかげで新聞は新居浜と変わらず、当日のものが届けられていました。また、家から出す郵便物も郵便局が取りに来るのではなくて、会社が預かって出してくれていました。」

オ 娯楽場の思い出

 「階段状になっている集落の一番上に娯楽場がありました。(図表1-3-2、写真1-3-1参照)。筏津の娯楽場には回り舞台はありませんでしたが、花道が設けられていて、青年団同士の交流があったためか、東平の青年団がよく芝居をしに来ていたほか、東平ほどではありませんが、各地から旅回りの役者も来ていました。娯楽場はかなり広かったので500人くらいは入れたと思いますが、そこでダンスをしたり、映画を観(み)たりしたときは、人で一杯になって座る場所がないほどでした。
 映画は、週に一度鉱山の社員がみんなで協力してフィルムや機材を娯楽場まで運んで映してくれていました。筏津では、封切りの映画が新居浜の喜固久(きこく)座(かつて喜光地〔きこうじ〕商店街にあった)という映画館よりも早く上映されることもあり、山に住んでいるから古くて流行(はや)っていない映画しか観られないわけではありませんでした。」

カ 近所での助け合い

 「私(近藤保美代さん)の家族は筏津坑の一番近くにあった社宅に住んでいました。私は新婚だったのですが、社宅のみんなからは本当に大事にしてもらいました。台風が来ると、隣の人が、『坑内に避難するぞ。みんな、お握り作れよ。行くぞ。』と言って先導してくれて、私たちはお弁当とお茶を持って坑口まで行って避難したこともあったし、『おうどん作ったけん、食べに来い。』とよく声を掛けてくれました。」

キ 進んでいた生活

 「別子山ではテレビや洗濯機などの電化製品が入ったのは県下でも比較的早く、昭和32、33年(1957、58年)ころ、近所で最初にテレビを買った家にみんなで行って、遠慮なく見せてもらっていましたが、主人が、『毎日そんなことをしたら迷惑がかかる。』と言って、借金してテレビを買ってくれました。私(近藤保美代さん)の家がテレビを買ったのは、八軒長屋が4棟ある中で、4、5番目だったと思いますが、息子は月光仮面が始まると、いつの間にか戻って来てテレビを見ていました。私も息子と一緒に見ていたので、今でも月光仮面の歌の歌詞を憶えています。
 社宅にプロパンガスが入った時期も早く、私の家でも結婚して筏津へ移って来て間もなくの、昭和31年(1956年)ころに、主人がプロパンを配給所から担いで帰り、取り付けてくれました。それまではおくどさん(竃〔かまど〕)で御飯を炊き、生まれたばかりの息子に飲ませるミルクも1年くらいは七輪を使って温めていましたが、すぐにプロパンガスを使えるようになりました。
 一週間ずつ住友病院へ歯科や内科、外科といった各科の先生が交替で来てくれたので便利でしたが、急病のときは新居浜へ下りて、山根(やまね)にあった病院まで行かなければなりませんでした。
 社宅では水道代は無料で、電気代や病院での診療費もかなり安かった上に、娯楽場や映画館があり、毎日きれいなお風呂にタダで入ることができて、生活の上で不自由なことは一つもありませんでした。私の息子は、『別子みたいな所へ住んどったら、どこへ行っても恥をかくことは何もない。』と言っていましたが、それくらい進んだ生活ができていました。」

(2) 中七番のくらし

ア 住友林業の中七番事業所

 「私(近藤輝美さん)の父は住友林業に勤めていて、最初は葛籠尾(つづらお)の事務所に勤務していましたが、その後、中七番(なかしちばん)、河又(こうまた)へ転勤し、さらに岐阜県へ転勤となりました(図表1-3-1参照)。祖父は林業の仕事を請け負う人で、当時はそういう請負師が何人かいました。現在のフォレストハウスの駐車場には、かつて住友林業の事務所があり、事務所の前はブランコもある小さな広場になっていて、近所の子どもたちが大人と一緒に草野球などをして遊んでいました。名前を知らない木が何本か植わっていて、銅山イチゴと同じくらいの小さな赤い実がなると、私は子どものころにそれを食べていました。中七番には林業従事者のための長屋がありましたが、たくさんの人が住んでいたわけではありませんでした(写真1-3-3参照)。」

イ 木材の搬出

 「中七番には伐(き)った木を搬出するための索道がありました(写真1-3-4参照)。ある山で木を伐ると索道を作り、別の山へ行けばまた索道を渡すので、索道は1か所だけではなかったと思います。索道では一度にたくさんの木を下ろせないので、何本かずつ下ろしていました。索道で日浦まで運んだ木はインクライン(斜面にレールを敷き、動力で台車を走らせて荷物などを運ぶ装置)を使って坑口へ全部下ろし、坑内電車に積み替えて東平へ運びました。
 昔は中七番から日浦まで木馬(きんま)道(木材を積んだトロッコを運ぶために、枕木を敷き並べた道)があり、まだトラックではなくトロッコに木材を積んで馬に引かせて日浦まで運び、日浦からは坑内電車で東平まで運んでいました(写真1-3-5参照)。
 私(近藤輝美さん)は子どものころ、父親や知っている大人がトロッコを馬に引かせているのを見付けてうれしくなり、思わず『ウワー。』と叫ぶと、馬がびっくりして走り出し、線路の枕木に足をぶつけた弾(はず)みで馬蹄が外れてしまい、かわいそうな思いとともに、恐ろしい思いをしたことがあります。
 また、買い物に行くときに、恐る恐るトロッコに乗せてもらったこともありました。通り道には下り坂があって危険だったのですが、歩くよりは随分楽だったので、つい乗ってみたくなったのです。」

ウ 中七番の人の買い物

 「私(近藤輝美さん)は買い物の際には東平の生協(配給所)で買うか、行商に来る人から買うか、新居浜の方へ出かけて買っていました(図表1-3-1参照)。東平には映画館や生協、住友病院があり、そこまでよく買い物に出かけていました。筏津にも配給所がありましたが、日浦まで歩けば東平へはかご電車で行けるので、徒歩で行かなければならない筏津ではなく東平へ行き、配給所で買い物をしたら、帰りは荷物を乗り口までトロッコに積んで運び、電車に乗っていました。また、小学校低学年のころ、衣料品の行商に来ていて、普段は目新しい服を見る機会があまりなかったので、親にねだって買ってもらったことを憶えています。」

エ かご電車の思い出

 「東平と日浦の間を通称『かご電車』と呼ばれた坑内電車が30分くらいで走っていました。乗っていた人のほとんどが住友鉱山に勤める作業員でしたが、かご電車には客車もあり、一般の人も利用していました。私(近藤輝美さん)は東平の小学校へ通学していたのですが、自宅のある中七番から日浦まで約4㎞の道のりを歩き、日浦から東平までかご電車に乗って通学していました(写真1-3-6参照)。小学校1、2年生のころ、学校からの帰りには、一人でかご電車に乗ることもあり、朝が早いので、真っ暗なかご電車の中で寝てしまって、日浦に着くと、運転手さんが、『着いたきん、起きて頑張って帰れよ。』と言って起こしてくれたことを憶えています。」

オ 診療所

 「病院(診療所)は筏津と東平にありました。筏津へは歩かなければなりませんでしたが、東平へはかご電車で行けたことと、筏津よりも東平の方が病院の規模が大きかったので、私(近藤輝美さん)は東平の病院へ行っていました。ちょっとくらいのけがだったら、『焼酎を塗っておけばいい。』などと言って、すぐに病院に行くようなことはありませんでした。急病でどうしても病院に行かなければならないようなときには、特電(特別電車)を出してもらうのですが、そこまで頼むのは大変だと思っていました。」

カ お風呂

 「お風呂は鉄の五右衛門(ごえもん)風呂だったので、お尻がやけどをしないように板を沈めて入っていました。父が林業(住友林業)に勤めていて、燃料となる木はいくらでも手に入るので、それで風呂を沸かしていました。お風呂は川の西辺りと奥の3、4か所に設置されており、近くの林業の社員の人は、そこで順番に入っていました。」

キ 電話と電気

 「当時、電話のある家は少なかったのですが、父の仕事の関係で、私(近藤輝美さん)の家には電話がありました。私が5歳くらいのころ、一度電話が鳴っているので出てみると、相手の人に、『奥さんですか。』と言われて、怖い思いをしたことがありました。住友林業の事務所には電話があって、社員の住む所にも1台だけ置いてあり、かかってきた人を呼びに行っていました。
 父が住友林業に勤めていた関係で小さいころから家に電気は来ていましたが、中七番では電力の周波数が他の地域と異なるため、いわゆる『三種の神器(昭和30年代、新しい時代の象徴とされた白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の3種類の電化製品)』も使えず、家に電化製品はそれほどなかったと思います。私の家には竃があって、御飯はお釜で炊いていましたが、そのころは竈がまだ方々の家にありました。」