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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 別子山の町並み

 旧別子山(べっしやま)村(現新居浜〔にいはま〕市別子山地区)は、新居浜市の南東部に位置し、北と東は四国中央(しこくちゅうおう)市、南は高知県の土佐(とさ)郡大川(おおかわ)村及び吾川(あがわ)郡いの町、西は新居浜市の船木(ふなき)・角野(すみの)・中萩(なかはぎ)地区と境界を接し、吉野川支流の銅山川上流の谷に沿って東西に広がる山村である(図表1-3-1参照)。地形は、総面積の60%近くが標高1,000m以上という険しい山々に囲まれ、低地は少なく林野が90%以上を占める。別子山支所(旧別子山村役場)のある弟地(おとじ)や別子小中学校のある保土野(ほどの)などの集落が銅山川に沿って点在しており、主な産業は林業と観光である。
 江戸時代には、別子銅山があったため幕府直轄領であったが、明治4年(1871年)の廃藩置県で倉敷(くらしき)県や丸亀(まるがめ)県に編入され、明治22年(1889年)に町村制の施行によって別子山村が成立し、平成15年(2003年)に新居浜市と合併するまで存続した。旧別子山村は、元禄3年(1690年)に足谷(あしたに)で銅鉱床が発見されて以降、銅山集落として発展し、最盛期の明治20年(1887年)ころに人口は約12,000人を数えたが、明治32年(1899年)の山津波の被害などもあって衰え、昭和48年(1973年)には弟地近くにあった筏津(いかだづ)坑が銅価格の下落などから閉山し、283年間に及ぶ別子銅山の歴史を閉じることとなり、それに伴い銅山集落を形成していた筏津の社宅群は消滅し、以後は過疎化・高齢化が進展している。
 本節では、戦後から昭和30年代、40年代ころまでの筏津を中心とする旧別子山村の町並みとくらしについて、Aさん(昭和6年生まれ)、Bさん(昭和9年生まれ)、Cさん(昭和9年生まれ)、Dさん(昭和22年生まれ)から話を聞いた。


図表1-3-1 昭和40年代の別子山村とその周辺

図表1-3-1 昭和40年代の別子山村とその周辺