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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 農業に従事する

ア 戦後の山林開墾

 「私(近藤武さん)は、昭和21年(1946年)に学校を卒業して、会社(住友金属鉱山)へ入る予定でしたが、戦争から戻って来た父が、『わしがもんたんじゃけん(戻ったのだから)、会社へも行かんでええわや。』と言って、保土野からここ(大野〔おおの〕)へ開拓のような形で移り住みました。ここは全て住友林業の所有地で、祖父のころから小作権は持っていた借地だったのですが、農地改革で自分の土地になり、山を切り開いて増反をしたりしました。終戦後、一人当たりいくらかの配給米がありましたが、それでは足りないので食べるために農業を始めました。農業にある程度目鼻が付いた昭和23年(1948年)から鉱山に勤めるようになり、会社勤めの合間に農作業をしていました。当時は今のように林道が整備されておらず、毎朝、『ウサギ道』と呼ばれていた山道を歩いて、鉱山まで2時間かけて通勤していましたが、昭和25、26年(1950、51年)ころには、半分くらいは自転車に乗って通えるようになりました。
 畑で作っていたのは雑穀がほとんどで、ヒエやソバ、トウキビ(トウモロコシ)、サツマイモ、タイモを作っていました。代用食としてサツマイモをたくさん作り、カンコロなどにしていましたが、今の金時イモのように旨(うま)いものではなく、大きくて収量の多いものを作っていました(図表1-3-3参照)。また、どの家でもトウキビを御飯に混ぜたトウキビ飯を食べていましたが、トウキビの方が米よりも多いくらいでした。山には何町もの焼畑があり、そこでアズキやソバを何石も作って米と交換してもらっていました。2斗(約36ℓ)くらいのアズキが入った袋を背負って峨蔵(がぞう)越えで土居(どい)(四国中央市)の方へ行き、2斗くらいの米と換えて戻って来ました(図表1-3-1参照)。また、衣料品も不自由だったので、衣料品の行商が来ると、お金の代わりにアズキをいくら出したら衣料品をいくらくれるという具合に換えてもらっていました。」

イ 閉山後に始めた養豚

 「私(仲村孝三さん)は昭和27年(1952年)に高等学校を卒業した後、別子山に戻って来て20年間村役場に勤務し、昭和48年(1973年)の筏津坑閉山と同時に辞めました。そのころは農業でも食べていけた時代だったので、鉱山の閉山時に、私は、『親も財産も置いて、住友と一緒に出て行ってどうすんぞ。これだけ自然がある別子なら百姓でも食えるぞ。』と言ったのです。当時、私は経済課長をやっていたのですが、そう言った手前、辞表を出して役場を辞めて、その後、12年ほど養豚業に従事しました。豚の飼育は大変でしたが、養豚で稼いだお金で子どもを大学まで卒業させることができました。
 その後、昭和59年(1984年)に周囲の強い要請を受けて役場に復帰し、最後は村の助役まで勤めましたが、平成5年(1993年)、60歳になった時に辞めました。助役の任期がまだ2年残っており、もったいないといえばもったいなかったのですが、後の人生を楽しもうと思って、60歳になったら何があっても辞めるつもりでいたのです。」

(2) 林業に従事する

ア 鉱山を退社して始めた林業

 「私(近藤武さん)は十数年会社(住友鉱山)に勤めましたが、昭和38年(1963年)ころに会社の合理化があった時に、10年先には閉山になると分かり、会社を辞めることにしました。辞めた時には、妻からは、『会社を辞められたら困る。』と言われ、私の親兄弟や周りの人たちからは、『辞めんでもええのに。』と言われたものですが、それから10年後の閉山時(昭和48年〔1973年〕)には、私は5、6人も雇って仕事をするようになっていて、『おまえは賢かった、わしを使うてくれ。』と言われました。
 山仕事といってもなかなか仕事をあれもこれもはできないので、造材(伐採した木を適当な長さに切って木材にすること)を専門に行う人と、造林を専門に行う人に分かれていました(写真1-3-7参照)。私がやっていたのは、チェーンソーや索道を扱う技術が必要な材木の伐り出しではなく、手入れ鎌一つでできる、木を伐った跡に植林をしたり、下刈りをしたりするといった仕事でした。
 遠い所にある山林の仕事はやらないというわけにはいかず、朝6時に起きて、山越え谷越えをしてようやく山に行き着いて、仕事を始めるのが9時か10時になることもありました。
 請け負った範囲内については選り好みはできないので、自分でできない区域は人を雇うなどして責任をもってやらなければなりません。村は1,000町歩(約1,000ha)も造林をやっていたので、次から次へと仕事があり、村の担当者が請け負う人数とそれぞれが請け負う区域を決めて予算を組み、決められた金額を請け負う人に渡していました。
 請負う単価は、山刈りをするのであれば1反(約10a)当たりいくら、というように決めていきますが、村と住友林業では仕事の内容が少し異なっていることもあって、単価が異なっていました。その当時、土木関係の日役が800円だった時に、山刈りを請け負って仕事をしたら1,000円になりました。そのかわり仕事は何時から何時までとは決まっておらず、朝夜が明けたら日が暮れるまで続きました。2時間もかけて山へ上がらなければならず、会社勤めのように車から降りたらすぐ仕事ができるというわけではありません。山仕事は、車から降りて2時間くらいかけて歩かなければならないことが多かったです。
 村の方では、私が食べられる(生活していくことができる)程度の単価を組んでくれていました。会社勤めの人は朝8時に、何時から何時までと出勤時間が決まっていますが、山仕事では一杯一杯働かなければなりません。一人では抱え切れるぎりぎりくらいの仕事を請け負わなければ稼ぎにはなりませんが、自分の手に余るようであれば、期限内に終わらせるために従業員を雇う必要があります。仕事ぶりが認められたのか、幸いなことに請け負う仕事は次第に増えていき、それに伴い雇う従業員も増やしていくようにしていきました。」

イ 村のための活動

 「昭和48年(1973年)に閉山になると人口が急激に減ってしまい、学校の生徒も以前の半分になり、保護者の数も大幅に減りました(図表1-3-4参照)。すると、私(近藤武さん)たちも仕事だけやっていればよいというわけにはいかず、PTA活動もしなければならなくなりました。『人が少なくなってPTA活動もできないだろう。』と言われましたが、私は、今まで1,500人いてもPTA総会には半分も出席していなかったのだから、今残っている人全員が出席すれば今までと同じだという気持ちでいました。村に残った人が力を合わせて活動していくうちに、大勢の保護者がいたころと活動ぶりが少しも変わらなくなりました。その後、いろいろな役を否(いや)応なく務め、しまいには村議会に出るように言われました。私は周りから推されてずっとやってきましたが、断り切れずに、責任感から自分の手に余る役をやってきたというのが実情です。」

ウ 振るわなくなった林業

 「いつまでも鉱山があるわけではないので、閉山後の別子山はこうしていこうという計画は、閉山前から立てていましたが、そのときは今のように村の人口が減るとは考えてもみませんでした。閉山後は、広大な山林を生かして、林業で立って行けるようにしようと考えて、国有林を譲り受けて全て村有林にしました。別子山村には全部で1,600町歩(約1,600ha)くらいの森林がありますが、そのうち1,000町歩あまりは造林をしました。その当時、材木はいくらでも売れていて、今ほど売れなくなるとは思ってもみませんでした。1,000町歩の山林があれば、1年間に樹齢100年以上の木を10町(約10ha)くらいずつ順繰りに伐採していけるので、そうすると100年が過ぎて、その間に造林して、木を伐り出して、また下刈りして除伐(じょばつ)してというように、順繰りにやっていけば何百人かは十分に生活していけるという計画を立てていました。村有林に加えて個人の所有する私有林が1,300町歩(約1,300ha)あり、当時は、木材の需要が非常に多かったため、山仕事はいくらでもあったのです。ところが、全国的に木材の需要が大幅に減少し、それまでいくらでも売れていた木が売れなくなりました。昔であれば、学校を一つ建て替えるとなると、一山分の大きな山林が必要でしたが、木材需要の減少によって計画どおりにはいかなくなってしまいました。
 今、別子山の将来をどのようにすればよいか、誰が考えても、林業が振るわなくなった時分に方法はありません。昔は他の地域へ通じる道も整備されていませんでしたが、県道が開通して、県道からここ(大野)辺りまで林道も整備されたので、材木の伐り出しが便利になりました。そのように、あちこちを開発して林道まで整備されると、もう土木関係の仕事も必要なくなり、今から先は、生計を立てる方法がなかなかありません。
 子どもはいても、みんな別子山から出て行き、別子山で林業や観光業が振るわないということになると、仕事がないので戻って来ることがありません。そうすると、今住んでいる人がいなくなれば別子山は存続できないということになってしまいます。これまでも、5年計画や10年計画を立てて実施してきて、それから100年先の計画を立ててやってきました。一生懸命将来のことを考えてやってきたのですが、時代についていけなかったのです。国が林業を奨励していた時分は、造林したら1反当たりいくらなどと補助金を交付してくれましたが、国では、すでに少しずつ先が見えていた人がいたのです。山林を放置しておくと荒れてしまうので、水源を確保したり、空気を良くしたりするために造林事業を進めたという面があったと思います。林業が立ち行かなくなると、別子山村は水が豊富で空気もきれいなので、道路さえ良くなれば1時間もあれば新居浜や三島(みしま)(現四国中央市)へ通勤できて、企業が町で高い土地を買って工場や社宅を建設したりするよりは、山で安い土地を買って住まわせ、そこから通勤させることになるだろうと考えたり、別荘を造ったら土地も安いし観光地として人が入ってくるかと考えたりしましたが、案外うまくいきませんでした(写真1-3-8参照)。」

(3) 村のお祭り

 「村の祭りには、5月に行われる銅山祭りと、秋に行われる本村のお宮(山城神社)のお祭りがあり、村で若い人たちが奉納相撲をとったり、みんながお参りに行ったりしていました。本村のお宮のお祭りは元々10月18日でしたが、その日は休日ではなかったので、鉱山に勤めている人は会社を休んで参加していました。昔から全国どこでも、村のお祭りというのは、地区ごとにお祭りの日は会社も学校も年に1回休みが取れることになっていますが、別子山では、鉱山が5月の銅山祭りの日を休日としていたため、筏津坑閉山後も本村では秋のお祭りの日を休日にはできなかったのです。そこで、昭和25年(1950年)から30年(1955年)ころ、青年団の中心となっていた私(近藤武さん)たちは、休日に祭りを行うようにしようと活動し、少し時期は遅くなりますが11月2、3日に祭りを行うことに決まりました。
 村には神(み)輿(こし)が1基あり、お祭りでは青年団がかいて回っていましたが、昭和26年(1951年)に落雷による火事で焼けてしまい、神輿なしでお祭りをしていたところ、東平が筏津よりも先に閉山になって、持っていた子ども神輿をくれました(写真1-3-9参照)。青年団は幟(のぼり)を立てたり、土俵を作ったりといったことは全て奉仕でやっていましたが、その青年団も今はなくなり、振興会という組織がその役割を引き継いでいます。
 お祭りになると、蒟蒻(こんにゃく)を作ったり、トウキビやヨモギ、アワなどが入った餅をついていましたが、それが何もない時の御馳走(ごちそう)でした。農家では、『ダイガラ』という足でバタンバタンと餅をつく装置があって、ダイガラでお味噌(みそ)やお醤油など、何でも作っていました。」

(4) 子どもの世界

ア 戦争の記憶

 「終戦当時、私(近藤武さん)は保土野にあった国民学校(現新居浜市立別子小中学校)の高等科2年でしたが、高等科に上がれば、志願して兵隊に行くか、満州(まんしゅう)(現中国東北部)へ開拓義勇軍か何かで行かされるか、というようにどこかへ徴兵で採られる時代でした。私は半強制的に海軍に志願させられ、徴兵検査に行った三島で終戦を迎えました。戦争の激しいころは、運動会の綱引きで、『オーエス』という掛け声で引っ張っていると、『オーエスとはどこの言葉ぞ。1、2、3で引っ張れ。』、と言われるような時代でしたが、戦後は教育内容が大きく変わり、英語を勉強するようになりました。」

イ 子どもの遊び

 「子どものころは、けんけん相撲にベッタン(メンコ)、コマ回し、くぎ打ち、ラムネ(ラムネの瓶に入っていたビー玉を用いた遊び)などをして遊びましたが、いずれも勝てば相手のものを取ることができました。私(仲村孝三さん)が尋常科のころ、ベッタンを高1(高等科1年)や高2の子と何度やっても勝てず、そのたびにベッタンを取り上げられ、しまいには、親が取られたベッタンを取り戻してくれたこともありました。」
 「戦時中の食糧難のころでも、保土野にあった私(近藤武さん)の家では農作物を作っていたので、カンコロなど食べ物はそれなりにありましたが、社宅住まいの人は配給だけだったので食べ物が不足していました。学校で昼飯の時間に、家から持参したカライモを火鉢で焼いていると、社宅の子たちが欲しがったので、食べ物とラムネの玉やベッタンなどを交換していました。鉱山に勤めている家は現金収入がある上に、社宅には配給所などのお店があったので、社宅の子たちはベッタンもたくさん買い集めていました。社宅に住んでいる子は3年生までは弟地の分校へ通い、4年生から保土野の本校へ通うのですが、卒業するまで二つのグループに分かれてよく喧嘩(けんか)していました。人数の上では社宅の子の方が有利でしたが、物資不足のころには立場が逆転しました(写真1-3-10参照)。
 「昔は今よりも積雪が多く、子どもの長靴が埋まるくらい降っていたので、私(近藤輝美さん)は冬になると、竹スキーをしたり、そり遊びをしたりしていました。竹スキーは竹を半分に割って、先を焼いて曲げてろうを塗り、そりは竹スキーに板を打ち付けて座れるようにした手作りのものでした。家の近くにあった林業(住友林業)の倉庫でみんなで作って、近所の坂道や東平の小学校のすぐそばにあった坂道でスキーやそり遊びをしました。」

(5) 青年団と婦人会

 「別子山の青年団は第1支部、第2支部に分かれており、その上に本部があって団長がいましたが、実質的には支部長は団長のようなものでした。青年団の活動は、社宅に住む人と村に住む人では分かれていました。私(近藤武さん)たち村に住んでいる人も鉱山に勤めていましたが、住んでいる所が違うので社宅の人とは別の支部に属していて、弟地と住友鉱山の社宅は同じ青年団に属していました。村は瀬場(せば)を境界として二つに分かれていて、本村ではない方を『筏津』と言っていました。筏津は人数が一番多かったので、『住友』とは言わずに『筏津』と言ったのだと思います。それに準じて婦人会も分かれていましたが、婦人会にも本部があり、団長がどちらから出るか分からないので、本部がどちらに置かれるか分かりませんでした。必ず村の方から出るとは限りませんでした。分かれていないのは学校のPTA関係と交通安全協会だけで、他の活動は全て分かれていました。村から出た人が鉱山へ出て、筏津の社宅に住んでいるという場合、別子山村出身の人が選ばれていました。よそから働きに来て社宅にいる人が団長に選ばれることはなく、社宅にいても活動を自由にできるような人を選んでいました。」

(6) 食べ物

ア 麦やトウキビの混ざった御飯

 「別子山は山間部なので収穫できる作物が限られていて、私(近藤輝美さん)の家ではトウキビやジャガイモ、サツマイモなどを作っていました。御飯は、お米に麦を少し混ぜて食べていましたが、家族が多い家ではトウキビも米に混ぜて食べていました。また、小麦粉を溶いたものにお砂糖を少し入れて、フライパンでクレープのように薄く焼くと、穴が蜂の巣状に空くので、『蜂の巣焼き』と呼んで、おやつ代わりによく食べたものでした。」

イ 山の恵み

 「私(近藤輝美さん)が子どものころ、父親が、山に生えているもので食べられるものと毒があって食べられないものをきちんと教えてくれました。山には、アケビやタラの芽、ウド、タケノコ、フキ、野イチゴ、ブドウ、ヤマモモなど食べられるものがたくさんありましたが、保存食として最もよく採ったのはタシッポとワラビでした。タシッポは皮を剥(は)いで茹(ゆ)でるのですが、沸かしたお湯の中に放り込んだものをパッと出して水に浸(つ)けないと色も悪く、柔らかくなり過ぎるので、茹で方が難しいのです。ウドもよく採りましたが、上の方も皮を剥(む)いて食べることができました。
 マツタケを見付けるのは難しいのですが、父親はリュックサックを背負って行って、一杯採っていました。私は一緒に連れて行ってもらって、『ここに生えとるから見てみろ。』と言われても、なかなか見付けられませんでした。山の斜面を下から覗(のぞ)いたら少しは分かるそうで、『上から見ていても絶対採れない。』と言っていました。
 子どものころは、友達みんなと蜂の巣を採りに行って、蜂の子を炒めて食べたこともありました。また、天気の良いときは日向(ひなた)ぼっこでもしているのか、道の真ん中で長くなっているヘビやマムシに出くわすことがありました。周りに大勢の人がいるときは少し離れた所からマムシに向かって石を投げることもありましたが、一人のときはそんなに道を急がなくてもいいと思いながら、遠巻きに見て、マムシがいなくなるのを待って通り過ぎたものでした。同じ地区の人の中には、マムシを獲(と)って来て焼酎に漬けて薬にしていた人もいましたが、現在ではそのような人は見かけなくなりました。」

ウ イノシシの肉

 「昔は山では肉は買って食べるものではなく、山鳥やウサギなどを獲って食べていました。私(近藤輝美さん)の父は鉄砲の腕前が良かったので、シカやイノシシも獲ってきて、イノシシは牛肉などよりもよく食べていました。若いイノシシの肉は柔らかいですが、年齢を重ねると徐々に硬くなっていきます。ウサギやキジ、山鳥も食べましたが、山鳥の肉は鶏(とり)のササミよりもおいしく、時々卵が入っていることもありました。父は林業という仕事柄、どうしても山歩きをすることが多く、動物に襲われたら危ないので、鉄砲を持っていました。普通の人は鉄砲で獲物を狙う際に、鉄砲を構えて片目を閉じますが、父は閉じることができず、自分で縫った眼帯を持っていました。父は昔からミシンもできて、背広なども自分で縫っていたくらいなので、眼帯を縫うくらいは簡単だったのでしょう。イノシシが出てくると恐ろしいのですが、小さい時分から、イノシシは木には登って来ないという話は聞いており、山でイノシシに追いかけられそうになったら、低い木でも見付けて登ろうと思っていましたが、幸い出くわすことはありませんでした。」

エ 川の恵み

 「私(近藤輝美さん)の父はアメゴをよく釣ってきて、いつも食卓に上がっていましたが、骨は硬くなく食べやすいものでした(写真1-3-11参照)。林業には見学に来る人が大勢いましたが、その人たちにマツタケとアメゴを出して歓迎していました。アユは別子山の方にはいませんでしたが、昔はほかにも何らかの魚がいた気がします。アメゴは水面に影が映ると絶対に釣れない、といった話を聞いたことがあります。」


参考文献
 ・ 朝倉書店『日本図誌大系 四国』1975
 ・ 別子山村『別子山村史』1981
 ・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
 ・ 日和佐初太郎『写真集 別子あのころ 山・浜・島』1990
 ・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
 ・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
 ・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
      『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
 ・ 別子山村『広報べっし』


図表1-3-3 別子山村の主な栽培作物の作付面積

図表1-3-3 別子山村の主な栽培作物の作付面積


図表1-3-4 別子山村の人口推移

図表1-3-4 別子山村の人口推移