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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(1)南北航路の歩み

 ア 南北航路の開設と発展-競争と協定の歴史-

 愛媛県と広島県を結ぶ南北航路は、山陽地方との鉄道連絡ルート、また、島しょ部との連絡ルートとして発展し、経済的、社会的、文化的交流という役割を果たしてきた。
 芸予航路は、明治23年(1890年)11月、石崎汽船が木造の蒸気船「函洋丸」(35トン)を傭船(ようせん)(チャーター)し、三津浜-宇品間に開設したのが始まりである。同年12月には、広島汽船合資会社が芸予航路に参入し、石崎汽船と運賃割引合戦を展開した。
 今治-宇品航路は、明治21年3月、今治の木村汽船によって開設された。続いて、明治25年11月、住友汽船が山陽鉄道に連絡させるための新居浜-尾道航路を開設した。さらに、明治30年8月、今治の東予汽船によって今治-尾道航路、今治-宇品航路が開設され、それぞれの航路は島しょ部を経由したので各航路は繁栄した。明治35年に就航した東予汽船の「第1東予丸」(47トン)をはじめ、歴代の東予丸は、今治-尾道間の代表的な鉄道連絡船となった。さらに明治36年(1903年)8月、石崎汽船は、大阪、東京への鉄道連絡便として「第3相生丸」(96トン)で三津浜-尾道間に定期航路を開設した(山陽鉄道は、神戸を起点に明治24年岡山、25年三原、27年広島、34年下関まで完成)。明治末期までは松山-大阪間は海路で24時間を要したが、大正元年(1912年)には尾道、山陽線経由で13時間に短縮され、松山-東京間も28時間となった。
 このように愛媛-広島間の南北航路は日本の産業、交通の近代化とともに発展してきたが、航路をめぐる各汽船会社の競争は明治、大正、昭和時代を通じて激烈に展開された。
 南北航路発展の歩みは、石崎汽船、広島汽船、肱川汽船(伊予汽船)、大阪商船、尼崎汽船、東予汽船(瀬戸内商船)、瀬戸内海汽船等々の汽船会社による、まんじともえの激しい競争、紛争の繰り返しと協定、連帯(共同運航)の歴史でもあった。
 その間、瀬戸内海の南北航路において貨物、旅客輸送を担ってきた船舶も、蒸気機関、焼玉機関からディーゼル機関による貨物船・旅客船に発展し、速力や設備も近代化してきた。さらに戦後は、高度経済成長とモータリゼーションにともなうフェリーボートの就航(昭和34年、昭和海運の「あき」が今治-三原間に初就航)や、新幹線はじめ高速交通時代に対応した水中翼船(昭和39年、瀬戸内海汽船の「ひかり」が今治-尾道間に初就航)、高速船、スーパージェット(双胴型ウォータージェット推進高速船、平成5年10月から瀬戸内海汽船「道後」、「宮島」と石崎汽船「瑞光」、「祥光」が松山-広島間に就航)などが相次いで投入され、今日では、松山-広島間は70分、松山-尾道間は85分で結ばれるに至った。
 以下、南北航路を代表する石崎汽船と瀬戸内海汽船の2社を取り上げ、そこで安全運航に尽くしてきた人々の航跡をたどってみた。

 イ マルイチ石崎汽船の歩み

 平成7年、石崎汽船株式会社は、明治6年(1873年)の創業(前身は石崎廻漕店)以来122年を迎えた。石崎汽船のシンボルマーク、マルイチ(屋号)は、文久2年(1862年)、創業者の祖父にあたる新浜村(現在の松山市港山町から高浜町にかけて)の庄兵衛が松山藩御用の廻船問屋を始めてから今日まで、133年にわたり瀬戸内海になびかせ、芸予を行き交う人々に親しまれてきた旗印である。
 以下、最近発刊された『石崎汽船史海に生きる(⑩)』により、133年にわたる石崎汽船の歩みを略年表で掲げる。

 〇文久2年(1862年)
   新浜村の庄兵衛、藩御用の廻船問屋になり、上方から江戸、奥羽方面まで物資輸送に活躍。
 〇明治9年(1873年)
   庄兵衛の孫の石崎平八郎、松山-大阪間に旅客航路を開き、三津浜で旅客船業「石崎廻漕店」を創業。
 〇明治23年(1890年)
   三津浜-宇品間に芸予航路を開設。広島汽船合資会社の参入により運賃の値引き合戦に発展。
 〇明治36年(1903年)
   大阪・東京への鉄道連絡便として、三津浜-尾道間に定期航路を開設(尾道航路の始まり)。
 〇明治39年(1906年)
   高浜港完成、三津浜寄港の定期船の多くは高浜に移る。
 〇明治44年(1911年)
   尾道航路の有望性が鉄道院に認められ、石崎汽船、伊予鉄道、国鉄の三社連帯運輸が許可される。貨物連帯運輸の許可も
  受ける。
 〇大正7年(1918年)
   石崎汽船株式会社を設立(資本金20万円)、初代社長に石崎兵太郎就任。
 〇大正11年(1922年)
   今治-宇品航路を開設(翌年廃止)、三津浜-新居浜航路を開設(翌年廃止)、三津浜築港完成。
 〇昭和9年(1934年)
   不定期の大阪航路を開設、午後5時に三津浜出港、高浜経由で翌朝8時大阪着。
 〇昭和23年(1948年)
   芸予航路、尾道航路再開。
 〇昭和40年(1965年)
   初のフェリー芸予航路に就航。
 〇昭和41年(1966年)
   初の水中翼船が就航し、松山-広島間で瀬戸内海汽船とともに水中翼船2隻による6往復運航開始。
 〇昭和42年(1967年)
   松山観光港完成。
 〇昭和43年(1968年)
   芸予航路、全便フェリー化が実現(瀬戸内海汽船と共同運航)。
 〇昭和44年(1969年)
   尾道航路に水中翼船が就航。
 〇昭和50年(1975年)
   松山-三原航路開設(瀬戸内海汽船、昭和海運と共同運航)。
 〇昭和63年(1988年) 
   瀬戸大橋開通の影響で三原航路廃止。
 〇平成5年(1992年) 
   双胴の超高速船スーパージェットが芸予航路に就航。

 ウ 瀬戸内海汽船の成り立ち

 昭和12年(1937年)7月、日中戦争勃発後の国家統制は、軍需物資優先政策により各産業におよび、海運分野もまた、その例外ではなかった。政府による戦時統合政策のもと、特に船舶燃料の統制により旅客船航路の確保ができなくなり、中小海運会社の企業合同が進んだ。
 昭和15年3月公布の海運統制令により、同年9月、第1次統合が行われ、広島湾汽船を中心に26社に集約された。
 昭和16年12月、太平洋戦争勃発後は戦時統制を強化するため、昭和17年3月、戦時海運管理令が公布され、4月からすべての海運会社は船舶運営会の統制下に置かれた。同年12月には、第2次統合が行われ広島県汽船(広島県合同汽船統制会)を中心として7社に集約された。なお、昭和17年5月には大阪商船を中心として7社(43航路、86隻)が集約され、関西汽船が設立されたが、神戸海務局によって、昭和19年2月から岡山県笠岡と香川県多度津(たどつ)を結ぶ線から東が関西汽船の運航範囲、以西が広島県汽船グループの運航範囲と指定された。
 昭和20年(1945年)6月には、広島県汽船を中心として7社による第3次統合が行われ、瀬戸内海汽船が誕生した(図表1-1-15参照)。この時のグループ所属船舶は112隻であったが、その内32隻が徴用船で、80隻は7会社から現物出資したものであった。このようにして誕生した瀬戸内海汽船は平成7年、創立50周年を迎えた。瀬戸内海汽船の50年は、尾道-今治鉄道連絡船、広島-今治航路、広島-松山航路など南北航路の戦後50年の歩みを物語るもので、瀬戸内海全域で最多時代には37航路にわたった。また、最近では、フェリー、高速船、水中翼船、スーパージェットの就航やレジャー時代に対応したクルージング船の運航など社会のニーズに応じた多様な航路を開発したり、ホテル、レストハウスなどの観光事業を営むなど、積極的に多角経営を進めている。

図表1-1-14 瀬戸内海南北主要航路

図表1-1-14 瀬戸内海南北主要航路


図表1-1-15 瀬戸内海汽船の成立

図表1-1-15 瀬戸内海汽船の成立

瀬戸内海汽船資料より作成。