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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)安全運航が一番の喜び

 ア 親子三代の船乗り、船長**さんの歩み

 **さん(松山市中須賀 昭和3年生まれ 67歳)

 (ア)第12相生丸でスタート

 **さんは松山市の海の玄関、高浜町に生まれた。父は船員として陸軍の御用船に乗組んでいた。
 昭和18年(1943年)、高浜尋常高等小学校を卒業した**さんは、父の知人の紹介で石崎汽船に入社した。**さんは、「甲板員見習いとして『第12相生丸』(304トン)に乗り組み、着岸の際のロープ取りや舵(かじ)取りなど、船乗りの基本修業を始めました。第12相生丸は石崎汽船の花形客船で、そのころは石炭を炊くスチームエンジンにより、三津浜-高浜-音戸-呉-宇品(広島)間を約4時間で運航していました。わたしなど、まだ少年で何もわからない状況で乗っていましたが、18歳当時の給料は30円くらいでした。戦時中は呉港でグラマン戦闘機の銃爆撃を受け、怖い思いをしました。」と振り返っている。

 (イ)東海汽船へ

 戦後の昭和27年(1952年)、**さんは、石崎汽船を辞めて、東京の東海汽船に入社し、甲板員として大島航路や八丈島航路(2千トン級)の客船に乗船した。また、貨物船に乗り、太平洋沿岸各地から九州まで運航の経験を積んだ。
 昭和35年(1960年)、**さんは東京で結婚し、男児2人に恵まれた。
 東海汽船時代について、「昭和27年から13年間、東海汽船にいましたが、石崎汽船より規模(船・船員など)が大きく、瀬戸内海から太平洋までいろいろな航路に乗ったので大変勉強になりました。この間、乙種1等航海士の資格やレーダー取り扱いの資格を得ました。ただ、太平洋におけるシケの大波には弱りました。わたしは船酔いしやすい方でしたので、八丈島から東京まで酔いっ放しでした。思い出の船としては、貨物船の『第2鮮友丸』(302トン)、客船の『淡路丸』(1,118トン)、『橘丸』(177トン)などがあります。第2鮮友丸には石崎汽船でいっしょに勤めた機関長も戦時中に乗られたそうです。」と若いころの思い出を語っている。

 (ウ)石崎汽船へUターン、船長に

 昭和40年(1965年)、**さんは、次男出生を機に松山へUターンし、石崎汽船に再入社した。石崎汽船では、1等航海士として、三津浜-宇品航路の客船「春洋丸」(297トン)の運航に従事した。第12相生丸は引退し、フェリー「旭洋丸」が就航したころである。昭和41年、**さんは船長として宇品航路の水中翼船「金星」(64トン)に乗船し、指揮を取るようになった。水中翼船の勤務について、「水中翼船は時速60kmと速度が速く、1日3往復で、航海時間は日の出から日没までと規定されていましたので、弁当持ちの勤務体制となり、大変楽になりました。このように通勤サラリーマン的な勤務になったので、家内も『船乗りにも、こんな楽な勤務生活があるのか。』と驚いていました。もっとも給料は東海汽船ころより大分下がりましたが。なお、水中翼船の乗組員は、船長、機関長、機関員、マリンガールの5名でした。」と、水中翼船に船長として乗り始めたころを振り返っている。
 昭和40年代から50年代にかけて、水中翼船「光星」(133トン)、「明星」(63トン)、「隆星」(57トン)、フェリー「観洋丸」(496トン)、「恵洋丸」(653トン)など数々の船に船長として乗り組んできた。
 昭和61年(1986年)、**さんは、次男が石崎汽船に入社したのを契機に、定年を1年残し、57歳で退職した。最後に乗り組んだ船は、水中翼船光星であった。

 (エ)舵取り44年を振り返って

 16歳で船乗り修業をスタートし、東海汽船、石崎汽船と41年にわたる船員生活(うち20年が旅客船船長)を振り返って、**さんは、次のように思い出を語っている。
 「戦後の生活が落ち着いてくると、旅客船の団体貸切りによる瀬戸内海旅行がはやりました。今でいう観光旅行の始まりでしょう。臨時便の『第12相生丸』や『春洋丸』も、瀬戸田、大三島、宮島、別府などの人気コースによく行きました。夜乗って船中泊、翌日1日中観光して旅館に1泊し、もう1日観光し、また船中泊して翌朝帰着(旅館1泊省略の場合もある。)という旅程が普通でした。修学旅行もたびたび扱いました。まだ旅行社、観光社のない時代で、社内に団体旅行専門の係がいて、臨時に団体客を募集していたようです。
 フェリー運航で苦労したのは、やはり台風や季節風の西風でした。三津浜港は、現在の防波堤ができてなかったので、赤灯台からフェリー桟橋の手前まで波が高く、船の窓がこわれるかと思うほどでした。多くの自動車を積んでおり、船の上部が高いから転覆の危険性があり、波風には苦労しましたが、今の防波堤ができてから接岸が楽になりました。台風の場合、瀬戸内海は太平洋と違って避難場所として興居島(ごごしま)など島陰がかなりありましたので、避難しやすかったです。台風のコースによっては広島方面まで避難したこともありました。
 台風は気象予報で対応できましたが、西風には弱りました。三津浜港の桟橋は大体良かったのですが、高浜港は西風が強いので接岸に難儀しました。
 水中翼船の場合は、西風が強いと桟橋には着けられないし、また、アンカーが打てないので停泊できず、一晩中エンジンをかけて走り回って風を避ける必要がありました。翌朝の交代まで走り回るので大変でした。水中翼船の初めころ、『金星』、『光星』、『つばさ』などにはレーダーがなく、自分の勘に頼り、水中翼船の後ろの航跡を見ながら走ったものですから大変でした。今はレーダーが付き、新鋭機器になりましたので、運航が楽になりました。
 船長を20年ほどやってきましたが、旅客船のやりがいは、いつもお客さんを安全に無事目的の港に運ぶことです。機関長はじめ乗組員と一心同体で安全に運航できたことが一番の喜びです。」
 **さんの次男は、昭和61年転職して石崎汽船に入社した。石崎汽船では親子2代にわたる社員は珍しくないという。**さんは4級海技士の資格を取り、目下、フェリー「晴洋丸」に乗り組んでおり、**さんの後継者として、3代目の船乗り修業を積み重ねている毎日である。

 イ **船長の歩み-舵取りに生きて-

 **さん(松山市堀江町 大正11年生まれ 73歳)

 (ア)戦後、瀬戸内海汽船へ

 **さんは、昭和10年(1935年)、堀江尋常高等小学校を卒業後、宇和島の鋳物工場に2年、以後松山に帰り鋳造所に5年勤めた。この時期の技術経験が、のち船員になってからも役に立ったという。
 昭和18年(1943年)、徴兵検査をへて佐世保海兵団に入団後、横須賀海軍航海学校に入校し、そこを卒業した。また、昭和20年3月、航海学校高等科に入学したが、この間に砲艦や海防艦に乗艦し、昭和20年8月、青森県大湊(現在のむつ市)で終戦を迎えた。
 昭和20年10月、復員で尾道から今治に渡った際、たまたま乗った尾道-今治連絡船の「第15東予丸」の船長(堀江出身)から乗船の勧誘を受け、昭和21年4月、瀬戸内海汽船の今治支社に甲板員として入社した。
 **さんが最初に乗船した船も、第15東予丸(200トン)であった。
 「昭和21年4月、わたしが乗ってから2か月後に第15東予丸が進駐軍の遊覧船に徴用となり、岩国の進駐軍の家族を運んだりしました。そのころは食糧難でしたが、進駐軍の係からパンや砂糖をもらって助かりましたよ。また、徴用船だから石炭や油も良質のものが補給されました。当時は、蒸気エンジンで石炭を燃料にしていましたが、石炭が粉炭でよく燃えないため、尾道-今治間の航海に3時間15分もかかり、1日1往復がやっとの状態でした。だから、進駐軍に徴用された方が、会社としても条件がよかったようです。石崎汽船の『第12相生丸』もいっしょに徴用されていました。」と、終戦直後に旅客船が徴用されたころの様子を振り返っている。

 (イ)瀬戸内海航路の舵を握って

 **さんは、「その後、昭和30年まで10年ほど甲板員、甲板長(1等航海士)としてさまざまな航路で経験を積みました。尾道-鞆(とも)ノ浦-多度津線、尾道-因島(いんのしま)-弓削(ゆげ)-四阪島(しさかじま)-新居浜線、今治-尾道本航路(下田水(しただみ)、椋名(むくな)、木浦(きのうら)、岩城、弓削、因島に寄港)、宇品-三津浜の芸予線、尾道-大長(おおちょう)の尾大線、東能美(のうみ)線、西能美線、倉橋線など三十数線にわたり、多様な航路があったので、各港の状況を覚えることが大変でした。経験豊富な船長に2、3日前から操船の要領を教わったものです。瀬戸内海のあらゆる航路を経験しないと船長にはなれなかったのです。
 当時の尾道-四阪島-新居浜線などは住友企業の関係で乗客が多く、また、尾道の海産物、干物などをたくさん新居浜へ運びました。」と、さまざまな運航経験について語っている。
 **さんは、昭和30年(1955年)から船長になり、今治-広島航路の「第8東予丸」(56トン)を初めとして、旅客船「ぷりんす」(177トン)、フェリー「ひろしま」(468トン)、旅客船「こがね」(308トン)、「しろがね」(360トン)などに乗り組んできた。

 (ウ)瀬戸内海航路の思い出

 「昭和45年(1970年)5月10日、来日中のハイネマン西ドイツ大統領を乗せ、宮島、岩国を回った時のことは思い出深いですね。事前に丹念な打合せをやり、警備も厳重で大変気を遣いました。大統領乗船予定の『こがね』も内装設備を立派に改装しましたので、見違えるようになりました。その時、わたしがハイネマン大統領からいただいたサイン入りの写真を大切に保存しています。
 その直後の5月12日に起こったのが旅客船『ぷりんす』乗っ取りのシージャック事件です。乗客を人質にしていた犯人は13日に宇品港で射殺されるという大騒動となりました。わたしが大統領乗船の『こがね』に乗るため、それまで乗っていた『ぷりんす』を降りてから4日後の出来事でしたよ。」と、当時のセンセーショナルな事件を語っている。
 **さんは、昭和55年(1980年)10月、58歳で定年退職を迎えた。最後に乗った船はフェリー「ひろしま」であった。この船はこのあと登場する機関長の**さんといっしょに乗船した思い出の船でもあった。瀬戸内海汽船に入社してから34年(その間、船長としての勤務が25年)の船乗り生活を振り返り、さまざまな苦労話とやりがいについて、次のように語ってくれた。
 「苦労話として、まず挙げられるのが瀬戸内海の濃霧と風波、特にしけの時の伊予灘のローリングとピッチング(どちらも船のゆれのこと)です。瀬戸内海は、狭い水道や海峡、暗礁や浅瀬が多く、霧や風の強い時は、大変でした。また、台風時の避難対策には大変気を遣いました。今、どのように風が吹いているか、台風の進行方向に従い、避難場所をどこにするか、夜通しバロメーター(晴雨計)を見て記録をとりながら台風の中心を判断していきます。大きな波がきても、気持ちの上で、こちらが大きい波を飲み込むくらいの自信を持って臨むことが大切です。逆に、波に飲み込まれるような気持ちになって、判断がつきにくくなるのが怖いです。
 また、レーダーのないころは、夜間航行に気を遣いました。広島から別府への夜間航路などはマストのリギン(マストの張り)を見て、星の位置、角度からコンパスでコースを判断しながら若い操舵手に指示していきますが、やはり経験が大切です。大きい船はマストの灯が見えるのですが、漁船などは波間に隠れて灯が見えないので注意がいりました。
 レーダーが付いてからも、レーダーだけに頼らず、万が一の故障を考えて、経験で裏づけながらレーダーを使うことが大切です。しかし、船にレーダーが付いて本当に助かりました。レーダーが目だとすれば、船の心臓にあたるのが機関部です。機関にトラブルがあれば、わたしもよく修理を手伝いました。若い時に鉄工所で働いたことと海軍時代の経験が大変役に立ちました。『第15東予丸』に乗って岩国港に入港したとき、軍艦の錨(いかり)のアームが船底に接触して船底に穴があいて浸水してきました。わたしは板片2枚に毛布をはりつけてグリスを塗り、船の内と外から当てて、ボルトで締めつけて浸水を防ぐ応急処置を取りました。その後、尾道の造船所で修理しましたが、造船所の人は、この応急処置を感心してくれました。やはり船長と機関部は一心同体でなければなりません。
 やりがいは、お客さんを安全に無事目的地に運んで船が着いた時です。なんと言っても人命を預かる仕事ですから、安全第一に生きがいを覚えました。
 一番気を遣ったのは、定年退職前の最後の航海でした。今まで無事故でやってきたので、最後の1日が一番怖かったです。また、定年退職後でも船の時間を気にして、時々夜中に飛び起きることがありましたよ。しかし、ありがたいことにお陰様で、船の沈没、座礁、衝突、火災事故などの大きい事故もなく、船乗り人生を全うできたのは幸せなことでした。」