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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(5)内航船主から外航船主へ

 ア 今治市の内航・外航船主、**さんの歩み

 **さん(今治市東門町 大正3年生まれ 81歳)

 (ア)玄海灘を越えて船乗りスタート

 **さんは、船処として名高い越智郡吉海町津島に生まれた。父親も船乗りで、**さんが子供のころ(大正時代)には純然たる帆船に乗っていたという。**さんは、津島尋常高等小学校6年のとき、今治第二尋常高等小学校へ転校した。昭和3年 (1928年)4月、同校を卒業したのち、叔父の機帆船「千代丸」(200トン)に乗り組み、船乗りのスタートを切った。千代丸では九州の石炭や材木輸送に従った。さらに、父の機帆船「若豊丸」(150トン)に乗り組み、玄界灘を越えて遠く朝鮮半島北端まで運航した。
 **さんは、当時の様子について、「朝鮮半島では、プサン(釜山)、インチョン(仁川)からヤールー川(鴨緑江)河口のシニジュ(新義州)まで行き、満潮の折には上流に上って柳の木(下駄の材料にする)を積んで、尾道まで帰りました。わたしの年ごろの者はこのようなコースや玄界灘を越えることを恐れてだれも行かなかったのですが、わたしは思い切って行きました。『自分は海運に生きる』という信念から、海図があればどこへでも行けるはずだという気持ちがありました。」と意気盛んであった若い時代を振り返っている。

 (イ)一杯船主として独立

 昭和16年(1941年)5月、27歳の**さんは、機帆船「若豊丸」(150積みトン)を新造し、一杯船主として海運業自営の道を歩みはじめた。
 昭和18年10月、善通寺西部37部隊に入隊し、船舶工兵として中国東北(満州)方面に従軍し、昭和20年8月、華北で終戦を迎えた。昭和22年5月、復員したのち、住友別子鉱業所の曳きボートや機帆船に乗船した。
 昭和26年(1951年)5月、機帆船「須磨丸」(150トン)を購入し、海運業を再開した。
 昭和28年8月、はじめて小型鋼船「津島丸」(230トン)を800万円で購入した。津島丸はもともと砕氷船であったが、今治造船所で船体を12m引き伸ばして370~380D/Wほどに増やした。この工事が今治造船における鋼船工事の第1番船となった。今治造船所の社史『今治造船史(⑦)』には、**さんの回想談として、「今治造船設立の登記が終わって2日目に契約が成立、その翌日には上架して引き伸ばし作業にかかっている。5月末には完成したが、改造が終わって試運転のとき、鋼船もいいもんじゃな、と思った。」と語っている。
 **さんは、津島丸について「当時、今治地方では、小型鋼船は桑名海運はじめ3隻くらいおりましたが、わたしはすぐ運転できる船を購入しました。鋼船購入は1、2か月遅かったけれど、鋼船を走らせたのは、わたしが一番早かったですよ。」と語っている。この津島丸に乗り組んだ**さんは、博多、大阪間で雑貨輸送に従事し、順調に業績を上げた。
 昭和34年(1959年)10月、**さんとともに、双輝汽船有限会社を設立し、12月、津島丸を売船して「双輝丸」(498G/T、850D/W)を今治造船で新造した。

 (ウ)近海船、遠洋船に進出-世界の海ヘ-

 **さんは、昭和41年(1966年)7月には双輝汽船株式会社を設立し、代表取締役になった。同時に「若王丸」(2,501G/T、3,931D/W)を建造した。若王丸は、双輝汽船の近海船第1号で、フィリピンやボルネオの材木、ロシア沿海州の北洋材を輸送した。続いて、昭和43年「くるしま丸」、44年「若輝丸」(2,996G/T、5,858D/W)、45年「若雄丸」と連続して近海船を建造した。
 **さんは、昭和40年ころ陸に上がり、内航船と近海船の会社経営に専念することにした。「内航船から船をだんだん大きくしたい、という気持ちが前々からありましたので、近海船を造りました。1年ずつ、どんどん造っても、突っ張っていけた時代でした。しかし、これらの近海船は、オイルショックによる不況の影響などのため、1隻ずつ売船して最後は1隻のみにしました。このあと、遠洋船に乗り出し、昭和49年(1974年)に貨物船『マルキース』(5,714G/T、9,999D/W)を建造し、アメリカから米材を輸送しました。この際、マルキースをパナマ船籍に置き換え、乗組員は、20人全員外国人にし、いわゆる、便宜置籍船の第1号としたのです。」と、内航から近海船へ、さらに遠洋船に乗り出したころの経緯を語っている。
 双輝汽船では、遠洋船も貨物船のみでなく、昭和57年(1982年)に小型冷凍船「真正丸」、58年に「真旭丸」(いずれも499トン)を建造し、超低温でマグロを輸送する専用船としてインド洋、太平洋方面に運航した。このように昭和50年から60年にかけて、近海船、遠洋船中心に建造し、内航船を合わせると、ピーク時には、会社グループ(双輝汽船、藤村汽船)で所有船が13、4隻にのぼった。
 昭和60年(1985年)には、遠洋船「プリンセスダイアン」(12,368トン、建造費21億円)を建造したが、建造段階でパナマ船籍に移した。続いて同型船を2隻建造し3隻とした。
 **さんは、外航船経営の実状について、「プリンセスダイアンなどを造ったころは、外航海運もかなり調子の良い時代でした。しかし、1ドル250円と、だんだん円高になってきましたので、船を3、4年使用し、タイミングをみて売船しました。これらの船は、損もしないがもうけもない、という状態でした。とにかく今日のように激しい為替変動時代では、売船のタイミングの判断が大切です。しかし、海運経営が船の運航利益にたよらず、売船利益に依存するのは本来の海運経営の姿ではありません。現在、いかに用船料が切り下げられ、いかに円高がわれわれの経営を圧迫しているか、ということです。」と語っている。

 (エ)70年の海運生活を振り返って

 **さんは、70年に近い海運業の歩みを振り返って、数々の思い出と、当面する諸問題について、次のように語ってくれた。
 「まず、戦後復員して間もなく機帆船を購入し、わたしが船に乗って海運業の自営を始めたころは、預金封鎖のため金融機関から資金が借れなかったので大変苦労しました。しかし、若いときに船を持つ力があり、しっかり頑張れば採算ベースに乗らないことはなく、その点、良かったことをいろいろと経験しました。特に昭和40年代から50年代はじめころの高度経済成長時代は、海運は、やれば何でもやれてきたし、事業が面白く、やりがいがありました。
 また、このように海運事業をやってこれたのも、金融機関の協力、連携の支援体制が整い、お互いの信頼関係があったからだと思います。今治造船はじめ造船所との関係も長年の信頼に基づいています。
 しかし、現在の問題点は、なんといっても円高問題です。変動為替相場制時代になり、円相場の変動にまったく翻(ほん)ろうされています。わたしらは円で商売しているのですから、この急激な円高のため日に日に大赤字の状況がこたえます。
 次の問題は用船料の低下です。われわれは、荷主に押され、オペレーターに押されて用船料はさっぱりです。大手鉄鋼関係の荷主も用船料の5%引下げを要求しており、われわれは苦しい限りです。下請け、孫請け業者の弱者の立場を、いやというほど味わっています。用船料の低下は、急激な円高と合わせてたまりません。担保能力や自己資金の弱いわれわれとしては大変な問題です。
 船員雇用にしましても、週40時間労働制により交代の予備船員を確保しなければなりませんから、どうしてもコスト高になります。
 また、内航海運の規制緩和と構造改善の問題も、大変な課題です。船腹調整制度の廃止や小規模な海運業者の協業化、集約合併の問題も、政府の補償制度や援助が必要です。
 『日本は島国だから海運が大切である。』とよくいわれますが、本当に海運は大切にされているのでしょうか。われわれからみれば、海運業者は外堀を埋められ、さらに内堀を埋められている状況です。このような現状をわかってほしいものです。」

 イ 波方町の内航・外航船主、**さん

 **さん(越智郡波方町波方 大正10年生まれ 74歳)

 (ア)父とともに船乗りへ

 **さんの父は、波方町で帆船によって海運業を営んできた。**さんは、昭和13年(1938年)3月、旧制今治中学校を卒業後、17歳で父の機帆船「蛭丸」(90トン、5人乗組み)に乗り込み、船乗り修業を始めた。蛭丸は若松(現北九州市)から大阪へ石炭を運ぶ専用船で、当時としてはかなり良い運賃であったという。17、8歳の**さんは、大阪へ行くたびに、映画や漫才を楽しみ、食堂街で大阪の味を楽しんだそうである。
 ところが、昭和15年、蛭丸に乗船して下関海峡を航行中、父が事故のため急逝されたのであった。そのため、19歳の**さんが海運業を継ぎ、自営することになった。
 昭和18年(1943年)、丸亀連隊に入隊した後、中国の東北(満州)北部に1年ほど滞在し、翌年、南洋諸島のクサイエ島に転属した。クサイエ島では飢餓線上をさ迷う体験をして、昭和20年12月、無事、波方町に復員した。
 戦時中、波方の機帆船はほとんどが徴用され、戦火の犠牲となったが、**さんの蛭丸も例外ではなかった。

 (イ)仲間と機帆船で再出発

 終戦後、徴用機帆船に対する補償金支給は上限5万円で打ち切られた。そこで昭和23年(1948年)8月、**さんはじめ、波方町の若い船主7人は、それぞれの補償金を持ち寄って波方海運合資会社を設立した。
 **さんは、「終戦時には、戦時中の計画造船により建造途中の機帆船が、かなり造船所の船台に残されていましたので、それらの機帆船に目を付け、造船所で仕上げた3隻でもって海運業を再開しました。3隻の機帆船は「第1、2、3海運丸」(各200積みトン)と名付けられ、長崎県、佐賀県、福岡県などの石炭を大阪に運びましたが、玄界灘の荒波には弱りましたよ。粗製乱造といわれた計画造船の船ですから、よくアカが入り(海水の浸水)、夜どうし交代で手押しポンプを押して排水に努めたり、水に漬けたノコクズを船底に詰めて防水したりしました。」と、終戦直後における海運業再開当時の苦労を振り返っている。
 昭和29年(1954年)12月、共同経営の波方海運合資会社を発展的に解消し、3隻の船を分配した。**さんは「第2海運丸」をもらって個人で海運業を始めた。やがて、300D/Wの新造船を銀行の融資と自己資金でもって建造できるようになった。昭和20年代後半は特需景気で調子が良く、事業は順調であった。
 昭和31年には、木鉄船「弥福丸」(500D/W、6人乗り組み)を新造し、**さんは船長として乗り組んだ。「この木鉄船は鋼船並みに扱ってくれて、引っ張りだこのためずいぶん稼がせてもらいました。そのお陰で資金的に余裕ができました。」と、弥福丸の船長として活躍したころを語っている。

 (ウ)小型鋼船から近海船、遠洋船へ

 昭和34年(1959年)4月、真木汽船株式会社を設立し、代表取締役になった。5月には小型鋼船第1号の「弥昌丸」(499G/T、866D/W、14人乗り組み)を建造した。
 「小型鋼船建造では、波方町でも早い方でした。この船は石炭、鋼材、雑貨を積んで全国の港に運航しましたが、用船料が170~180万円くらいで、運航すればするほどもうけた船でした。当時は人件費や物価が安く、14人乗りましても十分採算がとれました(現在は499G/Tクラスで4、5人の乗組み)。甲板長の月給(船員の平均的給料)が1万円くらいで、14人乗っても14万円ほどの人件費ですみましたから。」と、小型鋼船発足当時の好況を語っている。
 **さんは、真木汽船株式会社設立と同時に陸に上がり、会社経営に専念するようになった。
 昭和38年(1963年)9月、**さんは、原田汽船株式会社の**さんと弥幸汽船株式会社を設立し、近海船、遠洋船分野に乗り出した。
 近海船の第1号は「弥幸丸」(2,504G/T、4,208D/W、17人乗り組み)で、日本の住宅建築ブームに乗ってフィリピンのラワン材を輸送した。弥幸丸は、当時の近海船としては一般的な標準船であり、建造費が約2億5千万円、乗組員も全員日本人であった(最近の近海船は7,500~8,000D/Wクラスが中心。)。
 昭和52年(1977年)には、遠洋船の第1号として「パイオニアレーサー」(10,000G/T)を建造し、遠洋船の分野に乗り出した。この船は自動車専用船(3,000台積載)で、日本郵船がチャーターしてトヨタ系の自動車輸出に従事した。当時は自動車輸出の全盛時代で、花形の船であったという。乗組員は21名だが、日本人は2名(船長、機関長)だけで、あとは全員が外国人だった。
 平成3年建造の遠洋冷凍船「カレビアンマーメイド」(7,000G/T)の乗組員は22名で、日本人は4名(船長、機関長、1等航海士、1等機関士)である。また、平成8年4月竣工(しゅんこう)予定の遠洋船は、21名全員が外国人の予定である。
 「昭和40年(1965年)初めころの近海船の乗組員は全員日本人でしたが、それでも十分採算がとれ、かなりの利益がありました。しかし、もうそれは昔話ですね。」と語っている。

 (エ)海運60年を振り返って

 **さんは、60年近い海運生活の歩みを振り返って、次のように語っている。
 「苦労の思い出としては、終戦直後の昭和23年(1948年)、仲間で資金を持ち寄って波方海運合資会社を設立したころのことです。銀行もあまり相手にしてくれない時期でしたから、わたしたちは、頼母子(たのもし)や無尽を作って資金を工面したりしましたが、このころの資金作りには大変苦労しました。次に、機帆船から小型鋼船に切り替えた昭和30年代はじめころも、資金繰りがきびしく、苦しい時期でした。わたしの場合は、木鉄船『弥福丸』を自分で運航し、資金作りをしながら鋼船に切り替えてきたので、まだやりやすい方でした(真木汽船株式会社を設立したころ)。
 やりがいを感じたのは、昭和40年代に思い切って、内航から近海船、遠洋船に乗り出したころです。本当に夢と希望がありました。
 海運経営のコツとしては、船価は金額が大きいですから、船価の安い時期に造らねばなりません。船価の安い時期には用船料も低いのですが、それは我慢して、この時期に造ることが大切です。船価の高い時期に船を造った人はたいてい失敗しています。やはり、船を作るタイミングの判断が大切ですね。
 海運組合については、愛媛県は海運のメッカですから海運組合の意識は高く、きびしい意見や注文が組合に寄せられます。それだけ海運に対する取り組みが真剣です。したがって、内航海運の全国組織である日本内航海運組合総連合においても、愛媛県の意見が強く反映されやすく、愛媛の発言の重みを感じます。しかし、内航海運の規制緩和については、船腹調整制度が最重要課題です。海運組合としても正念場を迎えていますが、よほど性根を据えてかからねばならないと思います。」