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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(4)親子三代の一杯船主-内航海運を支えて-

 ア 波方町の一杯船主、**さん一家

 **さん(越智郡波方町波方 明治35年生まれ 93歳)
 **さん(越智郡波方町波方 昭和5年生まれ 65歳)
 **さん(越智郡波方町波方 昭和34年生まれ 36歳)

 (ア)明治生まれの一杯船主、**さん

 明治42年(1909年)、波方尋常小学校を卒業した13歳の**さんは、叔父さんの帆船に乗り、「飯炊き」の仕事から船乗り生活を始めた。**さんは、大正時代における船乗り生活のスタートを振り返って、次のように語ってくれた。
 「昔の船乗りは、みな飯炊きから始めたものです。父がやっていた農業では生計が十分ではなく、船の仕事は、手っ取り早く就きやすかったので、叔父の船に乗りました。父も農業の合間をみて、菊間瓦用の小さい土船や素灰船に乗っていました。わたしが乗った帆船も、菊間から大阪へ素灰を運んだものです。帆船だから風まかせで大阪へは、順風でしたら2、3日で着きましたが、普通は4、5曰くらいかかりました。」
 帆船に乗っていた若い**さんは、「風頼り、潮まかせの帆船でなく、風を頼りにしない船に乗りたい。」と念願していた。昭和3年(1928年)か4年ころ(**さんが26、7歳ころ)、曳(ひ)きボート業を営んでいた人からヒントを得て、エンジン付きの5トンばかりの船を購入し、曳きボート業を始めた。曳きボート業は、急潮の来島海峡の安全航行にとって重要な役割を果たしていた。しかし、エンジン付きの機帆船が普及してきたため、曳きボート業も次第に振るわなくなったので、**さんは木造機帆船を購入した。
 「昭和12、3年(1937、8年)ころ、初めて50積みトンの機帆船を買い、『海を安全に航海する』という意味で『海安丸』と名付けました。船員も少ない時代でしたので、妻も、よく船に乗り手伝っていました。戦時中は、雑貨や米麦、除虫菊などを広島の宇品へ運びました。
 太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)、42歳で松山22連隊に召集され、終戦は高知で迎えましたが、鉄砲も数人に1挺(ちょう)という有り様でしたよ。
 わたしの海安丸も戦争中は徴用されましたが、小さい船でしたから、南方方面には動員されず、終戦と同時に無事波方町へ帰ってきました。波方の100トン、150トンくらいの大きい機帆船は、ほとんど南方で沈められてしまいましたが。
 戦後は、息子も高等小学校を卒業したので、親子3人で乗り組みました。昭和30年(1955年)ころ、7、80積みトンくらいの機帆船を新造し、やはり『海安丸』と名付けました。当時は、今治の回漕店伊予組と契約して大阪へ材木や農産物(愛宕(あたご)柿など)を運んでいました。
 昭和36年(1961年)には、従兄(いとこ)所有の木鉄船(500積みトン)を購入し、「勝利丸」と名付けました。この船は8人が乗り組んでいましたので、わたしの息子や娘婿の**さんも乗っていました。今年(平成7年)70歳の**さんは、現在も予備船員として息子の船に乗っていますよ。わたしは、このころ、経営を息子に譲り、陸に上がりました。」
 **さんは、長い船乗り人生を振り返って、「波方では船乗りの仕事が一番ありよかった(就きやすかった)し、自分にも合っていたので、船乗りをやってきて、よかったと思います。現在、孫も船乗りになってくれ、頼もしく思っています。」と、思い出話を締めくくってくれた。

 (イ)昭和一けた生まれの一杯船主、**さん-機帆船から鋼船ヘ-

 **さんの長男、**さんは、小学校に入学する前ころから父母が乗っている船で遊んだり、小学生になっても、休みの時には船の手伝いをして育った。**さんの思い出として、「父母が船に乗っているので、おばあさんがわたしたちの子供の世話をしてくれていましたが、参観日や運動会にはさびしい思いをしたこともありました。」と、家族船員による一杯船主の生活の一端を語っている。
 終戦後、15歳の**さんは、軍隊から復員した父と母とともに機帆船の旧「海安丸」、続いて新造の「海安丸」に乗り組み、船員としての見習修業を始めた。
 昭和33年に**さんと結婚した後も、夫婦で機帆船海安丸に乗り組んだ。**さんは「飯炊き」として機帆船生活を支え、翌年長男が生まれてからも、赤ちゃんを背負って船に乗って働いた。
 昭和36年の木鉄船勝利丸をへて、昭和38年には、ついに**家念願の小型鋼船を建造し、これも「海安丸」と命名した。また、海安海運有限会社から海安海運株式会社に切り替え、**さんが代表取締役となった。海安丸の建造資金3千万円は中小企業金融公庫からの融資をメインにして、ほかに銀行からの融資や造船所の延べ払い手形などによって確保した。
 **さんは当時の様子について、「昭和38年ころは不景気で、公庫の利率は9%と高く、銀行も日歩3銭を超えていました。さらに、銀行の融資は『うずみ融資』で、借入金の一部を預け入れねばならなかったので、大変しんどかったです。しかし、その後は、右肩上がりの高度経済成長時代でしたから、償却は船を4、5年ほど運航しておればできました。乗組員は8人で、甲板部は4人(当直が2人ずつ、6時間交代)、機関部が3人、賄(まかな)い(食事担当)が一人と、今からみれば大所帯でした。操舵(そうだ)も船倉のハッチ操作も今日のように自動化されておらず、手動のため人手と手間が大変いりましたから。ただ、人件費が今ほど高くなかったから、船員が多くても採算がとれました。」と振り返っている。

 (ウ)小型鋼船、日本列島を駆けめぐる

 小型鋼船は、これまでの機帆船とくらべて、輸送量、速度、安全面とも、はるかに向上したので、日本経済の復興と高度経済成長時代における内航海運の主役となった。
 海安丸も九州各地の石炭を大阪から東京方面まで運び、帰りは、福島県の小名浜(おなはま)まで行ってクリンカ(耐火煉瓦)を岸和田に輸送するようになった。
 昭和43年(1968年)には、海安丸を売船して「第2海安丸」(699G/T、1,500D/W、建造船価1億3千万円)を建造した。当時は経済成長による荷動きが活発で、新日鉄の鋼材や専売公社の塩などの荷物を、九州から北海道まで日本列島全体にわたって運送した。
 **さんは、「日本列島全域にわたって航行したお陰で、日本全国ほとんどの港を知ることができました。船長は、海図に頼るだけでなく、体験によって各港の状況を知ることが大切です。」と、船主船長の経験に基づく心構えを語っている。
 昭和54年(1979年)には、第2海安丸と同じ引当トン数(*8)の「ひさか丸」(建造価格2億4千万円)を建造した。バブル経済真っ最中の平成2年には、ひさか丸をフィリピンに海外売船し、同型の「安海丸」(建造価格3億3千万円)を建造した。バブル景気が崩れた平成6年には、「安海丸」を売船して、中古船の「宝山丸」(499G/T、1,600D/W)を購入し現在にいたっている。宝山丸(乗組員5人)は、オペレーターの協立汽船のもとで、新日鉄の鋼材を大分から名古屋、京浜、室蘭などに運送している。

 (エ)50年の一杯船主を振り返って

 **さんは、この間の状況について、「やはり、一番しんどかったのは昭和49年(1974年)、50年ころのオイルショックでした。また、昭和52年には内航船の建造ストップが1年間もあったため、造船所がバタバタ倒産するし、内航船主も大変しんどかったです。ちょうど、わたしとこの船でいえば、第2海安丸とひさか丸との間のころのことです。
 調子が良かったのは、なんといっても平成2、3年のバブル経済のころです。当時の安海丸の用船料もどんどん上がって、1年ほどの間に900万円から1,300万円くらいにまで上がりました。現在の用船料は1,000万円を切っていますが、しかし、全体としてみれば、景気が良い時期は短く、不景気のほうが長いのですから、『人生、大波小波あり』と、つくづく感じます。」と振り返っている。
 また、50年にわたる船乗りのやりがいについて、「若いころから体で覚えてきた仕事ですから、今でも現役の船長に負けない仕事ができるという自負があります。この道一筋に歩んできてよかったと思っています。」と力強く語っている。**さんは現在も、年間160日ほど交代要員として宝山丸に乗船し、船主船長として頑張っている。さらに、「来年(平成8年)の末ころまでには新しい船を建造したい。」と抱負を語っている。
 **さんの長男は、大学卒業後サラリーマンをしていたが、波方町にUターンして海運業に従うことを決意した。父とともに船に乗って見習いをしながら講習を受け、平成4年には5級海技士(航海)の免状を取得した。現在は、交代の予備船員(甲板長)として宝山丸に乗り、船員の修業を積み重ね、海安海運の後継者を目指している。

 イ 北条市の一杯船主、**さん一家-特殊タンク船に生きる-

 **さん(北条市辻 大正15年生まれ 69歳)
 **さん(北条市辻 大正8年生まれ 76歳)
 **さん(北条市辻 昭和33年生まれ 37歳)

 (ア)両親と機帆船に乗る

 **さんの家は、北条市大浦で代々農業と海運業を営んできた。**さんは、「わたしで8代目ですから、わたしらの血には伊予水軍の血が流れていますのよ。」と語っている。**さんの父と母は、はじめ帆船に乗り込んでいたが、大正時代半ばからは機帆船に切り替え、40積みトンの機帆船「寅福丸」で材木や瓦の建築材料、野菜などを輸送していた。
 **さんは、難波(なんば)尋常小学校から北条尋常高等小学校に進み、昭和16年(1941年)4月、高等科3年を卒業した。 15歳の**さんは、卒業後直ちに寅福丸に甲板員として乗り込み、両親と3人で船乗りのスタートを切った。
 昭和19年(1944年)には、横須賀海軍航海学校に入学、昭和20年2月に卒業(乙種2等航海士の免状取得)した後、駆逐艦に乗艦した。
 昭和20年8月佐世保で終戦を迎え、10月には北条に復員した。戦時中の寅福丸は、軍用材(材木・瓦・建築材料)を輸送していたので、徴用にはならなかった。当時、大浦には6隻の機帆船があったが、軍事徴用などで沈没し、寅福丸だけが残った。
 復員後は直ちに両親とともに寅福丸に乗り、北温青果の玉ねぎ・スイカなど農産物を運賃積みで大阪へ輸送した。当時は食糧難のころで、農産物輸送は大変忙しかったという。

 (イ)雑貨船から特殊タンク船へ

 昭和28年(1953年)4月には、80積みトンの「第2寅福丸」を建造し、はじめは雑貨や農産物を輸送した。やがて**さんは両親と相談して、寅福丸を改造し、積荷を変えることにした。
 **さんは、当時のことについて、「はじめころは寅福丸に40t弱のタンク(内側に防腐用の生ゴムをはる。)を積み、晒し液(塩素系の漂白液)を輸送しました。やがて、さらに改造し、3m長くして50tほど積めるようにしました。荷主の大阪ソーダーの専用チャーター船として契約し、今日にいたっています。」と語っている。
 昭和38年(1963年)11月、**さんは**さんと結婚し、**さんも寅福丸に乗船して船の仕事を手伝った。結婚当初から船に乗った**さんは、「そのころは、お父さん、主人、わたし、雇っていた若いしの4人で乗り、瓦や雑貨、ブドウ・ナシ・モモ・スイカなど青果物と野菜を積んで呉や宇部方面に運んでいました。青果物なので夜積んで、朝早く着くように運航しましたが、荷物の積み卸しに人手がいり、大変でしたよ。また、暗い早朝から市場に出し、代金も受け取って組合に持って帰らねばならないので、責任も重かったです。」と、当時の船仕事を振り返っている。

 (ウ)奥さん、機関長となる

 機帆船に乗っていた**さんは、機関長の免状取得を思い立った。「女なんかに免状などいらんわい。」と周囲に言われたが、ほかにも免状を取ろうとする女性がいたので、テキストを頼りに猛勉強し、今治の港務所で受験し、一発で合格した。**さんは、後にも、レーダーや無線電話を扱う無線技師の資格も取った。このようにして**さんは、子供がいないこともあって、昭和39年(1964年)ころから昭和49年ころまで乗船して**さんを助けた。**さんは、「家内が機関長や無線技師の免許を取ってくれたので、大変助かりました。家族船員中心の一杯船主にとって、夫が船長、妻が機関長の資格を持ち、夫婦一体、二人三脚で船を運航できたのはありがたいことでした。」と、**さんの内助の功に感謝している。
 昭和48年(1973年)には、待望の小型鋼船「第3寅福丸」(168.14G/T、300D/W)を建造した。第3寅福丸は、タンク容量は13万ℓ(重量300tの特殊タンク船で、か性ソーダ(水酸化ナトリウム)・か性カリ・次亜塩素酸ソーダ・珪酸(けいさん)ソーダなど引火する危険のない劇毒物を専用に輸送してきた。運航先は、松山から大阪・小倉(北九州)・大分・大竹・水島(倉敷)・新居浜・川之江・伊予三島など西日本各地であった。
 **さんは、第3寅福丸建造に際して、有限会社大石海運を設立し、代表取締役になった。建造資金4,750万円は、地元銀行、中小企業金融公庫、国民金融公庫から融資を受けたが、8年ほどで償却することができた。

 (エ)後継者に恵まれて

 船員の雇用は一杯船主にとって重要な問題であるが、**さんは、船員雇用について、次のように語っている。
 「第3寅福丸のはじめころは、船員を2名雇っていました。当時は、一人12、3万円くらいの給料でしたが、給料がだんだん高くなってきたので、一人にしました。用船料も1か月、128万から130万円くらいあり、それに航海手当が付きましたから、なんとかやっていけました。現在の船員雇用費は、船長が50万円、機関長が35万円、船員が30万円、助手が20万円くらいですから、人件費が大変です。用船料も1か月750万円くらいないと、船員の給料、保険料、船の修理や検査料など出費が多いので、やっていけません。今のように用船料が600万円くらいでは無理です。
 やはり、一杯船主にとっては、家族が乗船してくれると助かります。家族兄弟が多いほどよく、一杯船主は身内がいないとやっていけません。
 わたしらには、子供がいなかったのですが、幸いわたしの甥(おい)(姉の子)が、昭和57年(1982年)にサラリーマンをやめて養子にきてくれたうえ、船長、機関長(5級海技士)の免状を取り、船に乗ってくれていますので、安心しています。現在の機関長も、もう21年わたしとこの船に乗ってくれていますが、頼りになる人なのでありがたく思っています。
 第3寅福丸も、できれば来年(平成8年)くらいに、同型で馬力アップした『第5寅福丸』(建造費3億円)を建造したいと願っています。
 これまで一杯船主としてやってこれたのも、もうけはしないが、小さいながら船の仕事を堅実に、正直に、地道にやってきたからだと思います。
 平成6年に、特殊タンク船で輸送できる薬品が1種類に限定されたので、現在は珪酸ソーダだけを輸送しています。どの薬品であれ一滴も海に落とさないように気を付けています。これまでより薬品の取り扱いが面倒になりましたが、海の自然環境を保護するため、気を付けて協力しなければなりません。」


*8:建改造する船舶の重量トン数と、それに必要とする引当船舶の重量トン数の比率の最高限度は、現行の船腹調整規定では
  130%とされている。