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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇鏝絵とは

 鏝絵とは、左官職人の使う道具の鏝で、主に建物の外壁に装飾をしたものを総称した呼び方です。ただ、絵というふうな呼び方をしていますが、一般に、この場合は絵画とは違いまして、漆(しっ)くいを材料に壁に盛り上げてつくるということですから、どちらかといいますと彫刻に近いと思います。
 呼び方も地域によって違います。壁絵とか、壁飾りとか漆くいの彫刻とか、あるいは東予市あたりでは単に彫刻といったように、いろいろないわれ方をしておりまして、鏝絵という一般にいわれているような形になったのは、そんなに年数がたっていないと思います。
 この鏝絵が一般に広まりだしたのは、江戸時代の終わりぐらいといわれています。江戸時代には一般の家を建てるのに、瓦屋根や漆くいを用いた壁構造は禁止といったきびしい規制がありましたが、江戸で「お江戸の大火」と言われるほど火災が多くなり、幕府が大いに頭を悩ました結果、火災防止のために、そういう規制を緩めて、土蔵づくりを奨励したのです。そういう中でその飾りとして鏝絵が出たのではないかと考えられています。
 誰が、どの辺で始めたという資料はありませんが、入江長八(いりえちょうはち)という、江戸の松崎出身の名人左官といわれた人物が、明治時代に入りましてから博覧会などに額装の鏝絵を出品したりいたしまして、それが評判をとりまして、そういうところから鏝絵の技が広まったといわれております。
 最近、長八が活躍した時代の10年ぐらい前の天保4年(1833年)に、飛騨の高山(岐阜県)の祭りに使う山車(だし)をしまう蔵の扉に江戸から来た江戸屋萬三(江戸萬)という左官が「松に鶴」の鏝絵の仕事を残していることが分かりました。年代的にいいますと、当時長八は18歳くらいですから、これはどう考えても長八よりは古いということになります。そうすると、鏝絵の始まりを一個人・一地域に特定するということは難しいということになります。
 鏝絵は、全国的にかなり広く散在していまして、現在、全国で3,000点といわれており、そのうち、大分県が1,400点、愛媛県は450点です。なお、県内の分布は地域的に偏りがあり、東予では東予市の周辺とか、中予では小田町、南予では内子町、大洲市、城川町に数十という単位で残っております。
 また、その特徴も、東予地域では、妻壁(つまかべ)の梁(はり)の木口(こぐち)をおおうように直径40~50cmの円形の台の上に色数の多い色漆くいを用いて鏝絵をつくっているのに対して、中・南予においては、そういう色数が少なくて、部分的には派手なものもあるのですが、一般に無彩のものが多く、妻壁のほか、戸袋(とぶくろ)等に描かれているものもあります。
 図柄は、だいたい昔からあるような意匠が用いられていまして、いわゆる縁起物の「鶴・亀」とか、火除けの「波・龍」とか、招福の「七福神」や「恵比寿」や「大黒」など、かなり種類はあるのですが、これも地域により偏りがあります。中・南予では「鶴」の数が圧倒的に多いのですが、それは現在残っているものということでして、元々はもっと数もあり、種類もかなり多くあったのではないかと思います。
 鏝絵をなぜつくったのかというと、左官仕事も、今の左官がかける時間や手間と違いまして、かなり長期的にかかわり、そういう中で、施主との意思の疎通と言いますか、左官のほうの思い入れもあり、こういうものをつくったのではないかと思います。ですから、鏝絵をつくったから賃をたくさんもらえるとか、そういうことは一切なかったのです。
 鏝絵は、西洋から伝来したものではなくて、日本の伝統的な技であり、材料も壁材料を含めて、手近にあるものを使っています。県内に残っている鏝絵に関しても、恐らく地元にあった材料でつくったものと思われます。鏝絵が、県内にいつごろ入ったかというと、はっきりはしないのですが、江戸時代末ころの土蔵づくり奨励の時代か、あるいは、明治時代の始めに庶民も家が自由に建てられるようになり、材料の流通が良くなって入って来たのではないかと思います。なお、瀬戸内地方は海上交易が古来から盛んでありましたので、もっと早い時期に入ったという可能性もあると思います。
 鏝絵に使う漆くいの原料は石灰(せっかい)なのですが、これは県内にも産地があります。瀬戸内海でしたら弓削(ゆげ)島、大三島、関前(せきぜん)村の小大下(こおげ)島、宇和海では明浜(あけはま)町の高山(たかやま)というところに石灰岩が出まして、石灰窯で石灰岩を焼いて、水を注いで石灰をつくっていました。今残っている鏝絵の中にも、こういう石灰を使ったものがあると思います。漆くいは、そうした石灰に、麻や稲わらを細かく切ったスサを混ぜて、のりとして海藻を煮込んだ煮汁を一緒に混ぜて練り上げて粘土状にしたものです。現在ではメーカーがつくって、20kgぐらいの袋詰で売っていますので、以前に比べますと、かなり扱いが容易になってきたようです。
 漆くいの色は、県内では8色ぐらい出ており、平均3~4色ぐらい使っています。また、色付けをする顔料は、古来からの岩絵具を使ったものが多いようです。小道具では、虎や龍の目にガラスを使ったり、ひげには銅線を使ったり、左官さんの発想で、いろいろ工夫が見られるのです。
 肝心の鏝は、下塗り用とか上塗り用として何十種類もあるのですが、鏝絵をつくる場合も、10種類ぐらいはあるそうで、入江長八が20種類ぐらい使ったという記録もあります。そして、実際には鏝だけではなくて、竹べらとかツゲベらとか、ありとあらゆるものを使っていたと聞いております。また、顔料を漆くいに混ぜてつくる伊予の鏝絵は、雨風に対して色落ちがしにくいので屋外に多いのですが、長八のは、無彩の漆くいで形をつくり、後から筆で彩色しているので、屋内に置いているものが多くて、西洋のフレスコ画と同じ技法です。
 鏝絵は、色を重ねていく技法ではなくて、色別に塗り合わせていますので、絵画的な濃淡とか明暗の表現が非常に難しく、扱いにくいというところはありますが、人が見上げるような割と高い場所にあって、ものによりましては、自由奔放につくられており、中にはユーモラスなのがあったり、力強いものがあったりして、一般の絵画とか彫刻の感覚でないものが見受けられます。
 鏝絵のある建物は古いものでは、明治10年代のものがありますが、鏝絵は建物にくっついているわけですから、建物の老朽化や建て替えで、どんどんなくなってきています。今の時点でも、家の取り壊しなどで、もう先が危ういというのがいくつかあります。これまで、私が「鏝絵の会」で関わった2件は、建物から取り外して保存をしましたが、これからもこういうものが出てくるのではないかということもありまして、いろいろ情報を集めて、できればそういうものを保存していこうと思っています。そして、公的な所に展示していただいたり、別の壁につけていただくということも考えております。
 また、鏝絵の技は、現在も業界内では、青年部の方を中心に研修会とか、技能検定等があって、受け継がれておりますが、そういう壁仕事や鏝絵をつくるような壁が少ないということで、受け継いできた技が十分生かされていないのが現状です。しかし、新しい鉄筋の建物でも、新しい壁仕事へのかかわりとか、新しいものを何かつくりだそうとする若い職人の方もいらっしゃるので、私は今後とも大いに期待をしているところです。
 鏝絵は古い時代から綿々と受け継がれてきたものでありますし、建物があって鏝絵がある景観というのは、非常に贅沢(ぜいたく)な、いい環境ではないかと思うのです。ですから、今後、単に保存ということではなく、保護というようなことを考えて、何か活用できるような手だてはないものか、地域の学習などに取り入れていただくというようなことも含めて、保存とか活用ということを考えていかなければいけないのではないかというふうに思っております。