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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇家業を継ぐ

 桜井漆器というのは、販売からいえば250~300年の歴史を持っておりますが、販売から始まったという珍しい産地です。こういった産地は恐らく全国でも桜井だけではないかと思います。
 もともと桜井では、今治側にある拝志(はいし)というところでつくっていたミノやケンドといった農具を、行商販売していたのです。ですから、行商ということに関しては、桜井の人には素地ができていたのです。さらに、桜井には綱敷天満宮のすぐ横に自然の港のような河口があり、そこへ大阪の漆器を扱う商船などが水の補給であるとか、食糧の買いつけとか、休憩に寄っていまして、桜井の行商人がこれを見て、同じ行商をするのなら、漆器のほうが、ミノやケンドよりもうかるのではないかというような、単なる真似から始まったのが、桜井の漆器なのです。
 販売方法は、お百姓さんからは収穫期にお金をいただいたり、また、地域の世話役をつくって、たのもし講とか無尽(むじん)というような形で、月々お金を集めていただいて、その講元に行って集金をするという、当時としては画期的なものであったのではないかと思います。それが桜井漆器が月賦販売の発祥の地になったといわれるゆえんではないかと思います。
 その後、西条藩のお抱え蒔絵(まきえ)師が桜井に来て、漆器に絵をつけたのが桜井漆器の製造の始まりといわれております。桜井漆器は、和歌山県の海南漆器や石川県の輪島漆器、山中漆器、また、福井県の越前漆器、それに福島県の会津漆器という五つの産地の職人さんが入って来て形成されたのですから、一つの品物を見て、これが桜井漆器だという個性には乏しいのですが、安いものから高いものまで幅広く商品構成されているというところが、特徴の一つだと言えます。
 私は昭和37年(1962年)に高校を卒業しまして、九州の椀舟(わんぶね)の流れの業者の所に3年間丁稚(でっち)奉公に行きまして、昭和40年に今の稼業に入ったのです。昭和40年ころというのは、建売住宅がどんどん建って、俗に核家族化が進んでいた、ちょうどその時だったのです。元々、桜井漆器というのは、生活食器で、お客さんを接待する会席膳の上に並べる吸い物椀であるとか、刺し身皿であるとか、木皿であるとか、そういうものを中心につくっていたのですが、私は21歳の時に、この時代に合うものは何かないかということで、漆の額(がく)を桜井で一番先に手掛けました。そうしましたら、時代の波にも乗りまして、「鳥井さんのところは額屋さんか」と言われ、つくるのが間に合わないぐらい、漆の額が売れました。そして、次に額だけでなく、家が建てば、何が売れるのだろうかなということから、花瓶であるとか、文庫であるとか、従来の桜井漆器から少し離れた装飾漆器を手掛けまして、おかげさまでそういう商品が非常に日の目を見まして、けっこういい商売ができたように、私は思っております。