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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇民家から理解される日本人の精神、そして技術①

 豊島家に戻りまして、豊島家の「一の間」、表座敷の、藩主あるいは巡見使が使う座敷です(前出、写真3)。周りに1間幅の入側縁(いりかわえん)に畳を敷いた縁座敷となって、そして濡(ぬ)れ縁があって、庭があって、その庭の向こうの山を借景(しゃっけい)とする。このように内と外が緩やかにつながっていくという生活。それがやはり曖昧(あいまい)さにつながるのではないか。たとえばイエスとノー以外の言葉を日本人は使うのですが、なかなか外国の人に理解されません。けれども、こういう所を見せると、イエスとノー以外のゆるやかな、相手をおもんばかるという思想があることを、古い建物から理解させ、肌で感じさせることができるのです。
 写真10は、お殿様が専用の雪隠(せっちん)・湯殿(ゆどの)へ行くところの廊下から、先ほどの座敷を写したものです。濡れ縁から、手水鉢(ちょうずばち)の手を洗う所の部分なんですけれども、そこの向こうを柴垣(がき)とするのです。
 話は変わりますが、第2回の万国博覧会がパリで開かれた時に、日本の催し会場として農家を出しました。そして農家の縁側に、縁台を置き、緋毛氈(ひもうせん)、日傘(ひがさ)、そしていろんな調度品を置きまして、建仁寺垣(けんにんじがき)という竹垣を置いたんですけれども、その時のパリの地元紙に、日本の文化は、「芸術が日常化されている。」と絶賛されました。なんでもない素材を使って、最高のものに、あるいは心のこもったものにしていこうというのが、日本建築の建築たるゆえんなんです。
 伊予市の宮内小三郎さんという、その先祖が伊予市灘町を開いたと言われる方の、明治45年(1912年)に建てた隠居所があります。写真11は、その庭です。人間が作ったものでありながら限りなく自然に近づけていって、最後に調和させるというのが、庭の設計の根本だと思います。遠くに離れるにしたがって、石の配置は乱れていきます。近くになりますと、棒石というような、削った石、人間がいかにも手を加えたというような石を敷いているのですね。
 この座敷(写真12)は、僕がいろいろ見てきた家の中でも、最高水準であると思います。柱は杉であります。杉の赤味材と言われる、非常に目の込んだ杉を使っております。普通は床柱に、かなりお金のかかった変わった木を使うのですが、これはあっさりとしている。それで床框(どこがまち)ですが、これは黒柿という木であります。黒檀(こくたん)と同じ仲間の木です。この黒柿の木を採るというのは非常に難しいのですが、この木で、もし柱とか他のものを作れば、非常に派手がましく、嫌らしくなるのです。そのような木をさりげなくこういう所へ使って、ちょっと堅苦しい家の雰囲気を崩すという技を、この大工は使っております。
 それと、写真13の違い棚は、これは臥龍山荘(がりゅうさんそう)を建てた中野虎夫という大工と、地元の大工、花山門太郎が京都へ1年間修業に行かせてもらって建てました。臥龍山荘と同じ手法で、月に模した窓と、そして霞(かすみ)たなびく棚というのを表現しています。なぜこういう写真を撮ったかと言いますと、実はこの板は、向こうの壁にはついていません。だからここの部分3㎝と床の間と違い棚の薄い壁の中で支え合っているのです。円形の窓の上は、南海大地震(昭和21年〔1946年〕)でできたひび割れですが、違い棚はなんともなっていない。木が反り合う性質を利用して、作られてから現在まで約80年たっても、びくともしておらず、それが一つの美になっているのです。そういう隠れた所に、手と心を込めた技術があるのが、日本人のものを作る精神の根底なんです。これはもう名建築だと思います。                      


写真10 雪隠湯殿へ通ずる廊下

写真10 雪隠湯殿へ通ずる廊下


写真11 宮内小三郎隠居所の庭

写真11 宮内小三郎隠居所の庭


写真12 宮内小三郎隠居所座敷

写真12 宮内小三郎隠居所座敷


写真13 座敷(写真12)の違い棚

写真13 座敷(写真12)の違い棚