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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇宇和島における真珠養殖の始まり

 日本の真珠研究の始まりは、明治23年(1890年)のことで、皆さん御存じの御木本(みきもと)幸吉さんが、三重県志摩郡神明(しんめい)村で始められました。初めのうちは、まん丸い真珠ではなく、貝殻についた半円形の真珠を作られたようです。 17年後の明治40年(1907年)になりますと、真円真珠の研究をしていた学者の、見瀬辰平さん、西川藤吉さん、そして御木本さんの3人が、別々に「真珠形成法の特許」を申請しているんです。こうしてようやく、産業的に研究ができるようになったのです。
 愛媛での出発点も、この明治40年です。平城(ひらじょう)湾(御荘町)で、御荘町の小西佐金吾さんが、三重から海女(あま)さんを雇って、海底にいる天然の母貝を潜りで取って、それを養殖することから始められました。
 愛媛における真珠養殖の本格的な研究開発は、大正4年(1915年)から、水産試験場を中心として進められております。私どもの会社の創始者である大月菊男さんは、大正4年から大正9年まで水産試験場に勤務したあと独立し、平城(御荘町)の平山に「伊予真珠」を作りましたし、大月さんの助手であった御荘町の向田助一さんと向田伊之一さんも独立するなど、平城湾に相次いで真珠養殖会社ができ、愛媛の真珠養殖の基礎・出発点になりました。
 本当の意味での「宇和島の」真珠養殖は、この方々の技術研究の積み重ねが土台となって、昭和10年(1935年)に、宇和島市の坂下津(さかしず)湾と三浦湾へ、「大月真珠」が養殖場を開いたのが始まりです。そのころの真珠養殖は、規模が非常に小さくて、昭和10年前後、愛媛県では190kgから260kg程度の真珠が取れていました。
 生産された真珠は、神戸の加工業者に皆販売していましたが、非常に品質が良いということで、「伊予パール」という名前がつきまして、高値で売れていたようです。
 第二次世界大戦が始まりますと、「真珠はぜいたく品だから、食料を作りなさい。」ということで、だいたいカキ養殖に変わりました。今日、愛媛が日本一の真珠生産県と言われるようになった背景には、このように、昭和16年まで真珠養殖があったことがベースになっているのだと思うわけでございます。
 戦後は、昭和23年(1948年)に、大月真珠と向田真珠が事業を再開しました。昭和25年(1950年)には、柿之浦(津島町)で、実藤盛男さんが真珠養殖を始めております。
 同じ昭和25年に、大浦湾(宇和島市)でも、上田宗一さん(戦時中の市長)と大塚國武さん(大浦の網元)が宇和島真珠養殖組合を作り、昭和27年にはその組合が宇和島真珠養殖株式会社になりました。大塚さんも上田さんも真珠養殖の経験がないものですから、戦前にパラオで南洋真珠をやっていた技師・技術者を呼んできたのですが、南洋真珠とアコヤ貝とでは扱い方が違うこともあって、宇和島真珠は経営が困難になります。それで、大月真珠がかつて宇和島で養殖していた縁で、「大月真珠が会社を引き継いでくれ。ただし宇和島真珠という社名は残してくれ。」という申し入れにより、昭和29年(1954年)に、大月真珠が宇和島へ戻ってきました。そして、昭和40年(1965年)に、社名も宇和島真珠養殖から大月真珠養殖に変えて今日に至っております。