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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成 7年度 愛媛学セミナー集録~

◇急しゅんな宇和島の地形に泣き、豊かな海に救われる

 ところで、御存じのように、宇和島は海岸(海抜0m)から鬼が城山の高さ1000mまでの直線距離は、日本で一番短いという急しゅんな地形を持っている。宇和島は、妙な「日本一」を持っているんです。
 宇和島には長い川がないですから、雨が降ったらすぐ海に流れる。また、雨が降らないと、水を湛(たた)える川がないですからすぐ干ばつになる。宇和島藩の政治というのは、260年間、この干害と洪水との闘いの歴史なんです。
 そして、とくにひどい「享保の大飢饉」の時は、5年間、大洲藩(6万石)よりも収穫が少ない。記録によれば、10万石でありながら、宇和島藩に入ったのは3万石を切れております。それで、幕府からお金や米を借りたりして、急場をしのいでいるんです。
 こういった苦しい財政を救うためには、非常に厳しい農業政策を取らざるを得なかった。いわゆるハゼ(ろうの原料)とか、泉貨(せんか)紙などの専売制を厳しくやりますし、「山方、分一」と言いまして、山でできる材木やそれで作った製品については、だいたい1割は税金を取られたわけです。なにぶん田んぼがないわけですから、それでも追いつきません。
 そこで、伊達藩を救ったのは何かと言いますと、これは実は海なんです。
 豊後水道から宇和海に入ってくる伊達藩の海では、御存じのように、当時はイワシ、それからカツオ、マグロ、イカ、それ以外にもいろんな魚が非常にたくさん獲れた。これに対して、瀬戸内海は主としてこれはタイ、サワラ、それからエビで、イワシは少しですから、大きく分けて魚の質や獲れ高が違うわけなんです。
 当時は、日本全体が綿の栽培を始めたころですが、綿栽培のためには大量の干鰯(ほしか)(イワシを干した肥料)が必要なんです。宇和島藩は、それに目をつけて奨励するわけです。
 宇和島藩の場合は、「2分1銀」と言いまして、魚が獲れたら、網一つについていくらと決まっており、それ以外に、魚には全部定価表をつけまして、獲れた魚のだいたい2割は取り上げたんです。松山藩、今治藩、西条藩、それから山内藩(高知)などでは、これはだいたい1割ですから、よその藩に比べると税金が倍、水産業に従事する人にとってもなかなかだったと考えていただいたらいいと思います。
 雑魚でも、寸法を決めてそれぞれ値段が決まっており、それをすべてきちんと海の庄屋を通じて回収したわけなんです。現実には、「2分1銀の規則を、よく守りなさい。」という令が何回も出てますから、漁師さんも、なかなかうまくごまかした面があるんだと思うんですけれども。それにしても、海のほうも非常に厳しかった。
 それでも、漁師はまだ良かったんです。いろんな理由で百姓の数が足らないから、時に漁師の一部を山方のほうへ勤労動員させることがあったんです。悪いことをして、「お前、山のほうへ追いやるぞ。」と言われた漁師は、「それはこらえてくれ。」と、泣いて謝ったというぐらい、山のほうはもっと厳しかったんです。
 そういった水産業界を持っていたために、伊達藩は10万石の体面をなんとか保つことができたわけです。