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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) さまざまな商店

  ア 有津街道

 「現在では有津の海岸は埋め立てられて新しい道路(国道317号)ができたため、一部は内陸部になりましたが、海沿いの道路は有津街道と呼ばれていました。有津街道の中でも店が集まっている辺りは銀座通りと呼ばれていたことを、私(Dさん)は憶えています。」
イ 光藤旅館とその北側
「光藤旅館は、有津にやって来る富山の薬売りの人を泊めるために、初代の女将(おかみ)が始めたと私(Dさん)は聞いています(図表1-1-1の㋐、写真1-1-1参照)。
光藤旅館と有津街道を挟んで北側に履物店がありました(図表1-1-1の㋑参照)。私が子どものころには、ちょっとした雑貨や駄菓子も扱っていて、あめを買いに行ったとき、蓋を開けてあめを入れ物の中から取り出していたことを憶えています。もう少し北に進むと酒店がありますが、そこでは醬油(しょうゆ)も扱っていて、自家製味噌(みそ)も販売していました(図表1-1-1の㋒参照)。」
 「私(Aさん)が結婚したころ、光藤旅館ではうどん麺を作っていて、私も手伝っていました。朝4時ころに旅館へ行って、うどんの生地を踏んだことを憶えています。私はうどん麺を乳母車へ載せ、歩いて配達にも行きました。
有津には居酒屋のような店はなく、店で酒を飲むことができるのは、光藤旅館と酒店だけでした。ただし、光藤旅館では1合以上飲むことができず、酒店ではコップに酒を1杯ついでもらうくらいだったと思います。光藤旅館から北に少し進んだところにあった精米所は、その後、改装されて精肉店になりましたが、それほど長い間はしていなかったと思います(図表1-1-1の㋓参照)。」

  ウ 銀座通り

「製菓店はまんじゅうやようかんを手作りしていて、夏にはアイスクリームやかき氷も売っていたことを、私(Dさん)は憶えています(図表1-1-1の㋔参照)。製菓店の南側にあった美容院と理容院は、やがて有津街道の北側に移転しました。その後、理容院は代替わりをしてからしばらくして、『トコヤ』という店名でお好み焼き店になりました。なお、有津には何軒かお好み焼き店がありましたが、『つやちゃん』が最初だったと思います(図表1-1-1の㋕参照)。
薬局では、化粧品やシャンプーなども売っていて、私もよく買っていました(図表1-1-1の㋖参照)。また、薬局の店主は、タイ網漁が行われていたときの網元でした。薬局の西隣の店には卸商の人が定期的にやって来て、呉服を販売していたと記憶しています。薬局と有津街道を挟んで北側には『アメリカ屋』という着物の生地や足袋を売っている店がありました(図表1-1-1の㋗参照)。アメリカ屋のおばさんは、三味線を演奏することができる小粋な人だったことを憶えています。
青年会堂では、旅役者の芝居が上演されたり映画の上映会が行われたりしていました(図表1-1-1の㋘参照)。昭和40年(1965年)ころは青年団がさまざまな活動をしていて、青年会堂で社交ダンスが盛んに行われていたことを憶えています。若者の集まりの場であり、憩いの場でした。」
「萬屋は雑貨、果物、菓子や魚などさまざまな商品を売っていて、ちょっとした百貨店のようでした(図表1-1-1の㋙参照)。萬屋、たばこ店と続いて青果店があり、その青果店の息子さんは船乗りで、自分の所有する機帆船に乗っていたことを、私(Aさん)は憶えています。」

  エ 仕立屋

 「昭和40年(1965年)ころ、既製品の洋服はあまり売られていなくて、仕立屋で仕立ててもらっていました。有津にも何軒か仕立屋がありましたが、私(Cさん)は国道集落にあった仕立屋によくお願いしていました。」
 「有津に何軒か仕立屋がありましたが、どこも店舗を構えてはいませんでした。私(Dさん)が子どものころ、盆、正月や祭りのときなどに、新しい洋服を仕立ててもらうのを楽しみにしていたことを憶えています。洋服の生地は、今治に行ったときに買ったり、叶浦や広島県の因島から有津まで背負って売りに来ていた人から買ったりしていました。」

  オ そのほかの店

「私(Dさん)が子どものころ、実家は下駄を作って売っていて、当時は畑中集落で唯一の店でした(図表1-1-1の㋚参照)。履物は下駄が主流だった時代で、盆や正月は下駄作りで親が忙しそうにしていたことを憶えています。店では駄菓子も売っていました。当時、有津の道路は舗装されておらず、自動車もほとんど走っていませんでした。たまに、木浦にある商店『ヤマキチ』が商品を運搬車に積んで、実家も含めて有津にある何軒かの店に卸しに来ていたと思います。
実家の近くにある奥坂神社の前は、水田が一面に広がっていました。現在は住宅地となり、水田は1枚も残っていません。稲刈りが終わった後の水田は子どもたちの遊び場になっていて、束ねた稲わらを木の柱に干してある所でかくれんぼをしていたことを憶えています。
 自転車店と旅館は夫婦で経営していました。旅館を後から始めて、奥さんが切り盛りをしていたと思います。有津小学校の近くの文房具店では、技術・家庭科の授業で使う道具やノートなど、さまざまな学用品を扱っていて、子どもたちがよく利用していました。」
 「有津で一番大きな店が有津マーケットで、肉、野菜などの食料品は、多くの人が有津マーケットで買っていました(図表1-1-1の㋛参照)。この店があったため、有津の人たちは伯方町の中心である木浦まで買い物に行くことがほとんどなかったと思います。その後、木浦にAコープができると、そちらに買い物に行く人が増えました。
私(Cさん)の家では、電球が切れるたびに、電器店へ新しい電球を買いに行っていたことを憶えています(図表1-1-1の㋜参照)。」

(2)人々のくらし

  ア 戦後間もないころの記憶

   (ア) 海難事故の記憶

 「私(Bさん)が子どものころ、木浦港(現伯方港)沖で船が沈没して大勢の人が亡くなった事故(昭和20年〔1945年〕11月に尾道・今治連絡船『第十東予丸』が突風を受けて転覆した事故のこと。450余人が死亡・行方不明になり、愛媛県史上最大の海難事故となった。)がありました。木浦港の辺りに打ち上げられた遺体を見たことを憶えています。」

   (イ) よく採れたマツタケ

 「昔、伯方島ではマツタケがよく採れていて、特に開山でたくさん採れていました。有津の辺りでも採れていて、朝4時ころに起きて採りに行ったことを、私(Bさん)は憶えています。」

  イ 海岸の風景

   (ア) 砂浜と磯

 「現在、有津の海岸は埋め立てられていて砂浜がありませんが、昭和40年(1965年)ころは砂浜が広がっており、潮が引いたときには有津の端から端まで砂浜を歩いて行くことができました。現在の伯方分校(愛媛県立今治西高等学校伯方分校)がある辺りは、埋め立てられておらず干潟があり、カエルがたくさんいたことを、私(Dさん)は憶えています。
 海側の家の裏には、潮が打ちあがってくるのを防ぐため大きな捨て石がたくさん積まれていました。この辺りの海岸は潮の満ち引きの差が大きく、捨て石の上で潮が満ちてくるのを座って待っていて、潮が満ちてきたときに、捨て石の上から泳ぐのが気持ち良かったことを憶えています。夏は毎日のように海で泳いでいました。」
 「私(Bさん)が子どものころ、兄が近くの磯(いそ)でたくさんのセトガイをとってきたことを憶えています。」

   (イ) タイ網漁

 「昭和40年(1965年)ころにはすでに行われていませんでしたが、私(Dさん)が子どものころは、有津の海岸で地引網によるタイ網漁が行われていました。漁の時期になると、よそから家族で出稼ぎに来ている人の子どもが3か月近く有津小学校に通っていて、同じクラスにもいたことを憶えています。」
 「現在の有津郵便局がある辺りから西の海岸は、タイ網漁の縄張りが違っていて、よそからたくさんの漁師が来ていました。その人たちは尾道の吉和(広島県)から来ていたと、私(Aさん)は記憶しています。」
 「タイ網漁が盛んな時期は、夜遅くでもタイ網漁をする人たちの声が聞こえていたことを、私(Cさん)は憶えています。」

  ウ 保育所と学校の記憶

   (ア) 有津保育所

 「私(Aさん)の子どもを保育所に通わせていたころ、保育所施設は建設されておらず、町が農協倉庫の2階を借りて、保育所を運営していました。昭和40年(1965年)までに保育所施設が建設されたと思います。」
 
   (イ) 有津小学校

 「私(Cさん)が小学生のころ、有津小学校には全校で300人ぐらいの子どもが通っていて、運動場に整列したときは、1年生からは反対側に並んでいる6年生の姿が見えなくなるほどでした。当時、小学校の運動会は子どもたちだけでなく、地域の人々も参加する大変にぎやかな行事で、当日は大勢の人で運動場が見えないくらいでした。そのため、教室の窓を開けて、そこから運動会の様子を見る人がたくさんいたことを憶えています。大人が参加する競技には、仮装行列、パン食い競争や嫁取り競争がありました。嫁取り競争は、男女が手をつないでゴールまで走るユニークな競技で、印象に残っています。」

   (ウ) 中学校の修学旅行

 「私(Bさん)が中学生のとき、修学旅行の際には、生徒はそれぞれの家からお米を1升(約1.8ℓ)持って来なければならず、かばんが重くなっていました。私たちは京阪神地方へ行きましたが、京都(きょうと)で三条大橋を渡ったことが特に印象に残っています。」
 「私(Cさん)が中学生のとき、修学旅行の行き先は広島でした。もともとは京阪神地方の予定だったのですが、少し前に起きた紫雲丸事故(昭和30年〔1955年〕5月に宇高連絡船『紫雲丸』が別の船と衝突して沈没した事故のこと。修学旅行中の児童などを中心に死者168人を出した。)の影響で広島に変更になったそうです。」

   エ 船とともにある生活

   (ア) 船に乗る

 「私(Aさん)は、結婚をして子どもが生まれ、子どもを保育所に通わせるころから33年間、船乗りをしていました。その時期には石船(石材運搬船)にも乗っており、エンジンを吹かして甲板にあるウインチで石をつるしたクレーンのワイヤーを巻き上げ、その勢いで積んでいる石を海へひっくり返していました。」
 「私(Cさん)と結婚するまで、夫は木船に乗っていましたが、結婚後に鋼船にしました。新婚のころ、私も船に乗っていろいろとしましたが、当時は用船料が60万円あれば生活できるような時代でした。」

   (イ) 有津に寄港していた旅客船

 「昭和40年(1965年)ころまで、便数は少なかったですが、有津からも今治行きの旅客船が出ていました。当時の有津には旅客船が接岸できる桟橋がなかったので、光藤旅館の裏の突堤から通い船を使って乗船していたことを私(Bさん)は憶えています。」

   (ウ) 生活に欠かせない渡海船

 「渡海船の正島丸はふだんは枝越、余所国に寄ってから今治に行っていたと、私(Cさん)は記憶しています。正島丸の人は御用聞きのようなこともしていて、有津の店で売っていない商品を、有津の人たちは今治で買って来てもらっていました。また、集落単位で組を作って魚を買ってきてもらい、組の人たちで重さを量りながら魚を切り分けて配ることもしていました。」
 「正島丸の人とは親戚のような付き合いだったため、私(Dさん)が子どものころ、親を通さずに直接『あれを買って来て。』とお願いをして、有津では手に入らない商品を今治で買って来てもらったことがありました。大人になってからも、子どもが赤ん坊のころに粉ミルクを今治で買って来てもらうなど、生活に欠かせない存在でした。手数料はそれほどかからなかったため、皆さんよく利用していて、有津での生活に不便を感じなかったのは、正島丸があったからでもあると思います。なお、正島丸の人の家では自分で仕入れた商品を売ってもいて、ちょっとした雑貨店のようでした(図表1-1-1の㋝参照)。冷蔵庫が置いてあって、肉類も売っていたと思います。
 また、急病のときに正島丸に助けてもらったことがありました。私の妹は今治市内の高校に通っていましたが、あるとき高校から帰ってきてから急に『お腹が痛い。』と言い出して、今治の大きな病院で診てもらわなければならなくなりました。高校から帰る前だったら、そのまま今治の病院で診てもらえたのですが、そんなことは言っていられません。もう旅客船が出ている時間ではなく、当時は海上タクシーもありません。そこで正島丸の人にお願いして、今治まで船を出してもらいました。有津から今治まで直行してくれたので、ふだんよりも早く今治に着いたことを憶えています。結局、妹は急性虫垂炎でしたが正島丸のおかげで助かりました。」

   (エ) 行商

 「渡海船に乗って行商の人たちが有津にやって来て、いろいろな商品を売っていました。ナシやブドウを売りに来たり、ショウガを売りに来たりしていたことを、私(Cさん)は憶えています。」
 「朝4時ころに、宮窪から船で来た漁師が光藤旅館の辺りで魚を売っていて、魚を買い求める人たちでにぎわっていました。また、私(Dさん)たちが『パンパン屋』と呼んでいた、機械でパン菓子(穀類膨張機で製造する菓子のこと。ポン菓子などとも言う。)を作って販売する業者も渡海船に乗って来ていたことを憶えています。このように、当時はいろいろな商品が船を使って有津に入っていて、海が搬入経路でした。」

  オ 有津での娯楽

   (ア) 旅芸人

 「私(Cさん)が子どものころ、旅芸人の一行がやって来て何か月か滞在し、神社の境内やあちらこちらにあった広場で、獅子舞などの芸を演じていました。その間、旅芸人の子どもたちが小学校へ通っていたことを憶えています。」

 「区長が各家庭からお金を集めて旅芸人に渡していたことを、私(Aさん)は憶えています。」

   (イ) 祭り

 「私(Dさん)が子どものころ、広島県の厳島神社で管絃祭が行われる旧暦の6月17日は『宮島さん』と呼ばれ、火祭りが行われていました。集落ごとに子どもたちがわらや枯れたススキを集め、光藤旅館裏の砂浜に小屋を建てて火をつけますが、どの集落の小屋が最後まで燃えているのかを競争していました。私が光藤旅館に嫁いできてからも火祭りは続いており、火の粉が飛んできて旅館に燃え移るのではないかと心配したことを憶えています。その後、海岸の砂浜が埋め立てられ、子どもの数も減ってしまったため、火祭りは行われなくなりました。
 盆踊りは有津小学校や寺院でしていました。有津小学校での盆踊りのときは、大勢の人が集まって、大きな輪ができていました。声の良い人が音頭を取って踊っていたことを憶えています。」
 「海岸の砂浜では、9月の『くんち』と呼ばれていた祭りのときに、集落ごとに子どもたちの相撲が行われていました。集落による対抗戦も行われていたかもしれません。私(Cさん)の子どもたちのころにも『宮島さん』や『くんち』が行われていましたが、私はPTAの役員として、それぞれ手伝いをしたことを憶えています。」

  カ 有津から出掛ける

   (ア) 木浦へ

 「木浦にある伯方中学校や伯方高校(現愛媛県立今治西高等学校伯方分校)へは、自転車で通っていました。通学以外で木浦に行くのは、映画を観に行くときくらいでした。木浦には大和座という映画館がありましたが、後に伯方館という映画館もできました。私(Cさん)が映画を観に行っていたころは、石原裕次郎主演の映画がよく上映されていたことを憶えています。また、私の子どもたちが病気になったときは、木浦にある白石医院に連れて行きました。」

   (イ) 今治へ

 「私(Dさん)は子どものころ、たまに渡海船に乗って、親に今治の本町商店街へ買い物に連れて行ってもらうことをとても楽しみにしていたことを憶えています。今治大丸が昭和40年代の終わりにできるまでは、『今治へ買い物に行く』と言えば、本町商店街に行くことでした。当時の本町商店街にはいろいろな店があり、大変にぎわっていました。有津で生活していて不便を感じることはほとんどありませんでしたが、本町商店街には、きれいな筆箱など有津では売られていない商品がいろいろとあるのがうらやましかったことを憶えています。」
「私(Cさん)は伯方高校に通っていたとき、バレーボール部に入っていました。高校3年生のとき、今治で試合があったのですが、台風のため試合中に船が止まってしまって伯方島へ帰ることができず、何日か今治で宿泊しなければいけなくなったことを憶えています。」

(3) 交通の便が良くなって

 「昭和54年(1979年)に大三島橋が開通しますが、その建設工事が行われていたとき、私(Cさん)は工事事務所で、事務職員として3年間働きました。微力ですが、大三島橋の開通に貢献できたのではないかと思います。昭和60年(1985年)ころに有津の海岸が埋め立てられて、海岸沿いに新しい道路(国道317号)が作られました。道路ができて、有津の海岸の景色は大きく変わりましたが、そのころから有津にある店は徐々にやめていったと思います。」
 「橋がつながり本州・四国と陸続きになって、伯方島は交通の便に関しては大変便利になりました。昔は伯方島から東京へ行くとなると泊まりがけで行くのが当たり前でしたが、今では日帰りもできます。その一方で、渡海船がなくなり、地元で買い物をする人も減ったため、商店が閉店していき、島のにぎわいがなくなってきていると私(Dさん)は感じています。また、島外へ進学しやすくなり、島外へ進学した若者がそのまま島外で就職することが増えて高齢化が進むなど、良いことばかりではありませんでした。」

図表1-1-1① 昭和40年ころの有津の町並み

図表1-1-1① 昭和40年ころの有津の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成

図表1-1-1② 昭和40年ころの有津の町並み

図表1-1-1② 昭和40年ころの有津の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成

写真1-1-1 光藤旅館跡

写真1-1-1 光藤旅館跡

今治市 令和4年9月撮影