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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 朝倉の農業

(1) キュウリの栽培

 ア 農家に生まれて

 「私(Bさん)の家は農家でしたが、14歳のときに母が亡くなり、父は病気がちでした。そのため、国民学校(上朝倉国民学校)の高等科2年を終えると、一家の働き手として農業に従事しました。家では5反5畝(約55a)の田んぼで米麦を中心に作っていて、当時は田んぼを5反(約50a)くらい耕作していれば最低限の生活ができていました。」
 「私(Cさん)は昭和11年(1936年)生まれで、国民学校(下朝倉国民学校)3年生のときに終戦を迎えました。私の家は農家で、米麦を8反(約80a)くらい作っていたほか、父の代になって笠松山の方でミカンを4、5反(約40、50a)作っていました。両親が病気がちだったので、5、6年生のときから牛を使って田んぼを鋤(す)いていました。当時はどの農家でも必ず農耕用に牛を飼育していて、鎌で刈った畔(あぜ)草を餌にしていました。飼育していた牛がある程度大きくなると博労さんに売って、代わりに少し小さな牛を買うということを繰り返していました。後に手押し式の耕うん機が普及するにつれて、牛を飼育する農家は減っていきました。
 高校生のときに両親が亡くなり、長男だった私が家を継ぐことになりました。経済的には非常に苦労しましたが、田んぼを売らずに頑張って、結婚後は夫婦で一生懸命働いて一家を立て直しました。父が残してくれたミカン山のおかげで、戦後のミカンブームのときにはまずまずの収入がありました。また、そこにはマツ山があり、マツタケがたくさん生えていて、業者の人がマツタケを買い取りに来てくれたので、家計の足しになりました。」

 イ 盛んだった葉タバコ栽培

 「私(Bさん)は戦後になってから葉タバコを作るようになりました。大洲(おおず)辺りでは畑で葉タバコを作っていますが、この辺りでは広い畑がないので田んぼで葉タバコを作っていました。2月ころから苗床で苗作りを行い、霜が降りなくなったころに苗を移植し、6月の中ごろからお盆前ころまで収穫していました。収穫後は葉タバコのがらを手で抜き取り、田んぼを鋤いてから水を入れ、苗代に加植(間隔を詰めて植えること)した稲の苗を間引いて田植えをしていたことを憶えています。葉タバコのがらは乾燥させて風呂の焚(た)き物に使用していました。一般的な田植えの時期は6月ですが、当時は『土用が3日かかっていたら米ができる。』と言われていました。夏の土用の2、3日前に収穫を終えていれば米を作ることができるという意味です。葉タバコの収穫は、下の方の葉から上の方の葉へ順に採っていくため何日もかかりました。全ての葉を採り終えなければ田植えができないため、夏の土用までに葉タバコの収穫を終えた田んぼに稲を植え、それ以後に収穫を終えた田んぼにはキュウリなどを植えていました。葉タバコを作っていた田んぼで収穫できる米の量は、米だけを作る場合の半分くらいしかありませんでしたが、それでも葉タバコを作る方が米だけを作るよりもはるかに収益が多かったのです。葉タバコは1反(約10a)から多い人だと2反(約20a)くらい作っていて、連作障害を防ぐために作る田んぼを順々に変えるようにしていました。私は5反5畝(約55a)の田んぼのうち1反で葉タバコを作り、その田んぼでは麦も作っていました。稲を刈り取った後の田んぼには麦を間隔をあけて蒔(ま)き、麦と麦の間に葉タバコの苗を植えていました。葉タバコがまだ1尺(約30㎝)くらいの高さのとき、少しくらい青くても麦を刈り取り、その後に土を寄せて葉タバコの畝にしていたことを憶えています。」
 「私(Dさん)は農家の生まれで、子どものころからずっと農作業の手伝いをしていて、中学校を卒業すると農業に従事しました。戦後、葉タバコ栽培が盛んになり、私の家でも中学校を卒業するころから葉タバコを作り始めました。この辺りは畑が少ない地域で、じゅるい(ぬかるんでいる)田んぼが少ないことから田んぼで葉タバコを栽培していました。収穫したタバコの葉は乾燥室へ運んで乾燥させていて、たくさん作っていた人は、全て乾燥させるのに4、5日はかかっていました。乾燥室の内部には鉄管が回されていて、焚き口で薪(まき)を燃やすと、鉄管の内部を通る空気の熱が室内全体に伝わってタバコの葉を乾燥させる仕組みになっていました。室内の温度が下がると葉の品質が悪くなるため、2人くらいが交代で寝ずの番をして焚き物をくべて(燃やして)いました。葉の中骨(葉脈)の部分が乾きにくいため、最後には室内温度を60℃くらいにしていたことを憶えています。その後、外国産の安いタバコが輸入されるようになり、日本たばこ産業株式会社から廃作要請を受けたため、葉タバコ栽培は衰退していきました。葉タバコを栽培していた人の中には、今ではサトイモ栽培に切り替えている人もいます。」

 ウ キュウリ栽培の開始

 「朝倉村でキュウリ栽培が始まったころ、『上朝(上朝倉地区)でなければ秋キュウリは作れない。』と言われていました。朝の気温が低く1日の寒暖差が大きいという上朝の気象条件が、品質の良いキュウリを栽培するのに適していたのだと思います。上朝倉農協のキュウリ部会ができたのは昭和32、33年(1957、58年)ころだったと思います。そのころキュウリの生産者はそれほど多くはありませんでしたが、後に朝倉の全域でキュウリ栽培が盛んになりました。その当時、この辺りでも多くの人がキュウリを作っていたので、私(Bさん)たちは『キュウリを作らないのはお地蔵さんだけだ。』と言っていたことを憶えています。」
 「私(Aさん)が23歳でこちら(浅地集落)に嫁いできたとき、家では米や麦、葉タバコを作っていて、まだキュウリは作っていませんでした。その後、現金収入を得るために小さな田んぼでイチゴを作っていた時期があり、そのころは上朝でイチゴを作っている人はいませんでした。朝倉村でキュウリ栽培が始まったころ、生産者のほとんどは上朝の人で、夫はそのころから集出荷場で検査員を務めていました。夫は兄と一緒に上朝倉農協のキュウリ部会を立ち上げ、夫が部会長を、兄が副部会長を務めていました。キュウリ部会ができた正確な年代は憶えていませんが、そのとき生産者はそれほど多くはありませんでした。当時は秋キュウリの値が良かったので、ほとんどの家で葉タバコの後作としてキュウリを作り始めました。最初のころは露地栽培で手間がかかりましたが、良いお金になるのでみんなが一生懸命作っていたことを憶えています。」
 「私(Cさん)は葉タバコの後作として、昭和30年代に秋キュウリの露地栽培を始めました。そのころ、この辺りでは『近成山東』という品種の共同出荷をしていて、ほかの品種を栽培している人はいませんでした。近成山東は九州地方で開発された品種で、キュウリ部会の初代部会長さんたちの尽力により朝倉村で導入することになったのだと思います。少し長手の品種で、中には30cmくらいにまで生長するものもありました。
秋キュウリの栽培時期がちょうど台風シーズンと重なっていたことから、勢力の強い台風がこの辺りに接近したときには収穫することができませんでした。そのため、必ずしも収益が安定していたわけではありませんが、台風がこちらをそれて、他の産地が台風の被害を受けたときには非常に高い値がつくこともあり、キュウリ栽培はとても魅力的でした。当時は大阪の市場での値が良かったこともあり、朝倉村のほとんどの農家がキュウリを作っていました。」
 「朝倉村では葉タバコの後作としてキュウリ栽培が始まりました。私(Dさん)は、葉タバコの収穫を早く終えた田んぼには稲の苗を植え、収穫が遅れた田んぼには、全ての収穫が終わる2、3日前からタバコの畝へキュウリの種を直蒔きしていました。私の家ではキュウリを1反5畝(約15a)くらい作っていました。当時、朝倉村でキュウリを2反(約20a)も作っていた人はそれほどおらず、1反5畝くらい作っていた人が多かったと思います。近成山東を栽培する以前の、キュウリの生産者がまだ少なかったころには『宮ノ陣』という品種を栽培していて、そのころには5畝(約5a)作って30万円くらいの収入がありました。当時は土木建設現場で働いた日当が300円という時代だったので、30万円というのは非常に大きな金額でした。」

 エ 接ぎ木と実生

 「私(Bさん)がキュウリを作り始めたころ、随分大きく生長してきたと思い、たっぷり水をやったところ、翌日にはすっかり枯れてしまっていたということがありました。まだ十分に根付いていない段階で水を与えすぎたのが原因でした。キュウリを作り始めて間もないころは栽培方法がよく分かっていなかったので、そのような失敗をしたこともありました。その時分は実生(みしょう)(種から植物を育てること)で育てていましたが、病気に弱いという欠点がありました。そのため、今では接ぎ木苗で育てることが一般的になっており、実生で育てるよりも実が随分太く生長しています。」
 「私(Dさん)は、どのような品種でも接ぎ木苗で育てたものは実生で育てたものに比べると味が落ちると思います。また、どの作物でも品種改良が続けられており、ほとんどの場合、昔の品種は作られなくなりました。」

 オ 真っすぐなキュウリを育てる

 「キュウリは今でこそ少しくらい曲がっていても買い手がありますが、昔は真っすぐに伸びたきれいな形でなければ買い手がありませんでした。そこで、真っすぐに伸びたキュウリを作るため、実が9㎝から10㎝くらいに生長したとき、お尻に重りを針金で差し込んで吊(つ)り下げていました。自転車店で不用になったチューブを購入し、割った瓦をチューブで縛って重りにしていました。丸い石を重りにしようとチューブで縛っても抜け落ちてしまうことがあったため、割った瓦を重りとして使っていたことを私(Dさん)は憶えています。作った重りはキュウリの収穫後も捨てずに取っておき、再利用していました。10年間くらいはそのような方法で真っすぐに伸びたキュウリを育てていたと思います。」
 「キュウリは実のお尻に重りを吊り下げなければ曲がってしまいます。曲がったキュウリも真っすぐに伸びたキュウリも味に変わりはありませんが、その当時は曲がったキュウリに商品価値はありませんでした。そのため、どの生産者もキュウリに重りを吊り下げて真っすぐに伸びるようにしていたことを私(Cさん)は憶えています。キュウリ一本一本に重りを吊り下げる作業はとても手間がかかったため、何反もキュウリを栽培することはできませんでした。生産者の高齢化が進むにつれて、そのような手間をかけずに生産できる短い品種のキュウリを作るようになりました。」

 カ 露地栽培とハウス栽培

 「朝倉でキュウリ栽培が始まったころは、露地栽培しか行われていませんでした。私(Bさん)もキュウリを作り始めた最初のころは露地栽培で、葉タバコの収穫後、7月末ころに苗を植えていました。キュウリの苗は、上朝倉農協のキュウリ部会が農家からの注文をまとめて重信(しげのぶ)町(現東温(とうおん)市)の業者から購入していました。この辺りでキュウリの年2作を行うためにはビニールハウスを導入することが必要でした。そこで、40年以上前にハウス栽培に切り替え、キュウリを8畝(約8a)作っていましたが、平成21年(2009年)にやめました。ハウス栽培では暖房を使用せず、年に2回キュウリを作っていました。キュウリは生長が早く、定植してから1か月後には収穫できるようになります。1作目は3月下旬から4月初めに定植して5月から7月まで収穫し、お盆のころにキュウリのがらを片づけた後、2作目は8月下旬に定植し、9月末から12月初めころまで収穫していました。1作目のキュウリは2作目のキュウリよりも収穫が倍くらいありました。
 8月下旬に定植するときは、ハウス内が高温となる日中を避け、午後4時か4時半ころから苗を植え始め、その日のうちに植え終わるようにしていました。1作目のキュウリの場合は、夕方に収穫すると実が太りすぎていて、出荷時に『雑』という規格外の扱いになってしまうため、日中に収穫するようにしていました。2作目のキュウリの場合は、涼しくなって1作目のように太りすぎることがないため、夕方に収穫しても構いませんでした。収穫量は多い日でも1箱50本くらいで、午前10時半ころまでに農協の集出荷場へ持っていっていました。」
 「私(Aさん)は葉タバコを田んぼで作っていました。タバコの葉を採り終えてからがらを抜き、田んぼを鋤いた後に畝を作りキュウリの苗を植えていて、苗はビニールハウスで作っていました。葉タバコを作るだけでもなかなか大変な仕事だったので、しんどい思いをしてよくキュウリも作っていたと思います。後に露地栽培をしていた場所に長さ50mくらいのビニールハウス3棟を建て、ハウス栽培を始めました。当時のビニールハウスは今とは違い、ビニールの上げ下ろしを1枚ずつ手作業で行わなければならず、大変手間がかかったことを憶えています。また、ハウス内の温度を管理するため、常に誰か1人は家にいなければなりませんでした。」
 「私(Dさん)がキュウリのハウス栽培を始めた昭和45年(1970年)ころ、朝倉村でハウス栽培を行っている生産者はそれほどいませんでした。そのときのビニールハウスはパイプの代わりに孟宗竹(もうそうちく)を使っていました。孟宗竹を割り、アーチ状にゆがめたものを並べていき、その上からビニールを掛けていました。孟宗竹だけでは強風に耐えられないので、孟宗竹の間に4mに1本くらいの割合で鉄骨を入れていたことを憶えています。キュウリ1反5畝(約15a)を収穫するには夫婦でいくら頑張っても2時間はかかってしまうため、夏の日中にビニールハウスの中でキュウリを収穫していると暑くてたまりませんでした。」
 「私(Cさん)は主に秋キュウリの露地栽培をしており、近成山東の種を7月から8月ころに直蒔きしていました。それからアーチ型のパイプを打ち込み、その上からキュウリ栽培用のネットを張ると、蔓(つる)がネットにはい上がってきました。生育の初期の段階では、わき芽かきを行ったり、病害虫防除のために農薬を散布したりしなければならず、手間がかかりました。親蔓がある程度の高さに伸びたところで先端を摘み取り、子蔓・孫蔓の生育を促しました。その後はこまめに栽培の管理を行う人もいれば、放任栽培を行う人もいましたし、仕立て方も1本仕立ての人もいれば3本仕立ての人もいました。品質の良いキュウリを作るためには、そのように栽培方法をいろいろと研究しなければなりませんでした。また、当時はそれほど良い消毒薬がなかったため、今であれば防ぐことができる病気にかかることもありました。台風で傷ついた葉や茎から病原菌が入り、あっという間に病気が蔓延(まんえん)することもあったため、台風の翌日にはどの生産者も消毒していたことを憶えています。ハウス栽培であれば12月ころまで収穫することができますが、露地栽培だとその時期まで収穫することはできません。そのため、今でもキュウリの露地栽培を行っている人はいますが、ハウス栽培を行う人の方が多くなっています。」

 キ 集荷と出荷

 「上朝でキュウリ栽培が始まって最初の2、3年くらいは生産者がそれほどいなかったので、太之原集落の伏原八幡大神社で集出荷を行っていました(写真2-1-3参照)。最初は木箱に詰めて出荷していましたが、その後8㎏詰めの段ボール箱に詰めて出荷するようになりました。
 上朝で農協が主体となった共同出荷が始まったのは昭和32、33年(1957、58年)ころだったと思いますが、そのころはほとんどを今治の市場へ送っていました。その後、生産者が増えたため平林集落に農協の集出荷場ができました。その時分が上朝のキュウリ部会の最盛期で、8㎏詰めの段ボール箱1,800箱も市場へ出荷したことがあったことを私(Bさん)は憶えています。そのころには大部分のキュウリを大阪の北果市場(大阪北部中央青果株式会社)へ送り、一部を今治の市場へ送るようになっていました。また、農協ではキュウリの規格を定めていて、太さによって等級が違っていました。」
 「上朝でキュウリの生産者がわずかしかいなかったころは、伏原八幡大神社の縁台で集出荷を行っていました。その後、上朝の生産者がだんだん増えてきたため、平林集落に上朝倉農協の集出荷場ができました。最近は集出荷場で機械による選別を行っていますが、当時は生産者が家できちんと選別してから8㎏詰めの段ボール箱に入れ、集出荷場へ出していました。集出荷場ではキュウリや当時たくさん栽培されていたタマネギなどを検査した後、市場へ送っていました。秋キュウリの値が良く、市場で8㎏が5,000円の値がついたこともありました。私(Aさん)の家でもキュウリをたくさん作っていて、収穫したものを選別し段ボール箱に詰めるのが私の仕事でした。そのころ、夫と長男が食当たりで入院したため、2日間徹夜で箱詰めをしたことがありました。集出荷場へ運ぶときは親戚の人に手伝ってもらいましたが、とてもしんどかったことを憶えています。その後、上朝と下朝(下朝倉地区)が合同で下朝倉農協の集出荷場へ出荷するようになりました。そのころ、夫と兄の尽力により、船3隻を借り切ってキュウリ生産者による中国地方への研修旅行が実現したことは懐かしい思い出です。また、昭和45年(1970年)1月、夏秋キュウリの品質が優秀であるということで、夫が農林大臣から表彰を受け、東京での表彰式に夫婦で出席したことは一生の宝だと思っています。」
 「私(Dさん)がキュウリ栽培を始めたころ、朝倉北地区では私を含む2、3戸の、朝倉南地区の本郷集落では2、3戸の農家がキュウリ栽培を行っていただけでした。その後、生産者が増えてくると、本郷集落の集会所で集荷して共同出荷を始めました。キュウリを詰める木箱を今治へ買い集めに行きましたがなかなか手に入らなかったので、何人かで当番を組んで下朝倉農協の車を借りて壬生川(にゅうがわ)(現西条市)や新居浜(にいはま)の青果市場へ行き、市場の職員の自転車を借りて木箱を買い集めていました。出荷の際には、木箱を重ねてもキュウリが傷むことがないように、キュウリの上に刈り草を置いて箱詰めするようにしていました。その後、下朝倉農協で共同出荷が始まったころには8㎏詰めの段ボール箱を使用していました。下朝では下朝倉農協の古い米倉庫を集出荷場として使用していました。生産者は自分で選果した後、午前10時ころまでには農協の集出荷場へ出荷しなければなりませんでした。農協では検査員が生産者の出荷したキュウリの検査を行っていて、検査終了後、委託していた運送業者のトラックに段ボール箱を積み込み、市場へ送っていました。私も結婚するまではキュウリの検査員を務めていました。トラック輸送がそれほど行われていなかったころは、国鉄(日本国有鉄道、現JR)の伊予桜井駅と今治駅に貨車を入れてもらい、キュウリを詰めた段ボール箱をコンテナに積み込んで大阪の市場へ輸送していました。そのときには段ボール箱を放り投げるようにして積み込んでいたことを憶えています。」
 「私(Cさん)がキュウリを作り始めたときには、下朝倉農協による共同出荷が行われていました。生産者がある程度いなければ共同出荷ができないので、そのころにはキュウリの生産者が増えていたのだと思います。当時から朝倉で生産されるキュウリは市場での評価が高かったため、今治の市場への出荷量は増えていました。ところが、今治近郊でキュウリの生産量が増えてきて今治の市場に出回るキュウリの量が増えてくると、キュウリの価格が安くなりました。そのため、下朝倉農協では集荷したキュウリのほとんどを大阪の北果市場へ送っていました。農協の集出荷場では、生産者の中から選ばれた検査員の方がキュウリの検査を行っていたことを憶えています。」

 ク 婦人部の活動

 「上朝でキュウリ栽培が盛んになってから、上朝倉農協の婦人部でキュウリの苗作りを行うようになりました。そのころは現金収入を得る手段がほとんどなかったこともあり、多くの女性が苗作りに参加していました。多いときには40人くらいが参加していたと思います。以前に葉タバコの苗作りをしていて使用されなくなっていたビニールハウスを借り、そこで苗の接ぎ木作業を行っていました。作った苗には当番で水やりをしていて、みんなで楽しく作業していたことを私(Aさん)は憶えています。キュウリの苗は農家の方に販売し、多くの収益があったので、婦人部で北海道や沖縄へ旅行をしたこともありました。また、婦人部ではキュウリの漬け物を作り、『朝倉漬け』として販売していたこともありました。キュウリを塩漬けした後、酒粕(かす)、砂糖、みりんを混ぜたものに漬けたもので、当時は人気があり収益も結構あったようです。」

 ケ 生産者の減少

 朝倉でキュウリの生産者が減少していった原因について、次の方々が話してくれた。
 「朝倉におけるキュウリ栽培の最盛期は、昭和48年(1973年)ころだったと私(Bさん)は思います。そのころからキュウリの価格が下がっていき、それに伴って生産者が減少していったのではないかと思います。また、農家の高齢化が進んだことで、より一層生産者が減ってきていると思います。今はどこでもそうだと思いますが、太之原集落でも若い農業後継者が見当たりません。」
 「朝倉でキュウリの生産者が減少していった主な原因は、農家の高齢化が進んだことだと私(Cさん)は思います。キュウリ栽培を行うには、アーチ型のパイプで骨組みを作ったり、キュウリ栽培用のネットを張ったりする必要があります。また、栽培管理にもかなり手間がかかるため、高齢になると作業が大変になるのだと思います。」
 「農家の高齢化が進んだこともそうですが、時代が変化し、かつてのように農業だけで生計を立てることが難しくなったことも、キュウリ生産者の減少につながっていると私(Dさん)は思います。」

(2) イチゴの栽培

 ア イチゴ栽培を始める

 「私(Cさん)がイチゴ栽培を始めたのは昭和40年代の初めで、それまで朝倉村では本格的なイチゴ栽培は行われていませんでした。その時分はいわゆるミカンブームの時代でした。この辺りではキュウリとミカンを作っていない者はいないと言われていたほどで、多くの人が畑のわずかな土地にミカンの苗木を植えたり、ブルドーザーで山を開墾してミカンの苗木を植えたりしていたことを憶えています。ところが、ミカンの苗木を植えてから収穫できるようになるまでには時間がかかります。また、イチゴ栽培を始めた年は麦の収益がなくなってしまった年でした。当時は乾燥機がなかったため、手で刈り取った麦を畝の上に置き、天日で乾燥させていました。麦摺(す)り機を所有している農家も少なかったので、乾燥させた麦は、近所で麦摺り機を所有している農家にお金を払って摺ってもらっていました。ところが、その年は麦の収穫期に雨が降り続き、畝の上で乾燥させていた麦が全て腐ってしまいました。私はミカンを少し作っていたのでまだ良かったのですが、多くの農家は米と麦により収入の大部分を得ていたので、麦が腐ってしまったことで大きな打撃を受けました。そのようなときに『イチゴはいいぞ。』という話を耳にして、私を含む10人くらいが、近見地区でイチゴを作っていた農家に親株を譲ってもらい、イチゴ栽培を始めたのです。」

 イ ミカン栽培の盛衰

 「昭和40年(1965年)ころ、朝倉村で農業構造改善事業が実施され、太之原集落では25、26戸が合計24町(約24ha)くらいミカンを植えました。私(Bさん)もミカンを7反(約70a)植えましたがお金にならなかったので、3反(約30a)くらいをキウイフルーツに改植しました。4、5年前にミカンの栽培をやめ、2、3年前にはキウイフルーツの栽培もやめました。太之原集落で今もミカンを作っているのは3戸だけだと思います。」
 「昭和40年(1965年)ころ、私(Dさん)はそれまで続けてきた葉タバコ栽培からイチゴ栽培に切り替え、昭和52、53年(1977、78年)ころまではキュウリとイチゴの両方を作っていました。当時は朝倉村でも多くの人がミカンの苗木を植えていましたが、良い収入になっていた人はそれほどいなかったのではないかと思います。」

 ウ 生産者が増えなかった理由

 「イチゴは冬場に栽培する作物で、台風の被害を受けることがないため収入は安定していましたが、朝倉村ではイチゴの生産者がなかなか増えませんでした。今治にはタオル会社がたくさんあり、当時は景気が良かったため、従業員の求人が多かったことも生産者が増えなかった理由の一つだったかもしれません。また、イチゴはキュウリ以上に栽培技術が必要で手間がかかることも、その理由の一つだったと思います。私(Cさん)もすぐには品質の良いイチゴを作ることができなかったため、2年に1回くらいは九州などへ研修に行き、栽培技術を勉強していたことを憶えています。また、ビニールハウスや暖房機などを整備するための資金が必要となることも、イチゴ栽培を始める上では障害となっていました。農協がビニールハウスの建設に対する補助事業を始めてからは、キュウリ栽培からイチゴ栽培に切り替える農家が増えていきました。朝倉村で本格的にイチゴ栽培が始まったのは昭和50年代に入ってからだったと思います。」

 エ イチゴの品種

 「私(Cさん)は、最初は『宝交早生(わせ)』という品種を作っていて、20年くらい栽培を続けました。その後、『とよのか』という品種も高い収益が出るので20年くらい作っていました。今作っているのは『さちのか』という品種で、10年以上作っています。」
 「私(Dさん)がイチゴを作り始めたときに作っていたのは『宝交早生』という品種で、『麗紅』という品種を作っていたこともありました。長い間『とよのか』という品種を作っていましたが、今は『さちのか』という品種を作っています。私は熊本の試験場へ2、3回研修に行ったことがあり、そのとき試験場の方が、『新しいイチゴの品種を開発するには30年かかる。』とよく話していたことを憶えています。」

 オ ハウス栽培

 「私(Cさん)がイチゴ栽培を始めた最初の年は、ビニールハウスを建てる時間がなかったので、露地でトンネル栽培(畝をビニールなどでトンネル状に覆って作物を栽培する方法)をしていました。その年は雨が降り続いてイチゴが腐ってしまったため、2年目からはハウス栽培に切り替えることにし、農協の補助を受けて100坪(約330㎡)から200坪(約660㎡)くらいのビニールハウスを建てました。昭和50年代に入ってからはハウス内に暖房機を設置しました。その後は自分のお金で少しずつビニールハウスを増やしていき、最も多いときで650坪(約2,145㎡)のビニールハウスでイチゴを作っていました。収穫する時期には、毎日午前0時とか1時までパック詰めをしていたことを憶えています。イチゴを作っていたおかげで子どもたち4人を東京の大学へ進学させることができました。」
 「私(Dさん)はイチゴ栽培を始めたときからハウス栽培を行っていました。そのころは冬の朝に起きて外に出ると田んぼが凍っている日が結構ありました。そのため、冬にはハウス内にトンネルを作らなければイチゴを作ることができませんでした。今はこの辺りで朝、田んぼが凍るのは年に1、2回です。それでも寒いときはハウス内の温度が随分低くなってしまい、暖房を入れなければならないこともあります。今はイチゴを170坪(約561㎡)から180坪(約594㎡)くらい作っていますが、昭和50年代には最も多いときで900坪(約2,970㎡)くらい作っていました。当時、収穫期の2か月くらいはゆっくりと寝る時間もないくらい忙しく、夜眠くなると、入浴して目を覚ましてから選果していたことを憶えています。」

 カ 苗作りから定植まで

 「品質の良いイチゴを作って収益をあげようと思えば、良い苗を作る必要があります。私(Cさん)は、イチゴ作りの八分は苗作りだと思っています。11月に親株を植えてランナー(小さな蔓)を伸長させ、4月から5月にランナーから子苗が出てくると、切り離さずにポットに受けます。ランナーは針金で固定し、子苗の根が下りてから切り離します。
 夏の間は1日に2回水をかけないとイチゴの苗は枯れてしまいます。少し葉が巻いてくると根が傷んでいます。しかし、日和が良すぎるからといって水をやりすぎると根が腐ってしまうので、加減が難しいのです。イチゴの苗を育てるには多くの水が必要で、私は泉掘り(枠組み井戸)の地下水を利用していましたが、朝倉では地下水を利用できない地域もありました。クラウン(苗の首の付け根)の太さがイチゴの収量を左右するので、1週間から10日に1回は葉をもいでクラウンに日光を当てて太らせる必要があります。苗がある程度生長してくると8月下旬に夜冷庫に入れ、花芽分化していれば9月下旬に定植します(写真2-1-5参照)。」
 「昔は親株のランナーから出てきた子苗を切り離さずにポットに受けていましたが、今は切り離した子苗をポットに挿しています。日よけのために苗を黒い寒冷紗(かんれいしゃ)で覆っていますが、それでも夏場は1日に2回苗に水をかけています。夕方に水をやると苗が太りすぎる上に病気にもかかりやすいので、午後3時以降には水をかけないように指導されていました。そのため、朝少し苗に水をかけた後、午後0時から1時ころに再び水をかけるようにしています。私(Dさん)の家では地下水を得ることができなかったため、朝倉ダムができるまでは農業用水を頓田川から取水していました。イチゴ栽培では、苗作りの時期と出荷の時期は休みがないので大変ですが、夏場は苗に水やりをするくらいなので比較的楽な時期だと思います。苗が生長すると20日間くらい夜冷庫に入れて花芽分化を早め、花芽分化が確認されてから定植しています。」

 キ 大野ヶ原での高冷地育苗

 「現在は夜冷庫で夜冷育苗を行い花芽分化を早めていますが、夜冷育苗を始めるまでは朝倉村ではイチゴの花芽分化を早めるために、お盆を過ぎたころに大野ヶ原(現西予(せいよ)市)で山上げ育苗を行っていました。いつから山上げ育苗を行うようになったのかはっきりとは憶えていませんが、10年くらいは続けていたと思います。そのころは県内だけでなく徳島県や香川県からも山上げ育苗に来ていました。朝倉よりも大野ヶ原の方が夜の気温がかなり低く寒暖差が大きいため、花芽分化が早まります。私(Dさん)は所有していたマイクロバスにイチゴの生産者を乗せて、国道33号を通って大野ヶ原へ行っていました。そのころは朝倉から大野ヶ原まで行くのに車で3時間くらいかかり、同乗していた女性の方が途中でよく車酔いをしていたことを憶えています。9月の終わりころに農協の指導員が大野ヶ原へ行き、花芽ができているか検鏡していました。指導員から花芽ができているという連絡を受けると、苗を大野ヶ原から下ろして本圃(ほんぽ)に定植していました。最初の2年間は山上げ育苗を行うための土地を借用していましたが、当時の朝倉村長や農業委員会に協力してもらい、最終的には地元に返すという約束で、すでに整地されていた畑4反(約40a)を朝倉村が購入しました。大野ヶ原まで車でトラクターを運んで畑を鋤いたことや、連作障害を防ぐために、先輩と一緒にピクリンという農薬で土壌消毒を行っていたことを憶えています。」
 「イチゴは日照時間が短くなると開花する短日植物です。イチゴの値が良いクリスマスの時期に出荷するために花芽分化を早めようと考えたのが、大野ヶ原で山上げ育苗を始めたきっかけでした。本格的に山上げ育苗を行うようになったのは昭和50年代だと思います。そのころに作っていたのは『宝交早生』という品種でした。農協の指導員が検鏡し、花芽ができていないものはさらに大野ヶ原で育苗を続けなければならず、一緒に山下ろしをできない人もいたことを私(Cさん)は憶えています。花芽ができていないものを山下ろしして本圃に定植しても十分に生育しないのです。山上げ育苗を始めてからは、クリスマス前に出荷するようになって市場での値も良くなり、1パックの値段が1,000円から1,500円した時期もありました。」

 ク ミツバチによる授粉

 「イチゴを作り始めたころは、団扇(うちわ)であおいだり稲藁(わら)でなでたりして授粉させていましたが、後にミツバチを使って授粉させるようになりました(写真2-1-7参照)。授粉用のミツバチの借用料は巣箱1箱で2万5千円くらいかかるため、以前は巣箱を1箱借りて、1棟のビニールハウスで授粉させると別のビニールハウスへ巣箱を移動させていました。私(Dさん)も年を取って重い巣箱を運ぶのが大変になったので、今はビニールハウス1棟につき巣箱1箱を借りています。農薬を散布するときにはミツバチをビニールハウスの外へ出しておかなければ死んでしまうため、夜か早朝に巣箱を出すようにしています。」
 「私(Cさん)がイチゴ栽培を始めたときは、一畝(うね)ごとに団扇であおいで授粉させていましたが、その後はミツバチを導入して授粉させるようになりました。朝倉には養蜂業者に頼らず自分で飼育しているミツバチを使っている人が今でもいますが、ミツバチは誰でも簡単に飼育できるものではありません。私は養蜂業者からビニールハウス1棟につき巣箱1箱を借りていましたが、養蜂業者が少なかったので、ミツバチを確保するのがなかなか大変でした。イチゴの花が咲き始めると、ビニールハウスの中にミツバチの巣箱を入れて授粉させています。イチゴの場合、トマトのようにビニールハウス内の温度を20℃から30℃まで上げる必要はありませんが、5℃より低くならないように暖房機を使用して温度管理をしています。」

 ケ 収穫と出荷

 「私(Cさん)がイチゴ栽培を始めたときはまだ共同出荷が行われておらず、今治の市場へ個人出荷していました。そのころ、今治の市場でイチゴが全国でも一、二を争うくらいの高値となったことがありました。朝倉村でイチゴの生産者が少し増えてきて農協の共同出荷が始まると、今治の市場のほかに短い間でしたが呉(くれ)(広島県)の市場へも送っていて、すぐに大阪の北果市場へ送るようになりました。北果市場ではいつも決まった業者さんが買ってくれていたので、朝倉産のイチゴは市場で信用を得ていたのだと思います。北果市場へ送るのであればそこで勝負しなければなりません。『ここの市場はあそこの市場よりも良い値で買ってくれるので、ここの市場へ出そう』というような姿勢では、結局どこの市場からも相手にしてもらえないと思います。また、キュウリにせよイチゴにせよ市場同士で競争させなければ値段は上がらないため、私たちは『大阪の市場では何ぼで買ってくれるので、今治でもこれくらいで買ってくれないと。』というような交渉を行っていました。4、5年前までは北果市場へも送っていましたが、今は越智今治農協の苺部会員が8人しかおらず生産量も減っているため、今治の市場だけに出荷しています。
 イチゴを出荷する際にはパック詰めをしなければなりませんが、これが面倒なのです。イチゴのような生ものは春の彼岸を過ぎると傷みやすくなります。以前は集荷したイチゴを苺部会員が検査していましたが、今は農協の検査員が検査しています。越智今治農協では厳しい検査を行っていますが、その代わり品質はほかのどの産地にも負けていないと自負しています。それだけ厳しい検査をしているので市場での値も良いのです。」
 「収穫するときに指先に力が入りすぎると、イチゴの実を傷つけてしまう恐れがあります。そのときは目立たなくても、一晩おいて翌朝出荷先に持って行くと、傷が目立って見えることがあります。収穫したイチゴは、自分で選果した後でパック詰めして集出荷場へ運びます。以前は朝倉で集荷していましたが、今は生産者が少なくなったので、生産者が個人で越智今治農協のグリーン富田へ出荷しています。私(Dさん)は5月末まではグリーン富田へ出荷し、その後は6月15日から20日ころまで今治の丸今青果(丸今青果株式会社青果市場)に個人出荷しています。」

 コ 環境に配慮したイチゴ栽培

 「現在、私(Dさん)はエコえひめ農産物(愛媛県特別栽培農産物等認証制度)といって、化学合成農薬と化学肥料を減らしたイチゴ栽培に取り組んでいます。圃場の土壌づくりには自家製堆肥を使用し、適正施肥に努め、土壌還元消毒を行うことで、環境に優しい持続可能な農業生産を行っています。残留農薬については、収穫が始まると実を1㎏くらい採り、県の検査を受けています。農薬は県から指定されたもの以外は使用することができず、中には非常に高価なものもあります。また、指定農薬が変更されるとそれまで使用していた農薬は使用できなくなるため、多くの生産者は使い道のなくなった農薬をたくさん抱えています。イチゴの害虫であるハダニは農薬を1回散布した程度では駆除できず、指定外の農薬を散布することもできないため、ハダニ対策としてハダニを食べる天敵のダニをハウス内に入れています。そのようにお金と手間をかけて栽培することで、県内でも非常に評価の高いイチゴを作ることができています。」

 サ いろいろな野菜を作って

 「今治近郊でハクサイの栽培がはやったことがあり、私(Dさん)も一時期ハクサイを作っていました。そのころは炭俵にハクサイを詰めて出荷していました。昭和50年(1975年)ころから、キュウリの収穫後に麦の代わりにレタスを作っていた時期もありました。玉川町の農家の方たちと一緒に、私の車で香川県の豊南農協(現香川県農協)へ視察に行ったこともありました。また、タマネギを2反(約20a)くらい作っていたこともありましたが、それほどお金にならなかったので2年くらいでやめました。そのころはテーラーがなく、田んぼで収穫したタマネギを一輪車に積み、何回も往復して運んでいたことを憶えています。
そのほかにアスパラガスも作っていて、今治地域では私が最も早くアスパラガスの栽培を始めたと思います。ビニールハウスとビニールハウスの間の通路で、アスパラガスの苗を2条くらい植えてトンネル栽培をしていました。トンネル栽培は露地栽培よりも出荷時期を早めることができるため、市場では有利でした。秋に苗を植えて2月から3月ころに収穫していました。当時はアスパラガスで100万円くらいの収益があり、日暮れ時にイチゴの収穫と選果を終えた後、午前0時か1時ころから収穫したアスパラガスの結束作業をしていたことを憶えています。私がアスパラガスの栽培をやめてから周桑地区(現西条市)ではアスパラガスの生産量が少しずつ増加し、今では県内最大の産地となっています。」

 シ イチゴ栽培の現状

 「朝倉では30人くらいがイチゴの共同出荷を行っていたこともありましたが、今は5、6人にまで減っています。子どもや若い人たちの間でイチゴが嫌いな人はあまりいないようなので、今後イチゴの需要は伸びてくると思います。また、高齢化が進み、イチゴの生産者が年々減ってきているため、イチゴの価格は比較的良いと思います。
 私(Cさん)は今でも土耕栽培を行っていますが、最近は高設栽培が普及しています。土耕栽培で作ったイチゴの方が味は良いと思いますが、高設栽培だと立ったままでしゃがまなくても作業ができるので、高齢になっても作業が随分楽なのです。現在、越智今治農協の苺部会員は8人ですが、そのうちの若手2人もイチゴの高設栽培に取り組んでいます。高設栽培を始めるのに元手が結構かかっている上に栽培技術も難しいため、収益をあげるためにはかなり勉強しなければなりません。2、3年前まで苺部会では隔年で研修と慰安旅行を行っていました。研修では九州や岡山県などのイチゴの産地を視察していましたが、近年はコロナ禍で研修を実施できなくなっているのがとても残念です。」

写真2-1-3 伏原八幡大神社

写真2-1-3 伏原八幡大神社

令和3年11月撮影

写真2-1-5 夜冷庫

写真2-1-5 夜冷庫

令和3年11月撮影

写真2-1-7 ミツバチによる授粉

写真2-1-7 ミツバチによる授粉

令和3年11月撮影