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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 子どもが見た戦中・戦後

 ア 食糧難の時代

 「戦時中から戦後2、3年の間は食糧難だったので、どの農家もサツマイモを作っていました。戦時中の短い間ですが、国民学校(下朝倉国民学校)でも運動場にサツマイモを植えていた時期がありました。米は供出していたためほとんど口にすることができず、サツマイモが主食のような状態で、私(Cさん)の家でもサツマイモを蒸したり芋粥(がゆ)にしたりして食べていたことを憶えています。また、当時は今治の方からこちらまでサツマイモを買いに来る人もいました。」
 「戦時中は米の供出があり、自分の家で食べる米がなかったので、私(Bさん)の家ではサツマイモを作って食べていました。学校(上朝倉国民学校)では週に1回お弁当にサツマイモを持ってくる日があり、先生が1人ずつ弁当を調べていたことを憶えています。高等科に進んでから終戦までの1年半くらいは戦局が悪化し、学校へ行っても松根油を採ったり、山で炭を焼いたり、農作物を植えるために山越集落や浅地集落の土地を開墾したりしていたため、教科書を開いて勉強する時間はほとんどありませんでした。当時は肥料も不足していたため、学校から山越集落の開墾地へサツマイモを植えに行ったときには、紐(ひも)の付いた木桶(きおけ)に下肥を入れ、2人一組になって木桶を担いで行ったことを憶えています。」
 「戦時中は米の供出の割り当てがあり、供出後は手元に米がほとんど残っていなかったため、家では麦が多く混じった御飯を食べていました。私(Dさん)の家では米以外に麦、サツマイモを作っていて、小さなサツマイモを掘り、焼き芋にして食べるのがうれしかったことを憶えています。食糧がない時期だったので、国民学校(下朝倉国民学校)の高1、高2(高等科1、2年)の先輩に付いて行って山を開墾し、サツマイモを植えたこともありました。また、集落の小さな道のへら(脇)に畝を作って大豆を作ったり、国民学校4、5年生のころには、先生の指示を受けて、河原を開墾してカボチャを植えたりしたこともありました。」

 イ 空襲と防空壕

 「私(Cさん)が国民学校(下朝倉国民学校)1、2年生のころは、出征する兵隊さんを毎日のように見送っていました。兵隊さんたちは学校の正門前で挨拶し、見送りに来た多くの人が小旗を振る中を出征していきました。まだ戦局が悪化していなかったころは伊予桜井駅まで兵隊さんを見送っていたことを憶えています。戦争が激しさを増し、都市部が頻繁に空襲に遭うようになると、大阪から児童が下朝へ集団疎開してきました。児童は満願寺を宿舎として国民学校へ通学していました。
 松山の方から来た100機くらいのグラマン戦闘機が朝倉の上空を飛行したことがあり、そのときは空が黒く見えてとても恐ろしかったことを憶えています。松山空襲のときには西の空が真っ赤に染まっているのが見えましたし、今治空襲のときには自宅のすぐ裏が焼けたかのように空が真っ赤に染まっていました。今治空襲の日の夜中ごろから、親戚を頼って着の身着のままで今治から朝倉まで歩いて逃げてきた人がいました。国民学校2、3年生のころは、学校へ行っても空襲警報や警戒警報のサイレンが鳴るとすぐに家に帰らなければなりませんでした。近所の5、6軒が共同で防空壕(ごう)を掘っていて、学校から帰ると大急ぎで防空壕に入っていたことを憶えています。近くに山がある場所では横穴を掘って防空壕を造っていたそうですが、近所では田んぼのつま(端)の方に防空壕を掘っていました。当時は武器の生産に必要な金属資源の不足を補うため、古い鉄製の鍋や釜から樋(とい)に至るまで強制的に供出していました。また、働き盛りの人たちが戦地に行き、女性や子ども、お年寄りばかりが残されて、今考えると本当にひどい時代でした。戦争を経験していない人たちは幸せだと思います。」
 「笠松山の方から降下してきた敵機を見たときには、とても怖かったことを憶えています。水之上集落内にはいくつも防空壕があり、地区ごとにどの防空壕に入るか決まっていました。敵機来襲を告げる空襲警報が出ると、私(Aさん)は幼い弟を背負って防空壕に逃げ込みましたが、慌てていたため下駄の片方だけを履いていたことがありました。今治空襲のときは水之上集落からも、まるで打ち上げ花火を見ているようによく見えました。そのころは灯火管制といって、明かりを家の外に漏らさない決まりになっていました。明かりが見えて、敵が空襲するときの目標にならないようにしたのです。私の家ではラジオから光が漏れないように、黒い布でラジオを覆って放送を聴いていたことを憶えています。」

 ウ 通学の苦労

 「昭和21、22年(1946、47年)に、私(Aさん)は今治明徳高等女学校(現今治明徳高等学校)に進学しました。入学したとき、校舎はまだ空襲による焼け跡の状態でした。当時は深刻な物不足で家には自転車もありませんでした。毎朝、暗い時分に家を出て、自宅のあった水之上集落から徒歩で伊予桜井駅まで行き、そこから今治駅まで汽車通学をしていました。そのころは雪がよく降り、帰宅途中で下駄の鼻緒が切れ、素足で泣きながら歩いていると、父が迎えに来てくれたことを今でもよく憶えています。その後、ようやく手に入れた自転車は不要になった自転車を溶接してつくったもので、タイヤはホースを継いだ代用品でした。そのころの道路は凸凹道だったので、自転車に乗っているとホースの継ぎ目が地面に当たるときに、『バッタン、バッタン』と音がしていたことを憶えています。」

(2) 朝倉のくらし

 ア 行商の思い出

 「私(Aさん)がこちら(浅地集落)に嫁いできてからの話ですが、年末になると義父が近くの山へ行って焚き物を採り、それを荷車一杯に積んで桜井まで行商に行っていました。そのころは桜井の浜の人たちが焚き物を結構買ってくれていました。朝倉から桜井へ行く途中には石打峠があり、当時は路面が舗装されていない凸凹道でした。私は石打峠の上り坂に差し掛かる所から頂上まで荷車を後ろから押し上げるのを手伝い、それから家に引き返していたことを憶えています。焚き物のほかには、近くの山で採ったシキビも桜井へ行商に行っていました。日中に仕事をした後、夜になってから火の気のない土間で、義父が俵を編むのを手伝うこともあり、当時は大変な重労働でした。また、そのころは女性がいろいろな商品を荷車に積んだり、イリコを背負ったりして行商に来ていました。」

 イ 亥の子

 「亥の子は、子どもたちが集落の家を回り、家の前で亥の子石をつく行事です。もともと旧暦10月の亥の日に行われていましたが、今は土曜日か日曜日に行われているようです。私(Cさん)が子どものころは大将が下級生の面倒を見るのが当たり前でした。今の中学2年生に当たる高2(国民学校高等科2年)が大将で、大将の1学年下がチュウダイ、2学年下がゲダイと呼ばれて、大将の見習いをしていました。亥の子のときには、その年に男の子が生まれた家を宿として大将、チュウダイ、ゲダイが1泊し、夕飯を御馳走(ちそう)になっていました。私も長男が生まれた年は、大将たちを宿泊させて夕飯を御馳走したことを憶えています。亥の子石をついてもらった家からは御祝儀のお金をいただきましたが、子どもにとっては大金でした。いただいた御祝儀のお金で大将とチュウダイくらいが食べ物を買いに行き、夜になるとそれを自分たちで食べたり、下級生たちに配ったりしていました。残ったものは亥の子さんのお下がりとして、御祝儀をいただいた家に配って回っていました。
 亥の子はもともと男子だけの行事でしたが、今は子どもの数が減っているので女子も参加して行っています。また、以前は亥の子に参加する子どもの親が、亥の子石を引っ張る縄をなっていました。私が子どものころは、父が縄をなって赤い房を付けてくれましたし、私も長男が亥の子石をついたときは縄をなったものでしたが、今は前に使われていた縄をそのまま使っているようです。」

 ウ マンド小屋の思い出

 「私(Cさん)が子どものころ、夏休みになるとどの集落でも田んぼの畔道にマンド小屋が建てられていました。稲木を4本立ててからある程度の高さの所に床を作り、夜露をしのぐための屋根も設け、床へは梯子(はしご)で上がっていました。大将、チュウダイ、ゲダイが中心となり、子どもたちだけでマンド小屋を建てていたことを憶えています。夏休みの初めから終わりころまで、小学2、3年生以上の子どもたちが家から布団を持参し、マンド小屋で寝泊まりしていました。それでも、大将が下級生の面倒を見ていたので、どの家の親も子どもを心配して様子を見に来ることはありませんでした。私の家の隣には長さが20m、幅が6、7mくらいの泉掘りがあり、夏休みには近所の子どもたちがよく泳いでいました。そこでも大将は下級生に泳ぎ方を教えていて、泳いだ後は、私の家で将棋などをして遊んだものでした。」

 エ お祭りのにぎわい

 「昔は水之上集落でもいろいろな行事がにぎやかに行われていました。飯成神社は水之上集落の氏神さんで、春のお祭りのときには大人の神輿(みこし)に子ども神輿も出て、とてもにぎわっていたことを私(Aさん)は憶えています。また、お盆のときには無量寺で盆踊りが行われ、大勢の人が集まっていて、私も結婚するまでは参加していました。」
 「矢矧(やはぎ)神社では春と秋にお祭りが行われます。お祭りには神輿が出て、宮出しのときはとてもにぎやかだったことを憶えています。春の例大祭には大人と子どもの両方の神輿が出ますが、秋のお祭りには子ども神輿だけが出ます。子ども神輿は集落の家を1軒ずつ回り、神輿を迎えた家では御祝儀を大将に渡し、大将は分け前をほかの子どもたちに配っています。
 また、春の例大祭では神社の境内で獅子舞(ししまい)とニワカ芝居(いずれも県指定無形民俗文化財)が奉納されます。ニワカ芝居は掛け合いによる寸劇のようなもので、地元の青年たちが衣装を借りて演じています。ニワカ芝居には、時代物(歌舞伎名場面の物まねを主体としたもの)と現代物(世情風刺を主体としたもの)のさまざまな演目があり、私(Cさん)も青年のころは演じていました。そのときは大勢の見物客が境内に集まり、とてもにぎわっていたことを憶えています。」

 オ 村の行事

 「昔は夏の土用中に、太之原集落の氏神さんである伏原八幡大神社で土用祈禱(きとう)が行われていました。私(Bさん)が国民学校2、3年生のころ、土用祈禱のときには米の握り飯の弁当が出ていました。当時、米は正月かお祭り以外で食べることがないほど貴重だったので、氏神さんに立ち寄って弁当をもらっていたことを憶えています。昔は青年団が主体となって集落の行事を運営していました。私が青年団で活動していたころは、土用祈禱のときには一定の年齢以上の方を神社に案内し、お握りを握ったり、キュウリと豆腐を酒の肴(さかな)にして接待したりしていました。今は青年団もなくなったため、土用祈禱は敬老会の運営する行事となっています。」
 「私(Aさん)たちの集落(浅地集落)では、昔はマンドや亥の子といった行事が行われていましたが、今は子どもも少なくなったため行われていません。昔から続いていたさまざまな行事がなくなる中、浅地集落では5年くらい前からとんどさんを始めました。以前は注連(しめ)縄などの正月飾りのおはやし(正月飾りやお守り札などを燃やすこと)を、個人が小川の側(そば)で行っていましたが、1月の第2日曜日に岩戸神社の氏子が集まって竹や藁で櫓(やぐら)を組み、正月飾りやお札、お守りを持ち寄っておはやしを行うようになりました(写真2-1-10参照)。来年度(令和4年度〔2022年度〕)はおはやしの前に、宮司さんが神事を執り行うという話が進んでいます。」

参考文献
・ 愛媛県『グラフえひめ 53号』1972
・ 朝倉村『朝倉村勢要覧 1977年版』1977
・ 愛媛農林統計協会『愛媛県市町村別統計要覧』1977,1993,2002
・ 朝倉村『朝倉村誌(上巻、下巻)』1986
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』1986
・ 下朝小学校創立100周年事業委員会『下朝小学校百年史』1990
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
                     『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 朝倉村『朝倉村誌 続編』2004
・ 今治明徳高等学校矢田分校平和学習実行委員会『米軍資料から読み解く愛媛の空襲』2005


写真2-1-10 岩戸神社

写真2-1-10 岩戸神社

令和3年12月撮影