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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 朝日町から梅田町界隈

 ア 朝日町

 (ア) 江戸時代から続く町

 「江戸時代、桜井は天領でした。横田綿練工場の所に役所と米蔵があり、その米蔵に集積した御用米が朝日町を通って船で積み出されていた、と私(Fさん)は聞いています(図表1-2-2の㋐参照)。横田さんの家には『御用』と書かれた鬼瓦があったそうです。小学生のとき、私の家の前の道は御用米を載せた大八車が通る道だったため、他の道より道幅が広くなっている、と先生が話していたのを憶えています。また、桜井は太平洋戦争で被害を受けなかったため、古い町並みが残っていました。私の家には連子窓がありますが、町のあちこちの家にもありました(写真1-2-1参照)。多くは建て替え等でなくなってしまいましたが、今でも随所に残っています。」

 (イ) 綿練工場

 「いつから始めたのかは、私(Iさん)は憶えていませんが、元役所と米蔵の所は、横田綿練工場として福助の足袋の下生地を織っていました。仕事で中に入ると、全然音が聞こえないくらい大きな織機の音がしていました。その織機の音の中でも、作業されていた御夫婦は話すことができていました。工場は20年前くらい前に廃業したように思います。」

 (ウ) 水撒き

 「私(Jさん)が子どものころ、朝日町の道路はアスファルト舗装がされていなかったので、夏には井戸からバケツに水を汲(く)み、水を撒(ま)いていました。夕方の道路への水撒きは子どもの仕事で、当時は子どもがたくさんいたので、大人の方が子どもたちに水を撒く曜日を割り振っていました。朝田屋さんや金光教教会、戸倉屋さんの前など何か所も井戸がありましたが、残念ながらそれらの井戸のほとんどは残っていません。水撒きが終わると、家の前に縁台を出して家族みんなで夕涼みをしていました。」

 (エ) お茶の接待

 「桜井ではどこのお店でも、店先でお茶を出せるようにするという風習がありました。さすがに夏の盛りはしていませんが、9月の終わりくらいになると火鉢に炭を入れていました。火鉢の上の鉄瓶に絶えず湯が沸いていて、お客さんが来たらすぐにお茶を出し、話をしていました。私(Fさん)の家でも、いつも誰かが来て話をしていました。昭和20年代、30年代は、今と比べると経済的にはそれほど豊かな生活ではなかったかもしれませんが、非常に心にゆとりがある、今から考えるとうらやましい時代だったように思います。」

 (オ) 酒屋さん

 「私(Jさん)が20代、30代のころは、この辺りには一杯飲み屋さんのようなお店がなかったため、酒屋さんで仕事帰りの人が一杯やるという感じでした。この辺りでは、漁師さんや造船所に勤務していた方など、いわゆる力仕事をされていた方が、帰宅前に作業着のままで酒屋さんに入って一杯やっていました。そういう方々が常連さんだったので、若者がその中に入って、『おばちゃん、一杯。』と言えるような雰囲気ではありませんでした。朝日町の栄屋や栄町の正岡商店、梅田町の青野酒店、長井酒店などがありましたが、それらの酒屋さんもほとんどなくなってしまいました。」

 (カ) はやったお店

 「菅安マートというお店を私(Eさん)は憶えています(図表1-2-2の㋑参照)。朝日町の浜の方、石材店斜め向かいくらいにありました。もともとは八百屋さんで、野菜や魚なども売っていたのですが、一時期少し規模を大きくして、プロパンガスを扱うなど手広くやっていました。」

 イ バス通り

 「郵便局の近くにあったのが松見屋食堂で、私(Fさん)の店の醬油(しょうゆ)を5升(約9ℓ)樽でしょっちゅう配達していました(図表1-2-2の㋒、㋓)。ラーメンなども出していましたが、おでんがとてもおいしかったのを憶えています。こだわりの黒いつゆは、ずっとつゆを継ぎ足しながら作ってきたものだと言われていました。志島ヶ原の海水浴客もよく来ていましたが、平成に入ってからお店をやめたようです。」
 「神社(綱敷天満宮)の近くにあるお菓子屋さんが清光堂さんです(図表1-2-2の㋔参照)。当時は、しその入った餡(あん)の『椀舟最中(もなか)』がおいしいので有名で、私(Eさん)もよく買っていました。清光堂さんでは、赤飯を炊いたり、お餅をついたりしてくれました。法事のときには、お餅を頼んでいましたし、神社のお祭りの餅撒きで使うお餅もそこでついていました。神社の前にお店があったので、梅林の季節などにお客さんが来るのです。帰り道に立ち寄る人が結構いて、神社の恩恵を受けていたと思います。今は旧国道沿いに移っています。」
 「清光堂から数軒行った所に長井さんのたばこ屋さんがあり、おばあさんが、シャンプーや石けんなどを売っていました(図表1-2-2の㋕参照)。そこに寄ってはシャンプーを買っていたのを憶えています。後に、バス通りから裏手の本性寺の通りにあった八百屋さんが、その周辺の土地を買って昭和の終わりに大きなスーパーマーケットを開店しましたが、平成の終わりころには、すでに閉店していたと思います。当時、家には風呂がなかったので、私(Kさん)は妹と二人で自転車に乗って、松葉湯という銭湯に行っていました(図表1-2-2の㋖参照)。土曜日には『8時だよ全員集合』というテレビ番組を見るために、早く銭湯に行っていました。また、母と一緒に行ったとき、銭湯に行く途中で九九を言いながら歩いていたこともありました。松葉湯は平成10年(1998年)ころに廃業したと思います。」
 「私(Iさん)が小学生ころの昭和30年代前半くらいでしょうか。理容店の向かい側辺りに男の人が一人でやっている焼き芋屋さんがありました(図表1-2-2の㋗参照)。直径50cm、高さが1m強くらいの素焼きの壺(つぼ)を使い、コークスで焼いていました。ちょっと焦げ目がついてトロトロになるような焼き芋でそれがおいしかったです。針金で引っ掛けて吊(つ)って焼いていたのでじっくり焼けたからだと思います。」
 「私(Eさん)の家の周辺の、朝日町から梅田町の間やバス通り界隈(かいわい)には、漆器店がたくさんありました(図表1-2-2参照)。それらは販売店で、それぞれのお店に職人がいました。」

 ウ 栄町と梅田町
 (ア) 通りのお店

 「私(Iさん)は、梅田町と朝日町の間の栄町の町並みを憶えています。浜に近い方に鉱泉湯という銭湯がありました(図表1-2-2の㋘、写真1-2-3参照)。その上手(かみて)の向かい側に山口醬油店、もう一つ上手に履物店があり、その近くには正岡商店がありました(図表1-2-2の㋙、㋚、㋛参照)。上に行くと精肉店や米穀店、醬油店など、たくさんのお店がありました。そのほかにも漆器店が何軒かありましたが、今はほとんどのお店が残っていません。」
 「私(Hさん)の長谷部洋品店の前は、梅田町とバス通りの交差点でこの辺りを『梅田銀座』と呼ぶ人がいるくらい、全てのお家が商売をしているという感じでした(図表1-2-2の㋜)。
 旧国道196号線(現県道38号今治波方港線)との交差点の、現在伊予銀行がある場所には市の桜井支所があり、その斜め向かいに農協があり、農協から少し下手の向かい側に洋品店がありました(図表1-2-2の㋝、㋞、㋟参照)。その下手が履物店で、もう一つ下手に青野酒店があります(図表1-2-2の㋠、㋡参照)。父に、『瓶を持って1合買って来い。』と言われ、お酒を買いに行ったことを憶えています。お酢などもそうして買っていました。青野酒店の御主人はカメラが好きで、私が小さいときの写真はそこの御主人が写してくれたものです。写真店でもないのに焼き増しをお願いしたこともあります。
 青野酒店の斜め向かいが田村文具店です(図表1-2-2の㋢参照)。田村文具店には、駄菓子や本も置いていて、10円で飴(あめ)を2個買ったり、『りぼん』などの雑誌も買いに行ったりしていました。
 梅田町とバス通りの交差点から今治方面に行くと、まず写真店と自転車店があり、その隣にあった月原食料品店では下駄なども扱っていました(図表1-2-2の㋣参照)。その斜め向かいが新見マートで、その隣が伊予銀行でした(図表1-2-2の㋤、㋥参照)。伊予銀行の移転後、新見マートが跡地を買い、店を大きくしました。その向こうが衣料品店でした。長谷部洋品店の角から浜の方の梅田町にも、名前を挙げると切りがないほどお店がたくさんありましたが、今は、ほとんど残っていません。」

 (イ) 交通の要所

 「私(Hさん)の店(長谷部洋品店)の前に今治方面行のバス停があり、向かいの家の方がバスの切符やたばこを売っていました。この辺りの人たちはみんな、そのバス停からバスに乗ってお勤めに出ていたので、毎日のように誰かがバスの切符を買っていました。車内は大変混雑した状態で、バスが出発するとき、車掌さんが乗降口から乗客が落ちないように、後ろから押さえていました。
 うちの店の奥(国道寄り)に新聞販売店があり、朝、うちの店先にトラックが来て新聞を落とし、それを販売店のおじいさんが受け取って配達していました。結婚してすぐのころに里帰りしたとき、朝、新聞を落とす音や自動車の音がうるさかったのを憶えています。七夕のとき、出店の人がうちの店の前で笹を売っていたので、みんなが買いに来ていました。うちの店の前の交差点より南側は道幅が広いので、そのようなことが自然と行われていたのだと思います。しかし、交差点より北側は道が狭いので、ボンネットバスの時代は、車掌さんがバスから降りて、ピッピッピーと笛を鳴らして車を離合させていました。」

 エ 志島ヶ原

 「終戦ころは焚(た)き物がなく、志島ヶ原では、各家庭が熊手を持ち、場所を争うように松葉や枯れ枝を採っていたことを私(Aさん)は憶えています。そこにお年寄りの管理者がいて、よく怒られていました。おそらく不公平にならないように管理していたのだと思います。」
 「昔は、志島ヶ原で採った松葉でお風呂を沸かしたり、御飯も炊いたりしていました。松葉を集めてくるのが子どもの仕事で、台風の後などに行くと、足で線を引き、『ここから入ったらいかん。』などと言って、場所の取り合いになっていました。松葉はよく燃えるのでそれだけで風呂を沸かすことができ、むしろ釜を傷めることがあるほどでした。少し風が吹いて落ち葉があると、みんなが競ってすぐに松葉を掃き集めていたので、志島ヶ原はとてもきれいでした。
 昭和35年(1960年)ころからガスなどが普及し、松葉や枯れ枝が必要なくなったからでしょうか、志島ヶ原がきれいではなくなりました。私(Iさん)は就職して一旦桜井を離れていて、昭和45年(1970年)ころに帰ってきたときには松葉や枯れ枝が随分落ちていて、驚いたものです。業者に掃除を頼んだりもしましたが、年に2回くらい何人かで行うくらいでは追い付きません。平成の初めころから私たちもボランティアで清掃するようになり、きれいになっていきました。ただ、メンバーの新陳代謝があまりなく、現在の役員も年を取ってきているので、これからのことが心配です。」

 オ 狭い路地

 「私(Iさん)は大工をしていたので、道路と家の敷地の関係について目が行きます。桜井の町中の家は、間口が狭く奥長で、隣の家との境界線が入り組んでいます。また、細い路地が何筋もあるため、他の地域の人からは、『桜井の町に入り込んだら出られない。』と言われます。しかし、私に言わせれば、今治の漁師町に行けばもっと狭いと思いますし、島の漁師町などは人が通れるくらいの道幅しかありません。大工作業をするにしても車が入らない所ばかりです。それに比べれば桜井の町の道路は車1台が通れるので、まだましだと思います。また、当時、朝日町の通りのような広い道は少なかったように思います。」

(2) 各商店の様子


 ア 朝田屋醬油店

 (ア) 朝田屋の来歴

 「桜井には私(Fさん)のところを含めて醬油店が3軒ありました(図表1-2-2の㋦参照)。栄町にあった山口屋醬油店が一番古い醬油店だと思います。そこからバス通りの手前まで進んだ所には笠原醬油店もありました。そのお店は御主人が亡くなってすぐにやめたので、うちより早くやめたくらいです。
 私の家が醬油店を始めたのは、明治の終わりか大正の初めで、大伯父が醬油店を始めたそうです。ところが大伯父は、4人の子どもの教育のためにと、大正の中ごろに東京へ行って予備校の講師になりました。父は、大伯父が東京に行くとき、『わしは醬油から手を引くけん、お前が中心になってここをやれ。』と言われ、醬油店を始めたそうです。創業当時の古い資料などは、大伯父が東京へ行った時点でなくなってしまい、帳簿類は残っていませんが、醬油を作る大きな樽は、酒屋さんの中古品を30本買ったものが残っています。ただ、大伯父は、30本の樽を全て使って醬油のもろ味作りをしようという夢をもっていたようですが、実際には、10本から15本しか使っておらず、それ以外の樽は、私が物心がついてから最後まで使うことはありませんでした。常時雇っている従業員は1人で、年に2回、5月と11月に醬油を醸造するときには、2、3人の男性を2週間くらい雇っていました。規模の小さな醬油店でしたが、父は醬油を配達することなく安気に暮らしていました。いろいろな人が絶えず父を訪ねて来たので、茶飲み話をしていました。」

 (イ) 配達

 「富田や桜井一円にも醬油の配達に行っていました。当時、自動車は簡単に手に入る時代ではありませんでした。配達も自転車で、大口の注文を受けたときにはリヤカーで配達していたのを憶えています。私(Fさん)が大学に入った昭和38年(1963年)ころは、スーパーカブで配達していました。自動車の免許を取ったのが昭和45年(1970年)くらいですから、そのころから自動車で配達するようになりました。配達するときの容器は、子どものころからすでに1升瓶でしたが、陶器の容器も昭和50年(1975年)ころまでは使っていました(写真1-2-6参照)。料理屋さんなどの大口には木製の樽を使っていました。」

 (ウ) 醬油店を継いで

 「私(Fさん)が大学に進学するとき、自宅から通学できる大学で、将来は家業を継ぐからという理由で、昭和38年(1963年)4月に松山商科大学(現松山大学)に入学しました。通学は大変で、当時は国鉄(日本国有鉄道、現JR)で2時間かけて松山駅まで行き、そこから伊予鉄城北線の電車に乗り換えて通学していました。ところが、大学2年生のときに父が病気で亡くなり、私が大学に在学したまま店を継ぐことになりました。2学年上の先輩から、『お前は地元に残らなければならないから、地元にいてもできる公認会計士の試験を受けてはどうか。』と言われ、公認会計士を目指すことにしました。私は法律の知識にあまり自信がなく、税理士ならば合格するだろうと思い、在学中は公認会計士の試験を受験しながら、税理士の試験勉強もしていました。昭和42年(1967年)3月に大学を卒業し、25歳のときに税理士試験に合格し、税理士会に入りました。
 中学生のころから醬油製造のいろいろな作業をよく手伝っていたので、感覚はだいぶ薄れてきましたが、今でも醬油を作ることができます。麦を煎り、大豆を蒸し、それに麴(こうじ)菌を振りかけて麴を作ります。それを大きな桶(おけ)に入れ、そこへ水や塩などを入れていきます。今はベルトコンベアーで運んだり、液体だとポンプで運んだりしていますが、当時は全て人力で運んでいました。毎日ではありませんでしたが、学校から帰ると醬油のもろ味を桶に入れて運び、それを袋に入れ、圧搾機にかけて醬油を搾るという仕事をしていました。私は醬油作りの一通りの作業を経験していたので、高校生のころには醬油作りにある程度自信を持っていました。もろ味を作るのは年2回でしたが、もろ味を袋に入れて搾るのは、年間を通して2週間に1回くらいでした。」

 (エ) 醬油製造の衰退

 「私(Fさん)が中学生から高校生のときは、日本の食生活の中で、醬油は必要不可欠なものなので、醬油が売れなくなって醬油店が衰退するとは夢にも思いませんでした。昭和45年(1970年)ころから時代とともに大手のメーカーが伸びてきて、うちの店のような中小の醬油店は衰退していったのです。私は昭和39年(1964年)から亡くなった父に代わって今治醬油組合に入りました。そのころ、醬油組合の会合が年に4回くらいありました。会合は今治の大きな醬油店の事務所で開かれ、島嶼(とうしょ)部も含めて全部で30人くらいが集まっていたと思います。そのころは景気が良く、会合に行くと必ず幕の内弁当とビールが付いていました。醬油組合自体にもそれだけお金があったのだと思います。私が50歳のときだったので25年前だと思いますが、醬油組合の総会には5、6人しか出席しておらず、それが全組合員だということでした。以前は30人くらいいたのが5、6人にまで減ってしまっていたのです。」

 (オ) 醸造の中止、廃業

 「現在、多くの醬油店では、もろ味を作る醸造を行わず、工場で製造された生醬油をタンクローリーで購入し、自分の店で味付けをして販売しています。私(Fさん)の店でも、25歳のとき、母から言われて醸造をやめ、10年くらい購入した生醬油に味付けをして販売していました。そのころ、お店をやめようと思い、『お店をやめるので、ほかのお店で醬油を買ってください。』とお得意先を回りました。すると1週間くらいして、あるお得意先の料理屋さんから、『あなたの店の味に近い醬油屋さんを探してください。』と言われました。別の醬油店の醬油を使って料理を出すと、お客さんに『料理の味が違う。』と苦情を言われた、ということでした。『昔ながらの、麴から作る醬油店の醬油ならばいいだろう』と思い、そのお店の醬油を持って行くと『この醬油なら使うわ。』と言ってくれました。以来、その醬油店から醬油を買い、料理屋さんに販売していましたが、昨年(令和2年〔2020年〕)税務署へ醬油店の廃業届を提出しました。」

 イ 清光堂菓子店

 (ア) 父の修業と起業

 「清光堂は、私(Kさん)の父が昭和30年(1955年)に桜井で始めました。中学を卒業後、父も入れて3人が近所の菓子店に行き、『お店で雇ってほしい。』とお願いすると、父だけが雇ってもらえたそうです。しかし、戦後の物不足の時代で砂糖などの材料がなかったので、1年くらい下仕事をしながら過ごし、その後、いろいろなお店で修業をしていたそうです。修業時代の様子はあまり聞いたことはありませんが、手取り足取りという教え方ではなく、見て覚えるという、昔ながらの職人の教え方だったようです。
父は桜井の出身ではありませんでしたが、綱敷天満宮の近くでお店を始めました。東予国民休暇村などに卸したり、小売りをしたり、古天神や綱敷天満宮から注文を受けてお餅をついたりしていました。」

 (イ) 家業を継ぐ

 「父が70歳前くらいになった平成14年(2002年)に店を閉めようかという話になり、『それなら店を継ごうか』と思い、帰ってきました。それまで私(Kさん)はアメリカ人と結婚してグアムに住んでいましたが、日本に帰ってきたからにはグアムに舞い戻るようなことはしたくなかったので、石にかじりついてでも頑張ろうと思いました。夫は環境も文化も全て違うため、『こんなはずではなかった』と思ったことでしょうが、よく頑張りました。」

 (ウ) 菓子作りの修業

 「父の教え方は『これくらい、あれくらい、そんなあんばいで』と言う教え方でした。小豆1升に砂糖がそれの何割で、などと料理番組のような分量の説明はなかったので、私(Kさん)はその都度『ちょっと待って。』と言って、分量を量っていました。父は手で憶えていますから、あまり量りませんが、私たちはそうはいきません。煮え具合なども『こんな具合』と言われましたが、1回ではわかりませんでした。工程のやり方も違っていました。オーブンも昔のもので、現在のコンピュータ制御のオーブンではなかったので、誰が焼いてもある程度きれいに焼けるというようなものではありませんでした。そのため、レバーで温度を調節して適当な火加減にするのですが、それが難しかったのです。今のように携帯で画像や動画を撮影するということもできませんでしたし、仮にそのようなことをすると、かえって叱られる雰囲気もありました。丁寧には教えてくれませんでしたが、失敗したときは的確に原因を言い当ててくれたので、大変頼りになりました。
 身内なので昔ながらの修業ではありませんでしたが、海外から来た人が、日本での修業に慣れるのは大変でした。アメリカでは、こうすればこうなって、このようにすると失敗する、というように、理詰めで学んでいきます。ところが、日本の修業というのは、商品を作るまでに洗い物を何年などと経験を積み、その間にずっと観察してやり方を身に付けるという感じです。夫は、材料を無駄にした、やり方が悪いということで、父からよく怒られていました。そのときは、夫は納得がいかなかったと思いますし、大変だったと思います。」

 (エ) 新しいお菓子

 「綱敷天満宮の前の通りは、商店もほとんど残っておらず、商売しにくいので、10年ほど前に移転し、さらに3年前に現在の場所に移転しました。父のときは『椀舟最中』という和菓子を主力商品にしていましたが、現在は『一福百果』という、愛媛県産の果実を使った和菓子を主力商品にしています(写真1-2-8参照)。果実は、契約農家から厳選された材料を仕入れ、小豆も北海道の契約農家から仕入れています。そのため、上品でとてもおいしいお菓子を作ることができていると私(Kさん)は自負しています。」

 ウ 長谷部洋品店

 (ア) 洋品店の始まり

 「私(Hさん)の店は両親の代に始めました。店を始めたのは、昭和19、20年(1944、45年)ころと聞いています。父は絵描きと言って、今で言うデザイナーのような仕事をしていて、母は洋裁ができるので、近所の人に洋裁を教えたり、頼まれて服を縫ってあげたりしていました。両親は桜井で生まれ育ったのではなく、他の地区から移ってきて、現在の家の上手(かみて)に古い家を買ったようです。家には洋裁をする大きな台があり、その横で母がミシンで洋服などを縫っていたような記憶があります。そのうち、ボタンや裏地などの商品を扱うようになり、だんだん洋品店に替わっていきました。私が小学2年生のときだったと思いますが、それまでの店が手狭になったため、新しく店を建てました。サッシなどは取り替えましたが、現在の店舗もそのときの建物です。」

 (イ) 中学校の鉢巻き

 「今は中学校の運動会の鉢巻きやゼッケンなどは既製品ですが、私(Hさん)たちが中学生のころは、全て家のミシンで縫っていました(写真1-2-9参照)。鉢巻きやゼッケンを作ってもらおうと、近所の人の行列ができるほどでした。町内には洋品店が3、4軒ありましたが、当時は子どもがたくさんいたので、注文はいくらでもあり、寝ずに鉢巻きを縫っていました。私も手伝っていましたが、あまり苦にはならず、結婚後も手伝いに来ていました。」

 (ウ) 手作りの服の時代

 「店には毛糸も置いていて、編み物をするお客さんがよく買いに来ていたことを憶えています。私(Hさん)が小学校に入学したときは私服だったので、毎日母親が縫った手作りの服を着て通学していました。そのころはどの家でも、子どもたちの服は、親が自分で縫ったり、洋品店で作ってもらったりしていたと思います。昭和40年代ころから既製品の時代になっていきました。」

 (エ) お店がにぎわっていたころ

 「昭和40年代から50年代ころだったでしょうか、私(Hさん)の店では海水浴客のために浮き輪なども売っていて、浮き輪に穴が開いていないか膨らませて確認していました。土日はすごい人出で、海水浴客が桜井の駅から連なっていたそうです。他にもゴム草履や海水パンツなどが飛ぶように売れていました。志島ヶ原の海岸部の飲食店から、『浮き輪などの商品を置かせてほしい。』と言われた時代もありました。普通の服や下着は、尾道(おのみち)(広島県)の方の問屋さんが大きな段ボール箱に入れて送ってきました。メーカーごとに問屋さんが何軒もあり、それぞれが大きな段ボール箱で商品を送ってきましたが、それがよく売れるので、次々と送ってもらっていました。」

 (オ) たばこの販売

 「今、国内のお店で売られている洋服は、中国や東南アジアの国々で製造されたものばかりです。価格の安い外国製の衣服がこれだけ流通していると、価格では太刀打ちできません。大型店ができて、尾道に多くあった問屋さんも今は全て閉めてしまい、仕入れるお店がなくなってしまいました。
 私(Hさん)の店では、幸いたばこがそこそこ売れているので、細々とたばこの販売をしています。私の家の向かいのお店で、かつてバスの切符やたばこなどを売っていました。そのお店がやめるときに、たばこの販売権を譲り受けました。今のことは分かりませんが、昔はたばこの販売店は何m以上離れていなければならないという規則などがあり、販売権を得るのは難しかったようです。以前、2週間ほど入院していたことがあり、退院後、近くのたばこ屋さんに『うちが店を閉めていたから、お客さんが増えたでしょう。』と言うと、『増えていませんよ。』と言うのです。今はたばこ屋さんが閉まっていると、コンビニで買っている人が多いようです。
 一時は景気の良い時代もありましたが、大型店ができたことが地元の商店で商品が売れなくなった始まりだと思います。昔ながらの陳列棚や店の飾りが珍しいのか、古いものが好きな方から『そろばんを分けてほしい。』とか『店を閉めるときに福助の人形を頂戴ね。』などと言われることがあり、現役で使っているレトロな陳列棚も譲る約束をしています(写真1-2-10参照)。」

写真1-2-1 連子窓の町並み

写真1-2-1 連子窓の町並み

令和3年7月撮影

図表1-2-2 昭和40年代ころの桜井の町並み

図表1-2-2 昭和40年代ころの桜井の町並み

地域の方々からの聞き取りにより作成 民家及び本報告書に取り上げていない店舗は表示していない。

写真1-2-3 鉱泉湯

写真1-2-3 鉱泉湯

令和3年7月撮影

写真1-2-6 陶器の醬油容器

写真1-2-6 陶器の醬油容器

令和3年7月撮影

写真1-2-8 椀舟最中

写真1-2-8 椀舟最中

令和3年12月撮影

写真1-2-9 創業当時からのミシン

写真1-2-9 創業当時からのミシン

令和3年11月撮影

写真1-2-10 福助人形と古いそろばん

写真1-2-10 福助人形と古いそろばん

令和3年11月撮影