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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1) 鹿野川地区の繁栄

 ア 鹿野川ダム工事で潤う

 「今考えると嘘(うそ)みたいですが、商店街にはいろいろなものを売る店があり、何を買うにしてもこの地区でほとんどのものがそろいました。私(Dさん)が小学校に入るころに鹿野川ダムの工事が始まり、小学6年生くらいのころにダムが完成しました。その当時は、工事事務所の所長や工事関係の多くの人たちが家族で来ており、現在の大洲市役所肱川支所の所に、その方たちの住宅がありました。10軒以上の幹部の人の住宅があったと思います。そのため、ダム工事の関係者の子どもたちが同級生にたくさんいました。私の父によれば、私の家の呉服店には所長さんの奥さんがほとんど毎日のように、来てくれていました。そしてダム工事の関係者の方々にたくさん買ってもらっていたそうです。鹿野川ダムの工事で前後10年くらいはこの町の商店街が潤ったというのは間違いないと思います。」
 「昭和30年(1955年)ころには、現在の肱川支所の前の道路はありませんでした。その後、鹿野川ダムの工事事務所ができて、官舎が作られていきました。それ以前はもともと畑だったことを私(Cさん)は憶えています。
 ダム工事が行われていたころは、商売をしている人は何をやっても、こんなに儲(もう)かって良いのだろうかというくらい儲かっていたそうです。現在とは違い、交通の便が良くなかったので、作業員の方も建設省(現国土交通省)の職員もみんなここで生活していました。今は旧肱川町の人口も2,000人くらいですが、当時は8,000人もいたそうです。
 私の家でも中学・高校時代にはダム工事の作業員のための貸布団屋をしていました。作業員の方がたくさん来るので儲かっていたそうで、家に布団が一杯積んであったのを憶えています。金融機関も伊予銀行、愛媛相互銀行(平成元年〔1989年〕に愛媛銀行と商号変更)、八幡浜信用金庫(昭和47年〔1972年〕に愛媛信用金庫と合併)、それから農協があって、郵便局がありました。今考えてみると、この小さい町にそれほど必要なかったような気がします。今では考えられませんが、バスも、国鉄バス、宇和島バス、伊予鉄バスと三つのバス会社が運行していました。」

 イ 商店街のにぎわい

 (ア) 何でもそろった商店街

 「昭和40年(1965年)ころには銀行も三つありました。伊予銀行と愛媛相互銀行と八幡浜信用金庫で、最後まで残っていたのが八幡浜信用金庫だったと思います。私(Dさん)の家も含めて呉服等を扱う衣料品専門店が三つもありました。今では考えられませんが、3軒それぞれが、それで生活できていました。その三つの店舗の他にも衣料品を扱う店がありました。この地区は狭い所ですが、ほとんどのものは町の中で間に合っていました。当時はこの地区に旅館も結構ありました。坂本旅館と玉屋旅館などです(図表1-1-2の㋐参照)。ダム工事のころは泊まり客もかなり多かったようです。
 日常の食料品は、近くの商店で買うことが多かったです。また、五十崎町から車で魚の行商に毎 日来ている人もいました。私が小さいころから来ていて、頼むと三枚におろしてくれたり、刺身にしてくれたりしていました。父親と古くからの知り合いだったようで、何か要りませんかといつも私の家に立ち寄ってくれていたので、毎日のように魚を食べていました。魚以外の食料品は、私の家で食料品店を始めるまでは、川本商店に毎日のように買いに行っていました(図表1-1-2の㋑参照)。そこでは大きな冷蔵庫で肉も売っていました。美容室も何軒かありましたし、理容店や病院、電器店もあったので、買い物はこの町の中でほとんどできていました。どこのお店も歩いてすぐの場所にあったので、この町の中だけで生活できていました。」

 (イ) 映画館のにぎわい

 「私(Cさん)が大阪で働いていた昭和35年(1960年)に、私の初任給が8,000円でしたが、往復の電車賃と映画館で映画を2本立てか、3本立てのものを観(み)て、100円で済んでいたことを憶えています。お金のあまりかからない娯楽だったので、多くの人が映画を観ていました。そのため、映画館が鹿野川に2軒もあったのだと思います。
 昭和30年代前半にこちらにいたころは、映画を観るために新生館には毎日行っていました(図表1-1-2の㋒参照)。値段は忘れましたが、3本立てでした。大洲にも映画館がありましたが、新生館はシネマスコープというサイズの広い画面でした。このシネマスコープは大洲の映画館よりも新生館に先にできたことを憶えています。そのころはダムで潤っていたのでしょう。
 私が高校生のころは、大洲に住んでいる高校の友人たちも『今度の日曜日には鹿野川に映画を観に行く。』とよく言っていました。大洲よりもこちらの方が先に新作映画が封切りされていたからです。また大洲では先生の目も厳しかったですが、こちらには先生の目が届かないということもあったのかもしれません。先生に見つかるわけでもないのでみんなが安心して映画を観るために、大洲から来る友人も大勢いました。」
 「昭和30年代の鹿野川には映画館もありましたし、パチンコ店もあったと思います。私(Dさん)が子どものころはほぼ毎晩映画館に通っていました。現在の公民館の場所にあり、新生館という名前でした。そのころはテレビもありませんでしたし、ほとんど娯楽がなかったので、両親に連れられて行くと映画館にはいつも人がたくさんいました。私は今でも時代劇が好きなのですが、小さいころから観ていたので、そうなったのかもしれません。
 鹿野川座という名称だったと思うのですが、他にもう1軒、映画館があったと記憶しています。昭和30年(1955年)に新生館ができたころにはなくなっていたのではないかと思います。新生館もその後なくなってしまいました。
 テレビは小さいころは、近くの食堂でよく見せてもらっていました。小学校の3年生くらいまでは好きな番組があると、そこに『見せてや。』と言って見せてもらっていたことを憶えています。私の家にテレビが入ったのは、小学校が終わるころだったのではないかと思います。
 東京オリンピックのころは高校1年生でしたが、事務室のテレビで中継を見たことを憶えています。そのころ、ビートルズのメンバーを知り、レコードを聴き始め、レコードもかなり集めました。両親が大きなステレオも買ってくれましたが、高価なものだったと思います。当時は景気が良かったのでしょう。私の家の家電製品はほとんど三瀬電機商会で買ったものです。電器店は鹿野川にはこの1軒だけで、故障してもすぐに直してくれていました(図表1-1-2の㋓参照)。」

(2) 商店を営む

 ア 呉服店を営む

 (ア) 呉服店の商売 

 「私(Dさん)の父はもともと月野尾という集落の出身ですが、五十崎で修業をした後、鹿野川で衣料品の商売を始めました(図表1-1-2の㋔参照)。60年以上前の話です。私は昭和40年代の後半にこちらに帰ってきたのですが、その当時は、学生服や寝具など何でも取り扱っていました。当時は大洲の方に行けば店はたくさんありましたが、スーパーマーケットなどが少なかったので、地元の皆さんによく利用してもらいました。」

 (イ) 呉服の販売

 「呉服は昭和40年(1965年)から昭和50年(1975年)前後が一番多く売れました。今は成人式や結婚式などのときだけに着るものになっていますが、昔は値段がそれほどしないものでも買って、普段から着るということもありました。昭和50年代くらいから年とともに若い人がだんだんと着なくなってきました。
 私(Dさん)の店では、着物がよく売れたころは年に2、3回は集会所などの会場を借りて展示会などを開いていました。問屋さんが反物を持ってきて、2日間くらい開催し、お得意さんに来てもらって、気に入ったものを買ってもらっていました。
 それ以外のときには店に反物をいつもたくさん置いているわけではなかったので、お客さんにこういうものが必要だと言われると、問屋さんへ行って、商品を持って帰り、そこで気に入ったものがあれば買ってもらうようにしていました。呉服は金額もかかるため、店でたくさんそろえておくことはなかなかできません。お客さんに買ってもらうと採寸して、仕立屋さんや問屋さんに頼んで仕上げてもらい、ときには知り合いの方に仕立ててもらったこともありました。
 私の店では八幡浜の問屋さんとの付き合いが多かったです。大洲には衣料関係の問屋がほとんどなく、八幡浜に多くありました。他の仕入れ先は宇和島(うわじま)と松山(まつやま)です。
 着物は安ければ数万円ですが、高いものだと全部そろえると10万円単位になります。それでも割と売れていました。それに、私たちの時代には嫁入り道具として着物を持参する人も多く、結婚が決まった女性に、『いかがですか。』と頼むこともありました。注文が取れると安くても何十万円になりますし、高ければ百万円単位です。同時に婚礼布団なども一緒に準備するので、布団だけでもかなりの金額になっていました。お客さんと車で一緒に直接問屋さんに行って、たくさんの商品を見てもらって、好きなものを選んでもらうということもよくありました。人口も多かったので、昭和40年代はこの辺りで一番ものが売れた時代ではないかと思います。」

 (ウ) 人が多かった時代

 「私(Dさん)は昭和22年(1947年)生まれで団塊の世代の最初の世代です。私が中学3年生のときに統合された肱川中学校ができて、1年間だけ通いましたが、そのときの生徒数は3年生だけで230人くらいでした。全ての学年を合わせると700人くらいになったのではないかと思います。中学生だけでそのくらいいたので、ものが売れていたわけです。学校の制服なども売れますし、他の地域へ買い物に出る人もまだまだ少なかったので、いろいろなものが売れていたのだと思います。人が多いということはものが動くということなので、良い時代だったのではないかと思います。私が鹿野川に帰ってきて商売を始めてから、商工会の青年部に誘われて入ったのですが、その当時は25人くらいの部員がいて活動も活発でした。」

   (エ) 食料品店を始める

 「昭和50年代の後半になると、呉服店の方もだんだんと忙しくなくなってきました。そのころ、近くの川本商店という食料品店が店を閉めるので、その後をやってみないかという話があって、食料品店を始めることになりました。引き受けたときには、両親と私(Dさん)たち夫婦がみんな元気だったので、やってみようかということになったのです。最初は川本商店のあった場所に店舗を置いたのですが、1年ほど後に、もともと信用金庫があった呉服店の前に店舗を移して、呉服店と行き来しながら店を経営しました(図表1-1-2の㋕参照)。
 それから数年経(た)った昭和50年代の後半に、『近くの米穀店が店を閉めるので、米の販売をしてもらえないだろうか。』という話があり、引き受けることにしました。そのころ米は専売で、鹿野川でも米を扱っている店は私の店と農協しかなかったので、毎日の米の配達が忙しかったことを憶えています。かなり山の上の方まで配達をしていたことを憶えています。
 ただ、米を取り扱うようになって何年か経った、平成5年(1993年)のことだと思うのですが、米が不作の年がありました。そのころから米の販売規制が大幅に緩和されて、徐々にいろいろな店で米を扱うようになりました。大きなスーパーマーケットでも扱うようになり、消費者も価格が安いためスーパーマーケットで買うようになったので、米もだんだんと売れなくなってきました。
 3年前(平成30年〔2018年〕)の西日本豪雨で、1階の店舗はもちろん、2階まで被害に遭いました。この先、店を続けるのがよいのか、それとも閉めた方がよいのか、随分迷いましたが、息子たちとも相談をして店を閉めることにしました。」

 (オ) 休みのない日々

 「私(Dさん)たちは店を休むということはほとんどありませんでした。ただ、両親に店番をしてもらって、子どもを遊びに連れて行くということはありました。ただ、泊まりがけの旅行はほとんどできませんでした。定休日を決めて休みを作ってみたこともありましたが、家にいても電話が掛かってきたりすることもあるため、結局は店を開けておこうかとなります。この辺りのほとんどの店舗はそうだったのではないかと思います。」

 イ 家具販売からたばこ販売へ

 (ア) 家具店を営む

 「私(Cさん)は高校を卒業した後、昭和35年(1960年)に大阪で就職しました。大阪でしばらく働いた後、昭和41年(1966年)に鹿野川に帰ってきました。帰ってきた当時、家では家具を販売していました(図表1-1-2の㋖参照)。もともと母の兄弟が内子で作り家具屋をしており、倉庫代わりに私の家に家具を置いていました。それをだんだんと売るようになって、少しずつお店のような形にしていったのです。私が帰ってから車を買って、配達するようになったので、まあまあやっていけるようになりました。車はダットサンのトラックを買ったことを憶えています。その当時はお客さんがバスで鹿野川に買い物に出てきても帰るまでには時間がかかるので、トラックにタンスを積んで一緒に連れて帰ってあげたりしました。おかげで、その当時はまあまあ商売もうまくいきました。配達先は旧肱川町や旧河辺村が主でした。それで暮らしていけたので、まあまあ良い時代だったのかなと思います。家具店も鹿野川に2軒ありましたが、2軒あっても商売が成り立つくらいだったので、そのくらい昔は需要があったということだと思います。
 家具店をしていたころは嫁入り道具も扱いました。よく憶えていませんが、嫁入りのタンスを1セットそろえると30万円くらいはしたのではないかと思います。小さいものでもタンス一つが1万円くらいだったと思いますが、1か月に30万円の売り上げがあるとそれでやっていけたのではないかと思います。
 昭和50年代の初めころまでは何とかやれていましたが、昭和50年代になると大型家具店が大洲にでき、安価な家具を売り始めました。そのため、このままでは駄目になると思って、昭和54年(1979年)に家具店をやめてサラリーマンとして会社に勤めるようになりました。」

 (イ) たばこを扱う

 「兵頭商店は米や砂糖、それからたばこを扱っていました(図表1-1-2の㋗参照)。私(Cさん)が子どものころなので、昭和20年代の話になりますが、私の家の前には幅が1mくらいの水路があって、上流から水を引いていました。養老酒造ではその水を使って、水車で精米をしていました。兵頭商店でも昔は、現在の郵便局の横から川の方へ降りた所に倉庫があって、水車を回して米などをついていました。川で米を運んでそこから上げていたのだと思います。
 昭和55年(1980年)ころだったと思いますが、その兵頭商店が商売をやめることになり、たばこの販売を引き継いでやるようになりました。その当時は鹿野川にはたばこを取り扱う店が4軒ありました。私は働きに出ていたので、妻がたばこを売っていました。それでもそのころはたばこも年間1,000万円くらいは売れていたと思います。消費税が導入された後、簡易課税で消費税を納入しなければならないくらい売れていました。しかし今やたばこは諸悪の根源になってしまいました。」

 (ウ) 公民館活動

 「家具店を営んでいたころ、私(Cさん)も正直に言うと、商売にあまり熱心ではなかったのかもしれません。私はその当時、公民館活動に熱中して、公民館活動ばかりしていました。今も忘れませんが、近所の呉服店の御主人に『あんたそんなことばっかりしよったら、商売になるまいが。もっと商売に力を入れてやりなさいよ。』と言われたことを憶えています。
 私は肱川町の地方分会の一つである中央地区という鹿野川周辺の地区だけの担当で、そこの主事としていろいろと活動していました。もちろん、ボランティアですが、一生懸命に取り組み、映写機を持って近隣の集落を回ったり、バレーボールやソフトボールなどのレクリエーションを行ったり、社会教育のさまざまな活動を行っていました。
 その当時は肱川町の公民館が中心となって青年大学を行っており、社会活動の中では有名な存在でした。青年大学は、大洲高校肱川分校を借りて、月に1回、町内の若者を集めて講座を行っていました。経済問題など四つくらいの講座を作って、それぞれを4年間で一通り学んだ人に卒業証書を渡していました。しかも学生手帳を作って、それで国鉄の学割が効いていました。そこまでやっていたので、肱川町の担当の方がとても頑張っていたのだと思います。公民館も昭和46年(1971年)に完成しましたが、建てるときに若い人が集まる場所がないので、青年室を作ろうという話になり、青年室は玄関からではなく誰でも自由に入れるようにしてくれました。昭和40年代にそういうことを考えて、実行したので、先進的な試みだったのではないかと思います。若いときにそこで酒を飲んだりしたので、私たちの世代は強いつながりがあります。」

 ウ クリーニング店

 (ア) クリーニング店を始める

 「私(Eさん)は高校を出てから2年ほど信用金庫に勤めていたのですが、父が急に亡くなり、仕方なく後を継ぐことになりました。もう店を閉めようかという話もあったのですが、『もったいないので続けたら。』と言われて、クリーニング店を継ぐことになりました(図表1-1-2の㋘参照)。始めてから数年経った昭和47年(1972年)に、かんぽの宿伊予肱川という大きな保養センターが近くにできて、そこの仕事をやらせてもらえるようになってから経営が安定してきました。その後、かなり長い期間、15年ほどの間は保養センターの仕事をやらせてもらいました。
 保養センターは365日休みなしですから、お客さんが1人でもいたら仕事がありました。持って帰った洗濯物をクリーニングして、翌日に持っていくという毎日で、保養センターが忙しい時期には、朝6時くらいに起きるとすぐに機械を回していました。そして夜も9時くらいまではプレス機で仕事をしたりしていました。若かったので、無理ができました。体を動かしてやればやるほど、お金が入ってきたということも大きかったと思います。」
 「保養センターの仕事は仕上がるとすぐに持っていかないといけません。毎日夫が大きな籠に一杯になり重たくなった洗濯物を階段で持ち上げて運んでいたので、すごいなと私(Gさん)は思っていました。今、体にきているのではないかと心配ですが、力の必要な仕事でした。でも、動けば動くほど収入があったので、できたのではないかと思います。
 保養センターの仕事をやめた後も、近隣の宿泊施設の仕事の多くを持ってきてもらうようになりました。一般のお客さんのクリーニングもあり、忙しかったのですが、そのおかげで一番お金のかかる時期に、子どもたちにも好きな教育を受けさせてやることができたのではないかと思っています。ただ、子どもたちが小さいときには365日、仕事、仕事だったので、保養センターの仕事をやめてからは月に1回くらいは定休日を作って、正月三が日は休むことにしました。しかし、店のカーテンを閉めていても、来るお客さんがいたので、定休日でも洗濯物を預かったり、お返ししたりしていました。分かっているお客さんは事前に電話を入れてくれるので、便利に使ってもらっていたのは良かったと思っています。」
 「河辺村のお客さんもいたので、日曜日などの休みの日でも通りかかったついでに洗濯物を持ってきたり、取って帰ったりしたい人もいました。あまり留守にしても申し訳ないので、家にいるときには店をだんだんと開けるようになりました。私(Eさん)が店を始めた当時から車で洗濯物の受け取りや配達もやっていたので、かなりの距離を車で走りました。週に1回は、大谷に上がって、それから山道を通って、旧野村町の坂石に下ります。それから坂石の町を回って、惣川に行って、そして予子林を通って帰ってきていました。河辺方面にも週に1回は行っていたので、週に2回は遠出をして集配をしていました。子どもが大きくなってからは妻も鹿野川を車で回ってくれるようになり、景気の良い時期には仕事は忙しかったです。」

 (イ) お客さんの満足のために

 「私(Gさん)がこちらに嫁いできたのは昭和53年(1978年)で、ちょうど現在の鹿野川大橋が開通した日だったことを憶えています。そのころの脱水機は円形で、洗濯物をふちに入れて、遠心力で脱水する機械でした。洗濯物の入れ方が悪いと、ガタガタと音がするような機械だったことを憶えています。」
 「私(Eさん)が仕事を始めたころは、今のように一つの洗濯機で洗って、脱水をしてというものはありませんでした。そのころはオープン型といって、縦型で、洗濯桶(おけ)を回して何分か洗ったら手動で機械を止めて、蓋を開けて洗濯物を出して、絞らなければなりませんでした。その後しばらくしてから、一つの箱型の、自動的に洗ってすすぐ洗濯機に替わりました。ちょうど保養センターの仕事をやるというときにボイラーも新しく新調しました。それから水洗機も乾燥機も入れて、大きな脱水機も松山の方で購入しましたし、プレス機も、幅が70cmで長さが150cmもある、中古の大きな浴衣プレス機を業者に紹介してもらい購入したことを憶えています。その後も仕事が追い付かないこともあって、大きい箱型の自動の水洗機を導入したり、ドライ機も二浴式のものを導入したりしました。当時大洲・喜多郡で二浴式のドライ機を持っていたのは私も含めて2軒だけで、現在でも1軒だけではないでしょうか。」
 「プレス機は昭和40年代に製造されたもので、そのくらい大きなプレス機はもうどこでも製造していないので、西日本豪雨の水害に遭うまで使っていました。設備投資をして機械はかなり良いものを使っていました。だからお客さんに満足いく仕事もさせてもらっていたのではないかと私(Gさん)は思います。
 染み抜きも私たちの店ではお金をとりませんでした。洗濯物として預かって、染みがついているとサービスで染み抜きをするようにしていました。同業者からはそれは技術料としてもらわないと駄目ではないかと言われたこともありますが、私たちはそのようにしてきました。夫の技術が高く、結構きれいにとれるので、他所の店で取れなかったものを持ってきてくれるお客さんもいました。」
 「超音波の染み抜き機を使ってやっていましたが、染みの種類によっても難しさは違います。昔は大洲のクリーニング店の組合で少しずつ積み立てをしており、2年に1回くらいは慰安旅行に行っていました。私(Eさん)も結構いろいろな所を回りましたが、現地の評判の良いクリーニング店で研修をして良いところを学んで帰っていました。そこで良い勉強ができたのではないかと思います。
 今は組合員の数も少なくなりましたし、旅行をするということもなくなりました。クリーニング業自体がだんだんと厳しくなっています。私たちも着るものが簡単になっていますし、旅行に行くにしても今は普段着で旅行します。私たちの店でも最後の方の売り上げは、良かった時期と比べると半分くらいに減っていました。良い時代には布団や毛布などの大きいものも多かったので、普通車の箱バンに乗って、集配に出てもこんなにというくらい量が多かったこともありましたが、最近では軽自動車で十分になってきていました。公務員にしても服装が簡単になったり、定年を迎えて退職していく人が多くなったりしてお得意さんがだんだん少なくなってきました。そういうこともあって、だんだんと多くのクリーニング店で経営が難しくなってきたのではないかと思います。」

 (ウ) 西日本豪雨の被害の中で

 「3年前(平成30年〔2018年〕)の西日本豪雨のときは、鹿野川ダムが勢いよく放流をしていたので、河辺川の水が鹿野川大橋の所でせき止められ、逆流してこちらがあふれたようです。私(Eさん)たちも午前8時半くらいに、そろそろ仕事を始めようと思って店に出ると、店の前の道路がもう10㎝くらいは浸水していました。」
 「その日は7月7日でしたが、午前8時半に仕事を始めようとしたときに停電になり、これは大変だと思っていると、道路に面した店舗のガラスがバンバンと割れて、あっという間に水が入ってきました。仕上げているものが水に浸(つ)からないよう2階に持って上がらないといけないと思ったのですが、間に合わずワイシャツなど白いものだけを持てるだけ持って運びました。手伝ってくれた人もいたのですが、みんなパニックになって思うように動けなかったことを憶えています。
 そうこうしていると、2階の方まで水が上がってきたので、こうなったら屋根に上らないといけないと思っていると、だんだん水が引き始めました。水位が上昇するスピードも速かったですが、引き始めるのも速かったです。
 その後はいろいろな人に助けられました。私(Gさん)たちはこんなに助けてもらうほど他の人に親切にしたかなあと思うほどでした。」
 「私(Eさん)たちの店で預かっていた品物も泥だらけだったのですが、大洲や内子、伊予市など長く付き合いあるクリーニング関係の方々に、手洗いをした後、洗濯機で絞り、それを乾かして持って行きました。」
 「そうすると、染みのどうしようもない物も数点ありましたが、ほとんどの物をお返しすることができました。『他の業者で、何の連絡もなく無断で処分された。』と怒っている知り合いもいましたが、『私(Gさん)たちの店ではほとんどお返しすることができた。』と言うと、『そういうところはほとんどないよ。』と言ってくれました。私たちは同業者にも助けられたし、お客さんにも助けられたし、知り合いにも助けてもらって、それができたのではないかと思います。」

 エ 理容店を営む

 (ア) 理容師になる

 「私(Bさん)は中学校を卒業した後、家に余裕がなかったので高校には進まず、松山の理容学校に行きました。学校で1年学んだ後、1年間はインターンを経験し、それから試験を受けて理容師の資格を取りました。理容師になってから4年くらい宇和島で修業をしました。私が肱川町に帰ってきたのは、鹿野川ダムが完成した昭和35年(1960年)です。ただ、最初に店を出したのは鹿野川にではなく、滝山という鹿野川大橋の対岸の集落でした。店を出したころには、ダムの工事関係者の人はもうほとんどいませんでしたが、まだ人口が多かったのでお客さんもいました。しかし、鹿野川の町の方がにぎやかな繁華街でお客さんも多かったので、鹿野川の商店街へ店を出したいと考えていました。その後、3、4年の間は滝山で営業をしていたのですが、東京オリンピックのころには鹿野川に移りました。」

 (イ) 鹿野川の商店街に店舗を出す苦労

 「最初に店を出すときには、やはりいろいろ準備しないといけません。最初からお客さんもいませんし、お金も借り入れなければならなかったので大変でした。何年かして信用が高まり、お得意さんも増えてきましたが、借り入れたお金を返さなければなりませんので、資金繰りは大変でした。親の店を継いだり、資金に余裕のある人だとやりやすいのだと思います。私(Bさん)が最初の店を出したころには、鹿野川の商店街もたくさん店があったので、店を出すための土地を買ったり、借りたりすることは困難でした。
 ところが、昭和30年代の終わりごろに鍛冶屋さんの隣で間借りをして理容店をされている方がいたのですが、その方が店をやめて松山に出ていきました。そこで、小さな建物で部屋を区切っただけのスペースしかありませんでしたが、滝山にあった元の店舗の場所ではどうしても人の出が悪く、鹿野川の商店街に店を出したいと思っていたので、私がそこを間借りして理容店をするという話になったのです(図表1-1-2の㋙参照)。
 交渉が成功して、商店街の中にいるとあそこが空くからなどという話が入ってきますので、交渉してだんだんと良い場所に店舗を移すことができました。無理をしてでも商店街に入ってこられたことは非常に良かったと思います。
 鍛冶屋さんの隣で3年くらい営業していたのですが、ダム工事が終わったころから人口が減っており、交差点の角にあったパチンコ店が店を畳むことになったので、店舗を譲ってもらいそこをリフォームして、その場所に店を出すことになりました(図表1-1-2の㋚参照)。私もそこへ入ることができて、かなり楽になったことを憶えています。そのときに店を出した辺りは商店街でも中心でしたし、一番大きな鹿野川主婦の店があってお客さんも多かったので、にぎやかな所でした。
 現在では、主婦の店は道の駅の方に移転してしまいました。道の駅ができてからは多くの店がそちらに移転していっています。
 その後しばらく経つと、道路の拡張工事で立ち退きになって、料亭と自転車店をされていた方が他県に移られたので、現在の理容店がある場所を買い取り、リフォームをして営業していました。西日本豪雨で被害を受け、建て直さなければならなくなったのですが、現在は息子がそこで理容店を経営しています(図表1-1-2の㋛、写真1-1-12参照)。」

 (ウ) 理容師としての苦労・喜び

 「昭和40年代、50年代は人口も多かったので、散髪のお客さんも多く、忙しかったことを私(Bさん)は憶えています。その当時は男性でもパーマがはやっていたので、パーマをかけるときにはとにかく時間がかかりました。お客さんが多いときには決まった時間に昼食がとれませんでした。忙しいと人手が必要となるので従業員も雇っていましたが、従業員を雇うとなると食事や住む部屋なども準備しないといけません。そのころは人口も多く、理容の職業に就く人も多かったので、雇うことができていましたが、今だと、なかなかここまで来てくれる人も少ないのではないかと思います。
 理容店を営業していると、親しい人がたくさんできますし、情報が入りやすいので、その点は良かったです。ただ、客商売なのでお客さんに気を遣わなければならず精神的に大変だったこともあります。少しでもまずいことを言ったり、失敗したりすると来てくれなくなることもあります。また刃物を使っているので気を遣って神経をとがらせておかないといけません。忙しく昼食をとれないと、午後3時くらいに空腹で手が震えだすこともありました。
 お客さんというものは不思議なもので、わざわざ遠くからでも来てくれる人もいます。ただやはり水害のときには何か月も仕事ができなかったので、その後はお客さんが半減してしまいました。引っ越してしまった人も多く、まだまだこれからも人口が減るのではないかと心配しています。」

 オ 薬店を営む

 (ア) ものが売れた時代

 「私(Aさん)の夫はもともと伊予銀行に勤めていたのですが、昭和26年(1951年)ころに薬種商の資格を取って、薬店を始めました(図表1-1-2の㋜参照)。だんだん大きくなって農薬なども扱うようになり、昭和40年代、50年代は農薬でも赤ちゃん用のミルクでもたくさん売れていました。栄養ドリンクもよく売れており、100ケースずつ買って、裏の物置に置いていました。農薬もそこに山のように積んでいました。ミルクにしても子どもがたくさんいたので、たくさん仕入れてもすぐに売れていました。当時は大量に商品を発注すると、仕入れ先が景品をくれることがよくありました。あるとき大きな魚をもらいましたが、冷蔵庫に入らず、そのときは大雪でしたので、雪の中に埋めて保存したことを憶えています。そのくらいものが売れていた時代だったと思います。」
 「今とは店舗の様子も随分違います。店に入りきれないくらいのさまざまな商品を置いていました。店を始めてすぐのころから資生堂の化粧品も扱っており、美容室も作って、定期的に松山から美容師さんに来てもらって、近所の人にお化粧してもらい、化粧品を紹介したり、売ったりしていました。
 私(Fさん)の夫は転勤が多かったので、引っ越しをするときに段ボール箱が必要でした。養命酒を入れた段ボール箱が丈夫だったので、母が養命酒の段ボール箱を取っておいてくれました。そして引っ越しをするとき、業者の方に大きなトラック1台分全て養命酒の段ボール箱だったことにびっくりされたことがあります。そのくらい仕入れており、それだけ売れていたのです。
 平成の初めころに私は両親の仕事を手伝うために薬種商の資格を取ったのですが、そのころには、かつてほど忙しいということはなくなってきました。人口も減り、大洲の方に大きな店舗ができてからはそちらに買いに行く人が多くなっていきました。」

 (イ) 休みなく働く

 「今もそうですが、昔から365日休みはありませんでした。昔は午後8時や9時くらいまでは店舗を開けていました。商店街はどこもそうだったと思いますが、私(Fさん)たちも含めて、3世代で人数がいて家族の誰かは対応することができるので、休みの日はなかったのではないかと思います。
 子どものときには旅行や遊びに行ったことはそれほどありませんでした。父や祖父は商工会関係や薬店関係などいろいろな付き合いがあったので、よく旅行に行っていましたが、当時は女性が旅行に行くことはそれほどなかったのではないかと思います。ずっと家を守り、店のことを手伝っていたということだと思います。特に母は大家族の家に嫁いできたので、大変だったのではないでしょうか。」
 「店をいつも開けないと、生活ができないというわけではないのですが、子どもたちが小さいころは家も空けられませんでしたし、お店も守らないといけませんでした。朝もまだ寝ている時間に、お客さんに外から大声で呼ばれて起こされたりすることもあり、なかなか留守にできませんでした。
 戦後すぐは食べ物には苦労をしましたが、そのころはどの家庭も同じでした。商売の方は順調で苦労ということは特になかったと私(Aさん)は思います。それで生活もできて、子どもたちも学校に行かせることができました。私の人生は良い方だったと思います。」
 「私(Fさん)たちも家を建てるときには援助をしてもらいましたし、そこまでやるということは、母は頑張ったと思います。母は小さいときから苦労しているので、贅沢(ぜいたく)をしたり、自分のためにお金を使ったりすることができないのではないかと思います。『お金を残さなくても、生きているうちに使ったら。』と言っても、使うことができません。」


図表1-1-2 昭和40年ころの鹿野川の町並み

図表1-1-2 昭和40年ころの鹿野川の町並み

地域の方々からの聞き取りにより作成。民家等表示してないものがある。

写真1-1-12 現在の理容店

写真1-1-12 現在の理容店

令和3年7月撮影