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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 鹿野川の町並み

 旧肱川町は、県の中央部に位置する肱川中流の町である。西は大洲市(旧市域)、北は旧五十崎(いかざき)町(現内子町)、東は旧河辺村、南は旧野村(のむら)町(現西予市)に接する。西予市をその源流とする肱川は、V字谷を形成して町域の中央部を南東から北西に流れ、旧肱川町の総面積の82%が山地で、低地はわずか1%にすぎない。
 明治22年(1889年)の町村制の施行により、宇和川(うわがわ)村と大谷(おおたに)村が生まれた。昭和18年(1943年)には、宇和川村、大谷村、明治42年(1909年)に山鳥坂(やまとさか)村と奥南(おくな)村が合併して成立していた河辺村、上浮穴(かみうけな)郡浮穴村大字北平及び川上が合併し、当時の愛媛県下最大の村となった肱川村が誕生した。ところが、戦後になると旧河辺村の一部から分離運動が起こり、昭和26年(1951年)に、肱川村のうち旧宇和川村、旧大谷村、旧河辺村大字中津、大字山鳥坂の一部を肱川村とし、他は河辺村として分村することになった。昭和30年(1955年)には、東宇和郡貝吹(かいふき)村大字西の一部と同じく東宇和郡横林(よこばやし)村大字予子林の一部を編入した。その後、昭和34年(1959年)に町制が施行され肱川町となった。
 この肱川町の中心集落となったのが鹿野川である。鹿野川は肱川中流で河辺川が合流する谷口にあり、昭和の初めまで大字山鳥坂に属する小さな集落で、数戸の商店があるにすぎなかった。ところが、大正13年(1924年)に大洲からの県道が開通し、この地から予子林と河辺村方向に向かう道が分かれたこと、また、町村の合併や分離によってこの地に役場や定時制高校、大洲土木事務所肱川支所などの公共施設が置かれたことなどによって急速に発展した。また昭和28年(1953年)に鹿野川ダム工事事務所鹿野川出張所が発足し、6年の歳月をかけて鹿野川ダムが建設されたことも鹿野川に活況をもたらした。
 本節では、昭和40年(1965年)前後の鹿野川の商店街の町並みや、地域でのくらしについて、Aさん(大正12年生まれ)、Bさん(昭和12年生まれ)、Cさん(昭和16年生まれ)、Dさん(昭和22年生まれ)、Eさん(昭和23年生まれ)、Fさん(昭和26年生まれ)、Gさん(昭和30年生まれ)から話を聞いた。