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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業20 ― 大洲市② ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 戦前・戦後のくらし

 ア 食料に苦労した戦後

 「私(Aさん)はもともと惣川の生まれです。そのころは上浮穴郡の浮穴村と言っていました。家は農家で、米やトウモロコシ、大豆など、いろいろなものを作っていました。養蚕は大きい家でないとできませんので、私の家ではやっていませんでした。ミツマタが一番の収入源でしたので、たくさん植えていました。父が早くに亡くなったので、その後は苦労しました。兄弟も多く、上の方から奉公に出されました。兄は優秀だったようで、校長先生に上の学校に行かせなさいと言われたそうですが行かせられなかったそうです。
 私も働きに出て、いろいろなところで働きました。酒六の別荘でも働いたことがあります。八幡浜に大きい別荘がありました。本宅は事務所があったので、多くの事務員さんが働いていました。別荘でも多くの人が働いていて、子守さんや奥女中さん、神様の世話をする係の人といったいろいろな仕事をしている人がいました。私はそこで雑用をしていました。ときには、昔のことなので、そこでフグ料理を一緒にいただくというようなこともありました。
 松山で国有林の仕事をしている社長さんの家でも働いたことがあります。そこも大変大きな家で、たくさんのお手伝いさんがいました。その社長さんとタクシーで大洲に来たこともあり、そのときはびっくりしました。最後に五十崎の紙すき工場で働くようになりました。戦時中になったので、お金を持っている人も贅沢な生活をできなくなっていたのではないかと思います。
 五十崎の紙すき工場では、多くの人が働いていました。紙すきの仕事には技術が必要ですので、私は紙のゴミを取り除く仕事をしていまいた。水を扱う仕事も多く、冬はとても冷たかったことを憶えています。戦争中はずっと五十崎で働いていましたが、五十崎の橋の上で米軍の飛行機をみんなが見ていると、飛行機から見えるのでしょう、引き返して橋を目掛けて爆弾を落としました。狙いが外れて河原に落ちたので、被害はなかったのですが、ものすごい音がしました。飛行機は毎日のように上空を飛んでいきました。
 五十崎で伊予銀行に勤めていた夫と知り合い、戦争が終わってから鹿野川に嫁いできました。戦後すぐはとにかく食べるものに苦労しました。もともと夫の家ではお菓子を作っていたのですが、戦後はお菓子も何もありませんでした。こちらに来てもイモ(サツマイモ)すらなくトウモロコシの粉の配給があったので、それに少し野菜を入れて、雑炊のようにして食べていました。塩もなく、石みたいな岩塩の配給があったのでそれを使って味をつけていました。もちろんイリコなどありませんので、だしもなしです。農家からも自由に買えませんので、カボチャを買ってきたときに家の近くに警察があったので、警察の前を通るときに隠れて通ったことを憶えています。
 それで、仕事もないので中野小学校からずっと登って行った所にある山を近所の人たちと一緒に開墾して畑を作ってそこでイモを作りました。みんなで山を上がって木を切り、そこにイモを植えました。イモができるとキンマ(木馬)のようなもので引っ張って帰ってきました。当時、米はほとんど口にできずイモだけで食事を済ませていました。イモを食べることができれば良い方でした。外におくどを作って、そこに大きな羽釜をおいてイモをゆで、食べていました。家族も大勢でしたので、イモをたくさん炊かないといけませんでした。
 昭和23年(1948年)に長男が生まれたころは、おむつもなければ、着せるものもない状態でした。夫の丹前を仕立て直したり、赤い布があったので着物を縫い、男の子なのに赤い服を着せたりしていました。おむつはいろいろな端切れを継ぎ合わせて作ったことも憶えています。昭和26年(1951年)に娘が生まれたころにはかなり状況は変わっていましたが、長男のころは何もありませんでした。」

 イ ダムに沈んだ集落でくらして

 「私(Bさん)のふるさとは大谷になるのですが、今では家も何もかも鹿野川ダムの湖底です。もともと父が住友に勤めていたので新居浜(にいはま)にいたのですが、空襲がひどくなると祖父母の家に疎開していました。硯という集落で、大谷橋という橋の近くに住んでいました。近くには大地という集落があって、イモででん粉を作る大きな工場があったことを憶えています。戦争が終わると両親もこちらに帰ってきて、山を開墾して農業を始めました。疎開してきた家族なので水田も畑もなく、山を開墾するしかなかったのです。だから苦労して、イモを作ったり、麦を作ったりしていました。子どものころは本当に食べ物がなかったので、イモを蒸して、イモばかり食べていました。小学校と中学校は大谷の中心にありました。私の家は大谷の中でも鹿野川寄りに住んでいたので、学校まで5、6㎞の山道を毎日歩いて通っていました。」

(2) 子どものころの思い出

 ア 小学校・中学校の思い出

 「平成26年(2014年)に統合して肱川小学校という名前になりましたが、それ以前は中野小学校という名前でした。昭和26年(1951年)に今の肱川小学校がある場所に新しい校舎が完成するまでは、肱川の左岸側の山の上にあって、私(Cさん)も3年生の2学期までそこに通っていました。3年生の3学期に今の肱川小学校の所に中野小学校が移転しました。元の中野小学校は三島神社の近くにありました。子どもの足ですから、通うのにもかなりの時間がかかったことを憶えています。小学校が移転して私たちは通学距離が短くなりましたが、元の小学校の近くに住んでいた人は、山を下りてこないといけなくなり大変だと言っていました。」
 「私(Dさん)が子どものころ、ダム建設の工事事務所の近くに広場がありました。小学校の終わりくらいまではここで毎日のように野球をしていたことを憶えています。肱川中学校に統合されるまで2年間宇和川中学校に通っていました。宇和川中学校は鹿野川から車で5分くらい走った所にありました。今の国道197号から中学校に行くために赤岩橋を渡っていたのですが、木の橋で渡る度に揺れる橋でした。その橋は大水が来ると流れてしまい、そうなると、渡し船で渡るしかありませんでした。橋の近くまではバスで通っていたのですが、橋が流されると必ず渡し船が出て、私も何度か渡ったことを憶えています。」

 イ 肱川での遊び

 「私(Cさん)たちが小学生のころは、『遊ぶのだったら河辺川までで遊びなさい。』と言われていました。中学生になると、そのころは大川と呼んでいた肱川の本流で泳いでもよくなりました。
 子どものときから川が好きで、よく川で遊んでいました。川は自分たちの庭みたいなものでした。子どものころは現在の肱川支所の裏に『梅の小淵』という少し深くなった淵がありましたが、そこで泳いでいました。弁天宮の下にもちょっと深い所があって、そこでも泳いでいました。子どものとき、夏休みには朝から晩まで川で遊んだことを憶えています。
 魚やカニを獲(と)ったりもしました。子どものころに、海の魚を行商に来る人がいましたが、その人に『ウナギはいないか。』と言われ、『いる。』と言ったら、『少しくれないか。』と言ってウナギを買ってくれて、私たちが獲ったウナギを土用の丑の日などに売りに来ることもありました。」
 「夏には弁天宮のお祭りがありましたが、私(Fさん)たちは泳ぐのも弁天宮の下辺りでした。そこが私たちの指定の場所でした。私はあまり泳いだ記憶はありませんが、梅の小淵は大きくなってからで、10歳くらいのころは子どもたちだけで弁天宮の下辺りで泳いでいたことを憶えています。」

 ウ 子どものころの遊び

 「私(Fさん)が子どものころは道路に絵を描いたり、広場で近所のみんなと遊んだり、河原でもよく遊びました。昔は車もそれほど走っていませんでしたし、今の肱川支所がある所にも建物がなかったので、その辺りも遊び場でした。年上の子どもから小さい子まで一緒に遊んでいました。年上のお姉さんを中心に、鬼ごっこをしたり、缶蹴りをしたり、河原にあった土俵でたこつぼという遊びをしたりしたことを憶えています。たこつぼは、土俵の中に何人かいて、中にいる人の動ける区域を線で描いておき、その中にいる子たちにタッチされないように線の外の子たちが土俵から出ないように一周するような遊びでした。土俵では年に1回奉納相撲がありました。母の話では、昔、鹿野川で大火事があったときに愛宕山というものを祀(まつ)っていて、その愛宕山に奉納するために10月に相撲大会が開かれていたそうです。
 年に1回ですが、お盆御飯も行われており、子どもにとって楽しみな行事でした。お盆御飯は夏のお盆のときに河原に子どもたちだけで集まって、自分たちで御飯を作って食べて、一日を過ごす行事です。夏休みにはラジオ体操が当時の肱川分校であったのですが、その後、みんながそれぞれ前もって準備していたものを持ち寄り、河原の橋の下にござを敷き、ちゃぶ台を置いて部屋のようにして、竈(かまど)を作って御飯を作ります。これも同じ年代だけではなく、年上から年下まで集まっていました。準備のときから年上のお姉さんが、『あなたはちゃぶ台を持っておいで。』とか『あなたは鍋を持ってきて。』などと指示をしていました。御飯といっても米は炊きますが、おかずはカボチャを煮たりするくらいでたいしたものは作っていなかったと思います。川でおやつとして冷やしておいたスイカを切って食べたことを憶えています。
 小さいころは映画館にもよく行っていましたが、映画を観るでもなく、子ども同士で走り回り、映画の途中で寝てしまって、親がおんぶして帰るということも結構ありました。1畳くらいの縁台のような涼み台が各家にあり、夕方になるとそれを出してそこに腰を掛け、近所の人と世間話をして夕涼みをしたことも記憶に残っています。子どものころは鹿野川の町もにぎやかでした。七夕のころには花火大会もありました。弁天宮の下の河原で花火を打ち上げていました。そこに行くまでの道には家の前に七夕飾りが立ち並び、出店がずらっと並んでにぎやかでした。小さいころには花火が怖く、顔を上げて上を見ることができなかったことを憶えています。」

(3) 通学に利用した国鉄バス

 「私(Dさん)は毎日高校へ国鉄バスで通学していたのですが、そのころは乗客がかなりいました。毎朝7時台に出発するバスが2、3台出ており、それが毎日満員になっていました。学生が多かったのですが、大洲で働いている人もいました。停留所には駅長さんがいて、夫婦で仕事をしていました。
 宇和島バスも大洲に運行していました。私が小学生くらいまでは伊予鉄バスも走っていたと思います。伊予鉄バスは国道197号と反対の肱川の右岸側の狭い道を走っていて、五十崎方面に行っていました。国鉄バスと宇和島バスは今の国道を走っていました。しかし宇和島バスは鳥首で別れます。鳥首の橋を渡る前に左に行くと細い道がありますが、当時はそちらがメインの道でそこを国鉄バスが運行していました。現在の国道197号はそのころは砂利道で、そこを宇和島バスが走っていました。
 国鉄バスは、当時は7時に鹿野川を出て、8時に大洲の本町に着いていたので、1時間くらいはかかっていました。今と比べると倍くらい時間がかかりました。細い道で舗装もあまりされていなかったことを憶えています。」
 「高校へはバスで通っていましたが、私(Fさん)たちが通っていたころはバスが2台出ていました。それでも乗客は一杯で、立っていないといけないくらいでした。バスに乗り遅れたときには、父が車を出してバスを追い掛かけてくれていました。家を出たときに目の前をバスが出発してしまったことが何回かあり、そのときは父に『早く追い掛けて。』とお願いしていました。」

(4) ダム湖の利用

 ア 映画撮影

 「私(Dさん)の父から聞いた話ですが、鹿野川商工連盟と言っていたころ、ダム湖の宣伝のためにみんなで相談して映画撮影を誘致したそうです。それで、日活映画の撮影が鹿野川ダムで行われました。小林旭主演の『南海の狼火(のろし)』だったと思います。ダムでのロケは映画の最後のシーンで、全部で5分くらいでしたが、父は『かなりお金をかけて呼んだのに短かった。』と言っていたことを憶えています。撮影のときは、見学のギャラリーで一杯でした。小林旭さんといえば大スターなので、見物客もすごかったです。」

 イ ヘラブナの名所

 「昭和40年代ころには鹿野川湖がヘラブナ釣りの隠れたスポットで、芸能人も釣りに来ていました。有名な料理研究家の土井勝さんも泊まって釣りをしていて、せっかくその方が来ているので、公民館で講演会をしてもらおうということでお願いしたところ、快く引き受けてもらったこともあったそうです。そのときに、お礼をどのくらいしたら良いかと尋ねると、謝礼を辞退されて1時間以上話をしてくれたそうです。私(Cさん)の母も講演を聞いて喜んでいました。他にも松方弘樹さんもヘラブナ釣りが好きで来られていました。肱川の人は、有名人がプライベートで来てもあまり騒がない人ばかりで、のんびりできるということでよく来ていたようです。」

(5) 肱川の恵み

 ア 清流肱川

 「私(Cさん)の子どものころは、石を投げて、3mや4mの水深の川底に落ちた石を、みんなが水中眼鏡もなく素潜りをして誰が一番に拾うかというような遊びをしていたことを憶えています。上から川底がはっきりと見えるくらいの水質で、それが清流肱川でした。
 昭和35年(1960年)にダムができたときにもダムの堰堤(えんてい)を無数のウナギが登っていく姿を見ることができました。今はそのようなことはなく、ウナギは激減しています。少し年の離れた兄に聞いた話ですが、昔は天然遡上のアユもたくさんいたそうです。遡上しているアユの群れに橋の上から大きな石を投げると、小さいアユが河原に飛び上がってくるくらい多くのアユがいたと言っていました。アユにしてもカニにしても昔と比べて相当数が減っています。
 私は肱川が好きで、アユ漁などを趣味としてきました。現在は縁があって肱川漁協の組合長を務めていますが、子どものころと比べてダムの影響で川の環境は激変しました。一番の影響は水質が悪くなっていることです。川をせき止めるわけですから、そこから下流には砂が流れません。そのため、川底がだんだん掘られていって、川の環境が変わっていきます。子どものころは川の中を魚が泳いでいる姿が一杯見えていたのですが、今は川の中の様子を見ることができません。環境が悪くなっているので、昔からいた生き物は住みにくくなっているのだと思います。逆に外来種は増えてきているようです。」

 イ 肱川の恵みを伝えるために

 「私(Cさん)が商売をしていたころは商工会の青年部に入っていたので、夏祭りなどの行事の企画や運営を行っていました。今でももう1度やりたいなと思うのが、肱川支所の裏で行った河原でのアユやウナギのつかみ取りです。一時期は毎年やっていて、そのころの子どもたちが現在30代から40代になっていますが、いまだにあれは良かったとか楽しかったと言っています。アユやウナギのつかみ取りをもう1度やって、今の子どもたちに川の楽しさや恵みを伝えることができないだろうかと思っています。ただ、今はヨシが茂って河原で遊べるような環境ではなくなっているのですが、何とかそのようなことができないかと思っています。子どもたちが必ず喜んでくれると思います。」


参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
・ 横山昭市編著『肱川 人と暮らし』1988
・ 肱川町『新編肱川町誌』2003
・ 肱川町『風の軌跡 ひじかわ』2004