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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) さまざまなくらしの記憶

ア 食料品の購入

 「昭和30年代ころ、食料品などの生活に必要な品は農協から購入していました。また、昔はこの辺りにもお店が結構あったので、日用品などの買い物は御内地区で済ませていました。今の管理センターの前の通り沿いには、福田商店のほかに酒屋さんや旅館、郵便局もありました。酒屋さんでは、とてもおいしい日本酒を製造していました。
 また、柏(現愛南(あいなん)町)などの浦方から畑地を通って上槇へやって来て、魚などを売って歩いていた行商の方がいたことを私(Aさん)は憶えています。衣料品の行商に来ていた方もいて、中には御内までやって来る方もいました。岩松の方からは行商の方が来ることはあまりなかったのではないかと思います。」

イ 米作りと養蚕

 「この辺りで炭焼きが盛んに行われていたころは、炭焼きを本業としながら兼業で農業を行っていた家庭がほとんどでした。炭焼きをしていなかった人たちは、家で農業をしながら町へ仕事に出掛けたり、山林で木を伐採したりしていました。私(Aさん)の家では、私が炭を焼いていた当時は、妻がずっと1町(約1ha)くらいの田んぼで自家用の米を作っていました。この辺りで1町の田んぼで米を作っていた家はそれほどなく、どの家でも5反(約50a)くらいの田んぼで米を作っていました。昭和30年代には、農協には農業機械が少しずつ入り始めていたのではないかと思いますが、それまではこの辺りには農業機械は入っていませんでした。米を作っていた家ではどこも足踏み式の脱穀機を持っていたので、それぞれの家でゴンゴンと音を鳴らしながら脱穀を行っていました。当時は、乾燥機がなかったので、1間半(約3m)くらいの筵の上に敷いて、天日で乾燥させていました。しかし、現在、御内地区では、多くの家が高齢者ばかりになって米作りをやめてしまい、今も米作りをしている家は3、4軒くらいしかなく、年配の人で米作りをしているのは私の家くらいになりました。今年から米を作る田んぼを少し減らし、5反(約50a)から7反(約70a)くらいで米を作っています。
 また、今は、加塚川の橋から上の辺りは造林が行われていますが、私が小学校2、3年生のころには、加塚川の橋から上の方に5軒くらい米を作っていた家があり、私は手伝いに行ったことがありました(写真3-1-6参照)。その辺りは近くに山があり、山で刈った草を堆肥にして米を作っていたので良質な米ができていたのだと思います。そのためか、米の値が良かったころは安気にくらしていた人が多かったように思います。今はその辺りには人家はほとんど見られません。
 御内地区の炭焼きをしていない家では、町へ出て会社などに勤めたり、養蚕やパルプ用材の伐採を行ったりと、いろいろな仕事をしていました。また、一時期は養蚕が盛んに行われていて、そのころは、この辺りにも桑畑がたくさん見られたものでした。しかし現在では、クリなどが植えられているのを見ることが多くなっています。
 また、かつて御内地区には繭の買い付けを行っていた業者の方がいたそうです。その業者の方は、土佐(高知県)の方まで車で出掛けて大量の繭を買い付けて、それをこの辺りにあった製糸工場に高い値で売って随分利益を上げていたという話を、年配の方からよく聞かされたことを憶えています。」

ウ 地区で所有する山林

 「この辺りの山で造林が行われていなかったころには、どこの山でも至る所に茅がありました。御槇には多くの村有林があり、全て合わせると800町(約800ha)余りもあったと私(Aさん)は聞いたことがあります。昔の人たちは、山で刈った草を堆肥として利用して稲作を行っていたので、山を村の人たちが共同で利用することのできる草場にしていたのだと思います。その後、当時の御槇村の人たちが将来のことを考えて村有林で造林を行ったのですが、そのおかげで材木を売却したお金で御槙小学校の校舎を新築することができ、これは、国から補助を受けることなく建設されたように思います。今でも御槇地区が所有する山林などの財産はあるのですが、平成17年(2005年)の合併で宇和島市となってからは、御槇地区では公共の目的以外に支出することは制限されています。本当であれば廃寺になった寺院や、常駐する神職のいない神社の修理費などに使用することができれば良いと思うのですが、憲法で政教分離の原則が定められているため、宗教的なことに行政が公的なお金を支出することはできなくなっているのです。そのため、御槇地区にある寺院の建物が傷んでしまって修理する必要が生じたときには、檀家も大変少なくなっていることもあり、地区のみんなが少しずつ寄付をして修理費を捻出するようにしています。」

エ 営林署での仕事

 「営林署は御槇で炭焼きが行われなくなった後に造林を行うようになり、私(Aさん)は炭焼きをやめた後、営林署から造林の仕事を請け負っていました。今は材木の値が安くなっていますが、そのころは値が少し良くなっていたこともあって、大きな木を伐採した跡で造林を行っていました。当時の造林の中心はヒノキとスギでした。あまり間隔を詰め過ぎて植林すると生育に悪影響があるため、営林署は、この辺りの山では1町歩(約1ha)当たり3,000本の木を植えることにしていて、2m間隔でした。営林署から1町歩当たりいくらで造林の仕事を請け負った人の多くは、草刈りや間伐を行う作業員を10人くらい雇っていました。当時は林道も建設されていたので、造林を請け負った人は、マイクロバスに作業員を乗せて現場まで移動していました。私も造林を請け負ったときには作業員を何人か雇い、車で現場まで移動していました。
 その当時は、女性が1日働いて4,000円から5,000円、男性が8,000円くらいで雇われて造林の仕事をしていました。女性の方には、草刈りやノコギリでの間伐をしてもらっていました。造林してから5年間は草刈りをしなければなりませんでしたし、1、2年おいて間伐を行う必要がありました。また、営林署のほかに森林組合が管理する山林もあったので、森林組合に加入して造林の仕事を請け負うこともありました。そのころは山仕事ばかり行っていましたが、それが当時の私たちにとって大切な現金収入になっていました。
 造林してから伐採できるくらいになるまで50年くらいかかります。私が営林署に頼まれて造林を行ってから60年くらい過ぎているので、そろそろ木を伐っても良い時期ではあると思います。造林が終わったころから、この辺りの山林ではシカが増え始め、今はシカによる被害が非常に増えています。」

オ かつての娯楽

 「私(Aさん)が中学校1、2年生のころは、御槇地区にも多くの人が住んでいました。当時、青年団の人たちが、御槙小学校の運動場に仮設の舞台を建てて芝居を行っていたことがありました。中学校を卒業するころには、野球が少しずつ流行り始め、青年団の人たちが御槙小学校の運動場に集まり野球をして楽しんでいました。また、当時、御槇地区では6月から7月には、週に1日はイモ休みや田休みなどの休日がありました。イモ休みはイモを植えるための休日でした。そのころ、田休みの時期には、どの家庭でも柴餅を作っていたと思います。お餅を柴の葉で挟み込んで柴餅を作っていて、私はそれをとても楽しみにしていたことを憶えています。
 それから少し後になると、この辺りでも映画が人気を集めるようになり、私も映画を観(み)ることを楽しみにしていました。御槙小学校の校舎が新設されたころ、どの地区でも公民館が新しく建設され、当時の御内公民館は今の郵便局の場所にありました。当時、公民館では週に1回くらい映画が上映されていました。みんながそれをとても楽しみにしていて、映画が上映されるときには、公民館は観客で一杯になっていたことを憶えています。そのころ上映された映画には、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎、長谷川一夫などが出演していました。当時、こちらが地元の方が請け負って興行を打っていました。そのころは、まだ家庭にテレビが入っていない時代で、娯楽と呼べるようなものもそれほどなかったので、多くの人が映画を観に行っていました。
 また、私は地域のお祭りもとても楽しみにしていました。お宮でやっていた夏祭りや秋祭りには熱心に参加していました。」

カ 出稼ぎの増加

 「私(Aさん)が成年になって少し経(た)ったころには、他所へ出稼ぎに行く人がいて、この辺りに住む人が減り始めていました(図表3-1-3参照)。出稼ぎに行く人が増えたのは昭和40年(1965年)ころからだったと思います。炭焼きが下火となって仕事がないため、そのころから多くの人が出稼ぎに行くようになり、一時期はこの辺りでもほとんどの人が出稼ぎに行っていたことを憶えています。高知県の出井地区には、昔はかなり人が住んでいたのですが、今では住む人も少なくなっているようです。」

 (2) 御槇の民俗

ア 盆飯の風習

 『えひめ、その食とくらし』によれば、盆に子どもたちが大人の指図を一切受けず、河原や浜辺に集まって、それぞれが持ち寄った米や野菜などを煮炊きし、あるときは寝泊まりして1日を楽しく過ごす風習をボンメシ、オボンメシ、ハマメシ、オナツメシなどといい、南予地域一帯で広く行われていた。盆飯の行事は、昭和30年代から40年代の前半にほとんど消滅したが、旧津島町の一部ではその後も形を変えて残っていたという。子どものころに行われていた盆飯の思い出について、Aさんは次のように話してくれた。
 「お盆のときには、河原へ行って飯ごうで盆飯を炊いていました。盆飯は子どもが自立していくための行事なので、参加している子どもの親が付いてくることはあっても、大人が口出しすることは全くありませんでした。盆飯に参加していたのは小学校5、6年生くらいの子どもでした。その中には女の子もいましたが、大体は男の子が参加していたのではないかと思います。私が子どものころには、お盆のときに加塚川の河原へ行ってよく盆飯を炊いていたことを憶えています(写真3-1-6参照)。」

イ 山の神様

 「昔は、山の神様をお祀(まつ)りするための祠(ほこら)が山の中のいろいろな所に造られていたものでしたが、今ではほとんど残っていません。山に入って仕事をしていたときには、まず祠にお酒をお供えし、拝んでから仕事をしていたことを私(Aさん)は憶えています。
 かつて御槇村の時代には、村内には拝高さん(拝高神社)、天満宮(天満神社)、金毘羅さん(琴平神社)の三つの神社がありました。それらが一つにまとめられて御槇神社となり、現在の場所に建てられました。そのときに、多くの小さな社もまとめられたため、御槇神社では多くの神様が祀られています。
 御槇地区では、山の神様をはじめとする御槇地区に関係する全ての神様の名前が書かれた掛け軸が伝わっていました。掛け軸の一番上に天照大神が書かれ、その後に御槇地区の神様の名前が続きます。私の家にもその掛け軸があるのですが、かなり傷んでしまい掛けることができない状態となっています。以前、同じ掛け軸が御槇神社にもあったのを憶えているのですが、神社には宮司さんなどの神職もいないため、残念ながら今は見ることができなくなっているようです。」


参考文献
・ 愛媛県『愛媛県産業地誌』1965
・ 愛媛県『統計からみた市町村のすがた』1971
・ 津島町『津島町誌』1975
・ 中国四国農政局『津島町の農林水産業』1982
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』1983
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 篠原重則『愛媛県の山村』1997
・ 津島町『御槙村誌(復刻版)』2000
・ 愛媛県生涯学習センター『えひめ、その食とくらし』2004
・ 津島町『津島町誌 改訂版』2005
・ 津島町『津島町町制施行50周年記念誌 思い出綴り』2005
・ 愛媛県教育委員会『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-』2013
・ 西予市蚕糸業振興協議会『蚕糸マニュアル』2017

写真3-1-6 加塚川

写真3-1-6 加塚川

令和元年7月撮影

図表3-1-3 御槇地区の人口の推移

図表3-1-3 御槇地区の人口の推移

『統計からみた市町村のすがた』及び『津島町誌 改訂版』