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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 製炭業と人々のくらし

 昭和30年代にエネルギー革命が進展する以前には、木炭は家庭用の燃料として薪(まき)とともに最も重要なものであり、また鍛冶用などの工業用の用途も多かった。その当時、製炭業は山間地域を特徴付ける伝統的な産業であり、山村にくらす人々にとっては現金収入源として極めて重要なものであった。
 愛媛県の昭和35年(1960年)の木炭生産は4.0万tであり、当時全国第2位の地位にあった高知県の9.7万tには遠く及ばなかったが、西日本では有数の木炭生産県であった。北宇和郡や南宇和郡は、明治以降県内随一の製炭地域であり、明治年間には県の木炭生産の過半を占めており、その地位は圧倒的に高かった。明治・大正の間の製炭業の中心地は北宇和郡と南宇和郡にまたがる篠山山系と宇和島背後の鬼ヶ城山系の国有林地帯で、明治末年の北宇和郡における製炭業の過半は篠山山系をひかえる旧津島町域に集中していたという。これらの国有林地帯で木炭生産が盛んに行われたのは、カシやシイなどの木炭原木となる天然広葉樹林が多くあったこと、これらの山地が海岸から5kmから10km程度を隔てるにすぎなかったので、交通の不便な時代に木炭の搬出に便利であったことによる。国有林の原木は、まとまりのある一区割が払下げの対象になったので、資力のある宇和島や岩松、宿毛(すくも)(現高知県宿毛市)などの薪炭商に払い下げられた。薪炭商は払下げを受けた国有林に地元の住民や移動製炭者を入山させて製炭させ、大阪の炭問屋に出荷した。製炭者は薪炭商から生活物資を前借りし、それを木炭の焼賃でもって清算するという前近代的な体制のもとに製炭した。薪炭商は親方、製炭者は焼子といわれたが、山元には薪炭商に雇われた現場監督「山先」などもいた。このような製炭形態は焼子制度といわれ、当時、後進的な製炭地域には広く見られた制度であった。焼子のなかには、山中で小屋掛けして家族ぐるみで生活する製炭専業の移動製炭者も多かった。第二次世界大戦後、焼子制度の衰微に伴い、原木の払下げは営林署から農協を通じて行われるようになった。製炭者は農協における生産組合に加入し、入山者の選定や窯割りは組合によって決められ、木炭搬出の木馬(キンマ)道などは共同で設置し、融資、販売などは全て組合の手で行われた。
 木炭はその製法によって、白炭と黒炭に分類される。大正4年(1915年)の統計では、県内の木炭生産量のおよそ4割が白炭で、南宇和郡のほか宇摩郡や周桑郡、北宇和郡で白炭の生産が多かったが、消費者の嗜好(しこう)や生産のしやすさなどから次第に黒炭の生産量が増え、昭和33年(1958年)には、白炭の生産量は県内木炭生産量の5%になった。
 昭和30年代以降、製炭業はエネルギー革命のあおりを受けて全県的に生産不振となり、旧津島町でも製炭業は急速に衰退していった(図表3-1-2参照)。四国山地の山村を調査した地理学者の篠原重則氏によれば、旧津島町内の神田集落及び横山集落では、昭和30年代以降に挙家離村が相次いだという。そのころから製炭の原木として利用されていた天然広葉樹林はヒノキを中心とする人工針葉樹林に更新されていった。
 本節では、旧津島町御槇地区における製炭業と、地域におけるくらしについて、Aさん(昭和10年生まれ)から話を聞いた。

図表3-1-2 旧津島町の木炭生産額

図表3-1-2 旧津島町の木炭生産額

『津島町誌』から作成