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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 炭焼き

(1)炭焼きが盛んだったころ

 ア 炭焼きに従事するまで

 旧津島町御内地区は、旧津島町の東端にある標高約260mに位置する山村で、標高1,056mの篠山を下った遍路たちが県道津島宿毛線に合流するのもこの地区である。御内地区の主な産業は、稲作を中心とする農業と林業であった。Aさんは、炭焼きに従事するようになった当時を振り返って、次のように話してくれた。
 「私の家では昔から年間を通して炭焼きを行って生計を立てていて、子ども時分に祖父が炭焼きの仕事をしている姿を見たことを憶えています。戦時中(第二次世界大戦中)に、私は国民学校(現宇和島市立御槙小学校)に入学しました(写真3-1-1参照)。そのころ、この辺りでは、国民学校の尋常科を出ると2年間高等科に通っていた人がほとんどで、旧制中学校に進学する人はめったにいませんでした。戦後の学制改革によって、新制中学校の御槇中学校(御槇村立御槇中学校。昭和50年〔1975年〕津島中学校に統合。)ができると、私は1期生として入学しました。
 中学校を卒業すると、私は家の跡取りとなって炭焼きを始めました。当時、私のクラスには37人の生徒がいましたが、そのうち高校へ進学した人は5、6人しかおらず、ほかの人はみんな仕事を始めました。そのころは、他所(よそ)へ働きに出て行く人も少なく、御槇地区の半数くらいの家は炭焼きをして生計を立てていました。御内地区ではそうでもありませんでしたが、周辺では半数くらいの家が炭焼きをしていたのではないかと思います。その当時、家庭での燃料といえば木炭で、七輪やくど(かまど)などを焚(た)くときの燃料として使われていたため、よく売れていました。」

 イ 国有林の払下げ

 「当時、御槇地区で炭焼きを行っていたほとんどの人は個人で山林を所有していなかったので、御槇農協が組織する組合に加入して炭焼きを行っていて、私(Aさん)もその組合に加入して炭焼きをしていました。この辺りに広がっていた国有林を管理していたのは営林署(高知営林局宇和島営林署)で、御槇農協では、営林署からまとまりのある一区割を払い下げてもらっていました。組合員の間で、この山が何ぼ、この山が何ぼというように、区割りの範囲内の山の評価を決めた後、誰がどの山の炭焼きの権利を持つかを入札によって決めていました。同じ炭山を何人も希望したときには価格が高くなることもあり、逆に、集落から遠く離れていて誰も希望しないような山は安い価格に設定して、誰かに入ってもらうようにしていました。そのようにして誰がどの山の炭焼きの権利を持つかが決まると、営林署から入山許可を受けていました。営林署から10町(約10ha)くらいの大きな山の払い下げを受けたときには、そこへ10人くらいが入って炭を焼いていました。営林署の管理していた国有林は何百町もあるような広い山林だったので、ここの山で炭焼きを終えたら次はあそこの山、といった具合に、年ごとに山を移動しながら木炭の原木を伐(き)らせてもらっていました。営林署の管理する山にはスギやマツ、ヒノキ、モミ、ツガの木などが生育していましたが、それらは木材として売るためのものだったので伐採せず、木炭の原木として雑木を伐っていました。」

 ウ 炭山までの移動

 「炭焼きをしていた家では、家族みんなで仕事を手伝っていました。私(Aさん)が炭焼きを始めたころは、父親と一緒に炭焼きを行っていましたが、結婚して一家を構えてからは、妻と炭焼きを行っていました。当時は毎朝6時半ころから山へ仕事に出掛けていました。低い山で炭焼きをするときと、高い山で炭焼きをするときとでは家から山までの所要時間が違っていましたが、朝、同じような時刻には出掛けていました。そのころはまだ林道も整備されておらず、周りの誰も車を持っていなかったので、落札して炭焼きの権利を持つことになった山まで歩いて移動していました。私が家からずっと奥の方の山を落札したときには、30kmくらい歩いて移動しなければならなかったこともありました。落札した山が標高1,000mくらいの山だったときには、家から歩いて1時間以上かかったこともありました。昼食のときは山で持参した弁当を食べて、午後5時ころまで仕事をしていました。当時は歩いて移動しなければならなかったので、夕方5時ころに山を出ても家に着くころには辺りは薄暗くなっていたことを憶えています。昔はとても長い距離を歩いて山まで移動していたので、今になってみると本当にえらかった(大変だった)と思います。」

 エ ノコギリによる伐採

 「当時、チェーンソーはまだなかったので、私(Aさん)はヨケ(ヨキ、小型の斧(おの))とノコギリを使って原木を伐採していました。大きな木を伐るときには、安全かつ正確に伐ることができるよう用心しながら作業していたことを憶えています。周囲の状況を見て木を倒す方向を決めると、まず、受け口といって、木の倒す側にヨケでV字状に切り込みを入れます。受け口ができると、反対側からノコギリを入れます。これを追い口といい、追い口を入れると受け口の側に木は倒れます。経験が浅いうちは分かりませんが、1年くらいやっていれば、木とその周囲の状況を見れば木のどこに受け口を作ればよいか分かるようになりましたし、早い人だと1か月くらいで分かる人もいました。チェーンソーがあれば作業も効率的に進められたと思いますが、ヨケとノコギリを使って作業していたので、炭窯が一杯になるくらいの原木を伐るのに3日間くらいかかっていました。スギやヒノキといった木は、伐っている途中で割れるようなことはめったにありませんが、シイの木は柔らかくて割れやすいため、少し傾いているシイの木を伐っていたときには、まだ伐り終わらないうちに、『パーン』と音がして木の真ん中くらいから割れてしまい、とても怖い思いをしたことがありました。シイの木のように割れやすい木を伐るときには、用心しながら慎重に作業しなければなりませんでしたが、そうしたことを知らずに木を伐っていて大けがをした人もいました。木を伐るときには、いろいろなことを想定してから慎重に作業しなければ大きなけがにつながるのです。
 私は、伐採のときに使うノコギリの目立て(ノコギリの歯を起こしたり、鋭くしたりすること)は自分で行っていました。周りには目立てが上手な人もいれば、それほど上手ではない人もいました。きちんとノコギリの手入れをしておかなければ切れ味が鈍くなり、うまく木を伐ることができないので、私は目立ての上手な人のノコギリを見せてもらい、それを手本にして手入れを行っていました。山から帰って来て疲れていても、夜になるとヤスリを使ってノコギリの歯の手入れを行っていましたし、雨がひどく降って山での仕事ができなかったときにも、家でノコギリの手入れを行っていました。当時、ノコギリの目立てを専門に行っていた職人さんがいましたが、職人さんに目立てをお願いすると手間賃を取られるので、私は自分で目立てを行っていたのです。ヨケとノコギリを使って伐採していたのは昭和40年(1965年)ころまでで、そのころからはチェーンソーを使って伐採するようになりましたが、きちんと目立てを行う必要があるのはチェーンソーもノコギリと変わりませんでした。
 伐採した木は炭窯のある場所まで寄せなければ(集めなければ)なりませんでした。当時、ほとんどの炭窯は山の下の方に造られていたので、山の斜面にズリを造り、伐採した原木をズリから全て落として炭窯まで寄せていました。伐採した原木をズリまで運ぶときには、木馬という大きなそりのような道具に載せていました。黒炭を焼く場合であれば、原木を1m10cmくらいの長さに切り揃(そろ)えたものを全て積んで、ズリから落としていました。」

 オ 炭窯造り

 「落札者は、原木の運搬の手間を省くためそれぞれの山に炭窯を造っていたため、昔から炭焼きが行われていた炭山には必ず炭窯がありました。それで、みんなで山を分けたときには、『どこそこに炭窯があるぞ。』と言って教え合い、残されている炭窯を使って炭焼きを行っていました。山の谷間に炭窯を設置しておくと伐採した原木を山の左右から順に下に落として搬出することができて効率的でした。当時、使われていた炭窯の跡は今も何か所か残っていますが、はるか昔の平安時代に造られたとされる古い炭窯の跡も残っています。
 炭窯を造るときには、最初に土を掘って形を作ります、そして木炭にする原木を1mくらいに切って、それを炭窯の中に立てていきます。その後、5cmくらいに切った木を、並べてある木の上などに隙間なく詰めていき、きれいな炭窯の形に木を盛っていきます。その上に筵(むしろ)を置いて、土を20cmくらい盛って固めます。太めの棒を持って2人から3人が炭窯の上部を叩(たた)いて締めて(固めて)いきますが、十分に締めていないと後で崩れ落ちてしまうことがありました。炭窯を造るための土は、地元の山で採れた赤土を使っていました。大道(おおど)の山を少し向こうへ行った所で採れる赤土で作る粘土はとても質が良く、丈夫な壁を造るのに適していました。粘土をこねるときは、焼け(焼けた土)を半分ほど混ぜて、うどんの生地をこねるときのように足で踏んでいました。焼けを入れなければ天井の壁にひびが入りやすかったのです。今は田植え足袋といって、田植えのときに履く長靴の薄いものがあり、それを履いて踏むと足は痛くありませんが、当時はそのようなものはなかったので素足で粘土を踏みながらこねていました。もし、天井の壁が壊れるようなことがあれば、炭窯の中に入って補修をしなければならず、私(Aさん)たちは、そのことを『補修』とは言わずに、『造作』と呼んでいました。
 谷口のように水の出る場所に炭窯があったときは、炭窯の中に水が溜(た)まらないように排水設備を造っていました。窯の底に暗渠(きょ)を掘って大きな石を敷き、その上に小石を並べて、さらにその上に泥岩を敷き詰めていました。後には窯の中に通しておいたホースから排水する仕組みの窯も造られていたようです。また、炭窯を覆う小屋の屋根がしっかりしていないと、雨漏りがして窯の天井がすぐに傷んでしまいました。」

 カ 炭を焼く

 「木炭を焼くときには、窯の中に切り揃えた原木を立てた状態できちんと並べ入れ、その上に小さく切った木を積んで窯の内部の隙間を埋めます。窯口で火を入れると、原木に火が着くまでに結構時間がかかりましたが4日から5日くらいで焼き上がりました。
 木炭には白炭と黒炭があります。焼き上がるころに口を開けて再び火を入れて高熱で焼き、炭窯から出して火を消すのが白炭で、炭窯の中で炭化した木炭を煙道口や通風口を密閉して窯の中で消火してから取り出すのが黒炭です。白炭はとても堅くて火付きは良くありませんが、火力が強く長持ちします。今もよく見掛ける備長炭は白炭と同じものです。黒炭は白炭と逆で、火力は弱く長持ちしませんが、火付きが良く値段も安かったため、一般の家庭ではよく使われていました。
 黒炭を焼くときには、初めは煙突を潰しておいてから焚き、原木の焼け具合を見ながら煙突を開けるタイミングを判断します。煙突を開けると窯の中に火が燃え移ります。窯の中にある小さな原木が燃え始め、その火が本体の原木に燃え移ると煙がずっと出続けるのですが、本体の木に移っていないと消えてしまいます。煙の出方から確実に本体が燃え始めたのを確認したら、炭窯の入り口に石積みをして、空気の通り道を狭(せば)めます。それからは焚かないようにして、中の原木が焼けるのを待つようにします。上の方の原木に火が着いてからはひとりでに燃えるので、ずっとその場にいる必要はありませんでした。煙がかすかに見えるようになると、煙突も入り口も塞(ふさ)いで、蒸し消します。炭窯の奥の方の木炭は燃えて灰になることがなかったので、窯の入り口側のものよりも良い木炭になりました。そのため、窯の奥には良い原木を並べて、入り口側にはあまり良い炭にならない原木を並べるようにしていました。
 白炭を焼くときには、炭窯から真っ赤にいこっている(燃えている)炭を引っ張り出し、スバエ(炭の粉)を掛けて消していました。黒炭は一旦火が着くとなかなか消えませんが、白炭はスバエを掛けてしばらく置いておくと、自然に火が消えていました。私(Aさん)が炭焼きを始めたころは、木製の棒を使って窯から炭を引っ張り出していましたが、木に火が燃え移ってすぐに使い物にならなくなったため、炭焼きをしていた最後のころには、金属製のカギ棒を使っていました。
 白炭と黒炭では炭窯の構造も少し異なっていました。白窯(白炭用の炭窯)は、円形状に石垣を継ぎ、その上に粘土を固めて天井を造っていました。天井には穴があり、そこから原木を投げ入れて燃やすことができるようになっていました。また、燃えている木炭を窯から引っ張り出しやすいように、窯の入り口には段差を設けていました。石垣を築いて、さらに天井を造るのにこねた粘土をきれいに塗り固めなければならなかったので、大変な労力だったことを憶えています。御内地区から少し東に行った所にある出井地区(高知県宿毛市)には、道端に古い炭窯の石垣が今でも残っています(写真3-1-3参照)。
 私は、大抵の場合は一度に炭俵60俵くらいの木炭を焼いていたので、そのために必要な原木を3日間くらいかけて伐っていました。それだけの原木を1日で伐ることはできず、何回かに分けて伐っていたのです。その当時は、1か月に3回も木炭を焼く人がいましたが、原木を伐る作業が大変だったので、ほとんどの場合は1か月に2回しか焼くことができませんでした。当時は、梅雨時であっても、木炭を焼くために山へ出掛けていました。そのときは、今のような雨合羽(あまがっぱ)はなかったので、自分の家で作った蓑(みの)を着て出掛けていました。」

 キ 炭俵を編む

 「炭窯から出した木炭は、茅(かや)や藁(わら)で作った炭俵に詰めて出荷していました。当時、この辺りのあちこちに炭窯があったので、炭俵はたくさん必要でした。炭俵は、横辺を梱(こん)包する『ダス』と、炭俵の底と蓋に当たる部分である『サン俵』からできています。炭俵を作るときには簡単な道具を使っていました。炭焼きをしていた家では、お年寄りはみんな家の中でダスを編んでいたことを憶えています。炭焼きをしていなかった家でも副業としてダスを編んでいました。私(Aさん)は、お年寄りの方の編んだダスを買いに行っていたことを憶えていて、炭焼きを始めたころは、ダス1枚の値段が10円くらいだったと思います。ダスを編むための道具ではホゴなども編んでいました。昔は、畑で作ったイモなどをホゴに入れていました。以前は、私の家でもダスを編むための道具を残していましたが、最近は使うこともなくなったので処分してしまいました。
 木炭の入った炭俵には角型と丸型のものがありました。角型の炭俵には角炭(四角い形の長めの木炭)が詰められていました。一時期、角炭が流行(はや)ったことがありましたが、角炭は長くて家庭では使いにくいものでした。
 私が炭焼きをしていた最後のころ、木炭を2寸(約6cm)くらいの長さに切った切炭を作るようになりました。切炭を炭俵に詰めるときには、炭俵が丸型になるようにびっしりと詰め込んでいました。茶道の世界では、今でも七輪で火を起こすときに切炭を燃料として使用しています。」

 ク 炭の出荷

 「木炭ができてから炭俵に詰めて出荷できる状態にするまでに2、3日くらいかかっていました。炭窯で焼き上がった木炭は、道路端に建てられた小屋に置いていました。当時は、県の検査員による木炭の品質検査が行われていました。みんなの焼いた木炭が大体集まってから、いついつ炭の品質検査に来てほしい、と県の検査員に伝えると、小屋までやって来て検査を行っていました。品質検査で不合格となった木炭は御槇農協で買い取ってもらうことができませんでしたが、合格した木炭には検査員の方が判を押し、等級を記した札をその炭俵に付けていて、私(Aさん)たちはその札のことを『エブ』と呼んでいました。当時、品質検査に合格した木炭は1級から3級までの3等級に分かれていたと思います。あまり太くもなく、割っても丸くてきれいな炭でなければ1級にはなりませんでした。
 品質検査が終わると、合格して等級の札が付いた炭俵を農協へ運んでいました。当時、農協はトラックを所有していて、トラックで小屋まで木炭を集めに来てくれたので、小屋で木炭を農協に渡していました。木炭の販売まで全て農協が行っていたのではないかと思います。みんなが60俵くらいの木炭を出荷していたので、10人くらいであれば600俵くらいの炭を出荷していた計算になります。1回では全ての炭俵を運べないこともあり、そのようなときには何回かに分けて農協まで運ばなければならなかったことを憶えています。品質検査で1級になったような木炭は良い値段で買い取ってくれたので農協へ出荷していましたが、2級や3級になった木炭は一部を自家用に回していました。炭焼きをしていなかった家では、生活に必要な木炭を農協で買ったり、炭焼きをしていた家から買ったりして入手していました。私も、家で余っていた木炭を頼まれて売ったこともありました。
 当時、私の使っていた炭窯では1回の炭焼きで60俵分くらい木炭を焼くことができていました。月に2回ないし3回は炭焼きをしていたので、平均すると2か月で5回くらい炭を焼いていたのではないかと思います。その当時は、1か月で20万円くらいの収入があり、少し大きな炭窯で炭焼きをしていたときには30万円くらいの収入はあったと思います。そのため、炭焼きだけで十分に生活が成り立っていました。」

 ケ 炭の品評会

 「昭和35年(1960年)くらいまでは、農協の主催による炭焼きの品評会が開催されていました。御槇地区の品評会が開催されていたほか、北宇和郡の品評会も開催されていて、岩松へ行ったり宇和島へ行ったりしていました。品評会に出品する木炭は農協のトラックに積んで運んでいましたが、私(Aさん)たちは路線バスに乗って品評会の会場まで移動しなければなりませんでした。
 その当時の路線バスは手回ふいごで火を点(つ)けた木炭自動車でした。御内から宇和島方面へ向かうバスの便数もそれほど多くはなく、恐らく1日に2便くらいだったのではないかと思います。そのため、朝、バスに乗って宇和島へ出掛けると、帰りは行きに乗っていたものと同じバスに乗って御内へ帰って来ていたことを憶えています。そのころの路線バスが運行されていたルートは現在と同じですが、当時は道幅が今よりももっと狭く、車の離合が難しいと感じられるほどでした。現在は道幅が拡張されているため、少しは通行しやすくなっています。」

(2)炭焼きの衰退

 ア 木炭需要の減少

 「昭和30年(1955年)ころまでは白炭が主流で、私(Aさん)は白炭ばかり作っていましたが、それ以降は黒炭を作るようになりました。そのころは値段が少し安かったのですが、昭和43年(1968年)ころから炭焼きをする人が減って市場に出回る量も減少したため、木炭は少し良い値段で売れるようになりました。私は昭和45年(1970年)か46年(1971年)ころまで炭焼きをしていましたが、最後のころには1俵が600円くらいしていたと思います。昭和45年(1970年)ころには工業用の木炭を作っていましたが、農協ではそうした木炭をあまり買い取ってくれませんでした。しかし、ほとんどの木炭を宇和島から買い付けに来ていた業者の方が買い取ってくれていたので、おかげでまずまずの量の木炭を売ることができました。その業者の方は、私たちから買い付けた木炭を船で大阪方面へ出していたと聞いたことがありました。今は、この辺りでは炭焼きをやっている人はいなくなりました。私は、御内地区から少し東の出井地区にある小さな炭窯で、今でも黒炭を焼くことがありますが、それはバーベキューなどに使用するといった自家用程度のものです(写真3-1-5参照)。」

 イ 炭焼きに関わる記憶

 「昔は高知県の宿毛には木炭を専門に扱っていた大きな業者の方がいたのですが、かなり年配の人であればよく憶えていると思います。また、御代ノ川にも木炭を専門に扱っていた業者の方がいて、経営が悪化していた清満農協を木炭で建て直したそうです。その方はとても熱心に木炭の商売をやっていて、後に宇和島へ出て行って商売をされていましたが、90歳を過ぎたころに亡くなったと聞いています。
 また、御内地区から少し東へ行った所に出井という地区があり、そこでも炭焼きが盛んに行われていて、昔は他所から来て炭焼きを行っていた方もたくさんいました。昭和30年代になっても、山から山へと移動しながら炭焼きをしていた方はいたのかもしれません。かつての出井地区では炭焼きのほかに農業も行われていましたが、多くの方が外へ出て行ってしまい、当時の面影はほとんど見られなくなっています。その後、私(Aさん)は、出井地区の山林の一部を購入して、クリの栽培を行っています。今、この辺りの山林に植えられている木はパルプ用材で、木炭の原木には適していません。」

写真3-1-1 現在の御槙小学校

写真3-1-1 現在の御槙小学校

令和元年7月撮影

写真3-1-3 白窯の跡

写真3-1-3 白窯の跡

手前に見えるのが窯の入り口である。令和元年7月撮影

写真3-1-5 現在も使用されている炭窯

写真3-1-5 現在も使用されている炭窯

令和元年7月撮影