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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 炭焼きと育苗そして環境産業へ

ア 炭焼きと育苗

 「昭和30年(1955年)から昭和40年(1965年)ころまでは、木炭と薪(まき)が主要な燃料として用いられていたので、木炭は本当によく売れました。この辺りは周りが全て山で、雑木が多くあったので、炭焼きが盛んに行われていたのです。人々は、春から秋にかけては自分たちで食べる程度のものを作る農作業を行い、冬になると山へ行って炭を焼く、という生活をしていました。20町歩(約20ha)から30町歩(約30ha)の雑木林を所有していれば、毎年1町歩(約1ha)から2町歩(約2ha)ほどの広さで木を伐って炭を焼くと、材料となる木に困ることはなく、仕事として続けていくことができていました。
 また、出稼ぎでこの地域に来て、製材用の木材を伐り出す仕事に従事する方もいました。この方たちは、雨が降るとその日は仕事をすることができないので、一月に20日ほど仕事ができれば良い方でした。
 戦後の時期には復興需要があり、木材が高い値でたくさん売れていたので、伐採した後の植林用の苗の需要も多くありました。また、炭焼き用に木を伐った後に、そのまま雑木林にしてしまうのではなく、植林が盛んに行われたので、私(Dさん)の家では終戦後の30年間、父が種苗店を営んでいました。この地域は県内では比較的降水量が多く、苗を育てることに向いている地域なので、30年もの間仕事として続けることができていたのだと思います。
 スギやヒノキの苗を育てるために、営林署等の許可を得て国有林などへ行き、球果を集めていました。高知県の楠山(現宿毛(すくも)市)や屋内、黒尊(現四万十(しまんと)市)などへも行って採取していたことを憶えています(図表1-2-1参照)。必要なだけの球果を集めるには、身内だけでは人手が足りず、九州から専門の職人を5、6人雇い入れては家に泊まらせ、仕事場まではマイクロバスで運んでいました。仕事場で木に登るときには、アイゼンのようなものを靴に装着し、球果を入れる袋を腰に下げていました。また、国有林での作業中には、許可業者であることを示すために『橘種苗店』という看板を掲げていたことを憶えています。
 林には50年生でも大きく生長していない木や、風に直接当たる場所でもないのに幹が曲がっている木など、さまざまあります。球果を採取するときには、盛栄樹と呼ばれる、立派に枝が張って、真っ直(す)ぐに生長した木を選んでいました。私は、樹木の生長には遺伝子が影響すると考えていたので、盛栄樹から球果を採る、というようなところまで気を使っていました。
 採取した球果は、唐箕(とうみ)を使って不必要なものを取り除き、公民館に広げたシートの上で熟成させました。一月くらい置くと球果が熟して割れ、種が出てくるので、この種を直接販売することもありました。当時は値段が良く、1升が3千円か4千円くらいで売れたので、1年に何tもの球果を採取していました。また、苗として売るために、畑に蒔(ま)き、1年間に何十万本もの苗を育てました。種を蒔くと、1年で3cmから5cmに生長します。それを植え直してもう1年生長させ、30cmか40cmの大きさになるまで育てるので、種を採ってから販売できるようになるまでに、2年間必要でした。当時は苗1本が30円から40円で売れ、県内はもちろんのこと、島根県の方まで送ったこともありました。王子緑化(現王子木材緑化株式会社)が広見(現鬼北(きほく)町)に植林している何十町歩もの古い造林は、全て私のところの苗を使っています。
 育苗の仕事とともに、造園業も営んでいました。私の父は、用材を伐った後の『山の緑化』に続いて、工場緑化や街の緑化が進み、花木の需要が増す、と考えたようです。当時は、マキの木やウバメガシを2町歩(約2ha)の広さの田んぼに植えていたことを憶えています。花木を植えて育て、庭園樹や公園樹として売り込み、国道や県道の緑地帯を始め、野村ダムの堤の緑化、南楽園の造園も父が手掛けました。
 土木工事や舗装工事などの工事種別がありますが、『造園工事』という種別を立ち上げたのは、父や同業の仲間たちでした。もし、それがなければ、入札に際しては元受けとして仕事を取ることができず、土木工事の下請けとしてしか仕事ができませんでした。
 このように、造園業者の集まりの世話をしていた父は、ほかにもPTA会長や津島町の教育委員、保護司も務めていました。教育委員を務めていたときには、営林署の山を30町歩(約30ha)ほど借り受けて、学校林を造林しました。横吹に造林して50年ほど経(た)っており、伐ることができる木に生長しているので、学校のために使ってもらえれば、と思っています。」

イ 浄化槽

 「緑化の必要性を唱えていると、世の中のいろいろな所の緑化の大切さや、浄化の大切さにまで人々が気付いてくれます。海や川が汚い現状で、何が必要かということを考えたときに、私(Dさん)は『浄化槽だ』と思いました。松山のような都会であれば下水道が整備されていきますが、田舎にはなかなか整備されないので、私は、『全国規模で考えると、小さな浄化槽が絶対に必要で、川の緑化や環境緑化につながっていくことから、仕事としてやっていけるのではないか』と思い、昭和48年(1973年)、私が30歳のときに橘産業を立ち上げました。
 従来の浄化槽は、コンクリートで造られていました。型枠にコンクリートを流し込んで造られるので全てオーダー品のようなもので、コストダウンができませんでした。さらに、設置に日数が必要で、内部の複雑な構造も造ることができないという欠点がありました。これらの欠点を補うために、プラスチック製の浄化槽を製造したのです。プラスチックであれば工場で形も自在に生産でき、軽くて運搬しやすい上に、コンクリート製に比べれば、設置の作業が簡素化できました。
 私が浄化槽の製造を始めたころに比べると、今の浄化槽はさらに性能が良くなっています。現在は、特別な圧縮機械で打ち抜いて製造するので、浄化槽の専門業者の方が、『車が載ったって割れやせんのじゃ。コンクリみたいなもんぞ。』と言うほどです。
 会社を立ち上げたころには、広島県のセントラル硝子という会社からガラスマットを仕入れ、それを型枠に貼り付けて、樹脂を塗っていました。ほぼ完成品の状態になるように、一つのセットとして造り上げていきますが、一番大切なことは水が漏れないように造り上げることでした。5人槽や7人槽など、種類によって大きさが異なりますが、5人槽でも軽自動車くらいの大きさがあります。その大きな槽の中に水を入れて、浄化槽を叩いてみると、貼り付けたガラスが薄い部分があったり、継ぎ目の防水が不十分であったりと、問題が出てくることがあり、検査で水漏れが発生すると、本当に大変な思いをしていました。
 浄化槽の製造は、手作業で力仕事ではないため、一部を除くと女性でもできる仕事で、男性の担当者が3人か4人程度いれば進めることができていました。しかし、樹脂を塗ったり、それが固まれば形の微調整のために削ったりと、大変な作業もあったので、困惑している従業員もいました。」

ウ 地域の産業として

 「大変な作業に納得して従事してもらうために、週に1回はミーティングを行っていました。『これが原因で、あのようなことが起こっている。だからこのように改善しよう。』と話し合い、経営者として、1人でも多くの従業員に会社の方針を理解してもらうように努力をしていたのです。
 仕事を始めてから5年くらいが経って、会社の経営が軌道に乗ったので、縫製工場も開業しました。地元には労働者となり得る若い女性が多くいたことや、縫製の仕事は大変な作業を伴わない仕事であるというイメージがあり、そのような仕事を求めている方がいたことも、きっかけの一つとなっていました。
 開業には全部で1千万円くらいの初期投資を行って、1台が30万円くらいするミシンを20数台導入しました。従業員も多いときは20人以上いましたが、最初はあまり大きな利益を上げることができませんでした。私(Dさん)の会社は浄化槽も手掛ける総合メーカーだったので、縫製工場が計上する多少の赤字は、当時比較的利益を上げていた浄化槽工場から補塡していました。会社全体の年商は億単位だったので、それなりにお金を回すことができていたのです。しかし、当時は材料費が高いこともあって、年商が大きくても手元に残すことができる利益はそれほどでもありませんでした。
 浄化槽と縫製の会社を合わせると、最盛期には40人から50人の従業員を雇っていました。この小さな地域で橘産業に関わりがない人がいない、というくらい大勢の方に来てもらいました。当時は、地域の方々が、『橘へ行ったら、お金(給料)もらえるけん。』と言っていたことを憶えています。私の会社では給料の支給が遅れたことは一度もなく、年末には月2回の給料とボーナスとで3回の支給を行っていました。会社が少しでも利益を上げると、その分から積み立てを行って退職金も支給できるようにしていました。自分だけが利益を上げたのではなく、地域のための仕事を行っていたのです。利益の追求が第一ではなく、地場産業として地域のために仕事ができ、それが何十年と続いた、ということなのです。平成に入ると、浄化槽製造の拠点が中国に移ったことで、それを機会に会社をやめました。また、縫製は、バブル崩壊期を乗り越えましたが、今から10年ほど前にやめてしまいました。
 今は会社をやめてしまいましたが、『当時は仕事があって良かったな。』と言ってくれる地域の方がいます。私としては、地域の皆さんと一緒に歩んできた、というように感じています。」

 (2) 子どもの生活

ア 学校の思い出

 (ア) 通学

 「雨が降ると、私(Dさん)の祖父が納屋で藁(わら)を叩いて草履を編んでくれていました。小学校3年生のころまでは草履を履いて学校へ通っていたので、たくさん編んでもらったことを憶えています。当時、冬になると、この辺りではよく雪が降っていました。雪が積もった日には、学校へ行くときに足元を濡(ぬ)らさないように、先に歩いた人が通った跡をたどりながら慎重に歩いていたことが思い出されます。その後、藁草履からゴム草履へと変わり、そして運動靴が主流になってきましたが、雪の日に便利なゴム長靴は、6年生のころにやっと買ってもらえたと思います。傘は、ほとんどの子どもが持っていなかったと思います。雨が降る日には、傘を持たない多くの子どもが濡れながら学校へ行っていたことが思い出されます。」

 (イ) 新しい校舎

 「昭和30年(1955年)、私(Dさん)が小学校6年生のころには建設されていた鉄筋の新しい校舎が落成し、落成式が行われました。落成式では中学校3年生と小学校6年生の全員が屋上に上がり、そこで落成の祝辞などを聞いたり、餅まきを行ったりしたことを憶えています。鉄筋の建物自体がとても珍しく、当時のことをよく憶えています。また、建設中に掲げられていた、竹中工務店のマークも印象に残っています。」

 (ウ) 修学旅行の資金

 「昭和30年代の中ごろのことです。私(Eさん)たちは、修学旅行へ行くのにリンドウの花を集めて販売したり、田植えを手伝ったりして得たお金を修学旅行の資金にしていました。
 当時は、ほとんどの家が茅(かや)葺き屋根だったので、地域内には茅場がありました。その茅を育てるために、秋には茅場を焼いて春に新しい芽が出やすくしていました。地域の方が大勢集まって、火道を切り、火を把握できるようにしてから火を点(つ)けていきました。また、火が燃え広がって火事にならないように、火の番も行っていたことを憶えています。このように茅場を焼くことで、春になると、ワラビなどさまざまな草木が生えて、その中にリンドウの紫色のきれいな花が咲くのです。
 そのリンドウを私たちが集めて販売し、修学旅行の資金としていたのです。販売するといっても自分たちで売るのではなく、学校へ持って行くと、それを先生が集めてくれていたので、どこで売られていたのかは分かりませんでした。」
 「私 (Cさん)たちも小学校6年生と、中学校3年生のときに、修学旅行の資金として使うということで、『お田植え』を行っていました。6年生のときにはあまり遠くへは行かず、中学校3年生になると、大本や犬除の方の田んぼへ行ったり、御槇一円の田んぼへ行ったりして、お田植えを行っていたことを憶えています。いただいたお金がどれくらいなのかは分かりませんが、修学旅行の資金として学校が管理してくれていたようです。後から聞いた話ですが、当時は自給自足のようなくらしを送る農家が多かったため、現金の持ち合わせがなくても子どもたちが気兼ねなく旅行に行けるように、との配慮として行われていたそうです。」

イ 子どもの遊びの思い出

 (ア) 雪遊び

 「最近、この地域にはほとんど雪が積もりませんが、昔は雪が多く、まるで雪国のようだったことを私(Eさん)は憶えています。当時は、雪が降ると坂道をキンマ(木馬)で滑って遊んでいました。何回も滑ると坂道に積もった雪が氷のように固まっていたので、さらによく滑るようになり、楽しかったことを憶えています。」
「私(Cさん)もキンマで遊んで、道をツルツルの状態にしていたので、家の人がそこを通って滑ると、『ツルツルにしてしもて。』と、怒られていました。雪が積もると、子どもが遊ぶには良いのですが、雪が降り続いて大人たちが仕事もできないことがあったことを憶えています。」

 (イ) 川遊びと魚獲り

 「私(Eさん)は、川でエビやウナギ、毛ガニなどを獲(と)ることが好きでした。毛ガニが潜んでいる所は、土を見れば分かります。毛ガニの前方から捕まえようとするとハサミで挟まれてしまうので、毛ガニの死角となる後方から上手に捕まえていました。
 また、当時はウナギも獲っていました。川の水が少ない方へ網を受けておき、ウナギがいそうな少し深い所から追い込むようにしていました。網は、小さな子どもが遊ぶときに使うようなものでしたが、それでも獲ることができていました。
 夏になると、川で泳いで遊んでいました。水がとてもきれいで水量も多かったことを憶えています。今では川の様子も変わってしまい、泳ぐ場所もなくなりました。また、魚が棲(す)む『淵(ふち)』などもなくなってしまいました。道路などの工事を行うと自然と川の流れも変化するもので、林道を造ったときを境に、川が随分と変わったと思います。さらに、ダムが建設されたことで、ウナギがいなくなったのではないかと思います。今ではエビも毛ガニもいなくなってしまいました。」

 (ウ) 「ハゴ」と「ワサ」

 「私(Dさん)が子どものころには、友達や五つ年下の弟と、山に『ハゴ(ハンゴともいう)』を仕掛けに行っていました。
 当時の山は雑木林が広がっていたので、カシの木やハゼの木など、いろいろな木が生えていました。『ハゴ』は、その雑木の適当な枝先を曲げてバネ状にし、その前に餌置き場を設けてその周りを囲い、小鳥が一方からしか入れないようにしておきます(写真1-2-14参照)。バネにした先には、横棒Cを取り付け、地面すれすれに留めている横棒Aの下を一度くぐらせます。横棒Cは枝先を曲げた先に付いているので、手を離すと戻ろうとして下に落ち、横棒Aと横棒Cがきつく合わさった状態になります。横棒Cを鳥が入るくらいの高さまで引き上げ、『チンチロリン』と呼んでいた縦の棒と、横棒Bとをうまく調節して、チンチロリンに横棒Cを引っ掛けて落ちてこないようにします。縦棒のチンチロリンも枝の先とひもで結ばれているので、上に上がろうとする力が働いていて、さらに、チンチロリンの下方の先は、手前に向かう力が働いていているので、その力を利用して横棒Bを留めています。それぞれの力の関係を上手に調節して、風が吹いても外れず、鳥が横棒Bを踏んだときに、チンチロリンの支えが外れて、上から横棒Cが落ち、鳥の首を挟み込むように仕掛けるのです。
 『ハゴ』を使って、ハトやヒヨ、モズなどが獲れました。山の中ではヒヨなどがよく鳴いていたので、たくさんいたと思います。小学生から中学生のころまで、ハゴを使ってよく遊んでいました。獲った鳥を食べるも楽しみの一つだったことを憶えています。学校の裏山に仕掛けを作り、昼休みに友だちとその場所へ行っては、鳥が掛かっているかどうかを確認していました。多いときは学校裏だけではなく、山の中に6丁ほど仕掛けておき、それを一つ一つ確認に行っていました。掛かっていたら毛を抜いて捌(さば)いて焼いて食べたり、生きていたら手に持って遊んだりしていました。
 ウサギの『ワサ(輪差、ワナのこと)』も仕掛けました。細い針金で輪を作り、その仕掛けを木に付け、ウサギがそれに引っ掛かると首が締まりました。首が締まるだけではなく、ウサギが暴れると持ち上がるように仕掛けていました。当時は普段の食卓に肉がなかったので、獲ったウサギも食べていました。『ワサ』にはヤドリやキジなども引っ掛かっていました。キジやウサギが通る『ケモノ道』を探し出して、そこに『ワサ』を仕掛ける、私たち子どもにとっては自然を相手にしたレクリエーションであり、遊びでした。」

 (エ) 木の実採り

 「私(Cさん)は、秋になるとシイの実を拾いに行っていました。シイの実拾いは夜明け前の暗いうちから歩いて行って、県境を越えたところの高知県の出井や、その周辺の大平、笹平辺り(現宿毛市)まで採りに行き、そこへ行くと大きな実から小さな実まで、たくさん落ちていたことを憶えています。シイの実は完全に実が入ると黒くなり、皮から外れて落ちてきます。落ちてきた実の中に育ちの悪いものもありますが、実が十分に入っていないものは、手に取れば分かりますし、水に入れると全て浮いてきていました。
 実の入っているシイの実は生で食べてもおいしいのですが、火で炙(あぶ)って食べると、とてもおいしかったことを憶えています。今は食べることはありませんが、私たちが子どものころには間食として一番大切なものだったことが思い出されます。」
 「私(Eさん)の家のすぐ傍(そば)には、シイの木がありました。シイの木のすぐ下には溝があり、シイの実がそこに落ちると、未熟な実は全て水に浮いて流されてしまい、実が十分に入っているものだけが流されることなく溝に残っていたので、非常に都合の良い場所にあった、と言えます。子どものころには、水に沈んでいるシイの実を採って帰ったものですが、今は誰一人として見向きもしません。落ちているシイの実を見ても、いつ熟れていつ落ちたのかが分からなくなってしまい、今の生活には季節感がなくなってきた、ということなのかもしれません。」

 (オ) 河原飯

 「私(Eさん)には、地元の山河で遊んだ中で、『河原飯』がとても楽しい思い出として残っています。お盆やお祭りのときなどに、子どもたちが、『明日は河原飯に行くぞ。』と言って集まっていたことを憶えています。中学生くらいの方がリーダー役を務めて、参加する子どもの役割を決めたり、炊事の準備や指図をしたりしていました。誰が何を持って来る、というような決まりはありませんでしたが、お米やカボチャ、ナスビ、キュウリなどの野菜が持ち寄られていました。また、河原で獲ったエビやカニなども持ち寄られていました。河原飯では、お米を飯ごうで炊き、エビやカニは茹(ゆ)でて、地域の子どもたちだけで食べていました。今、思い出すと、とても楽しい一時でした。」


参考文献等
・ 林繁利『陸軍特攻隊振武桜隊員山路實大尉の記』1966
・ 防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』1970
・ 津島町『津島町誌』1975
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『愛媛の地域調査報告集(二)』1990
・ 櫻井隆ホームページ http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/

写真1-2-14 ハゴ

写真1-2-14 ハゴ

令和元年11月撮影  Fさんが説明用として作ったもの。