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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業17ー宇和島市①―(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 遠い記憶

ア 陸軍飛行機の墜落

 昭和20年(1945年)5月14日11時57分に福岡の基地を飛び立ち、宮崎東方の敵空母群に向かった山路實少尉の飛行機は、無念にも12時30分ころ御槇の押谷山に撃墜された。
 当時、その様子を目撃した方々から、話を聞いた。
 「戦争中、私(Cさん)はまだ幼かったのですが、学校前の細い道路で、生徒が『バンザイ。バンザイ。』と言って、召集されて戦地に行く方々を見送っていたことを憶えています。その道路は、まだ舗装もされておらず、車も通らない道でした。私の父も召集の際には同じようにして見送られました。また、母はモンペ姿に竹槍を持って、『ヤーッ。ヤーッ。』と大きな声を出しながら、一生懸命に訓練をしていたことを憶えています。
 そのような時代に、陸軍の飛行機が米軍飛行機に追撃され、後ろからの攻撃を受けて篠山の近くで墜落しました。そのときは、とても大きな音がしました。
 大きな音が響いた後、御槇一円から大勢の人が集まって、墜落した飛行機の捜索を行いました。ただ、男性は多くが兵隊に行っていたので頭取を務める方くらいで、集まったのは大抵が女性でした。山の地理に詳しい人たちが行ったのだろうと思いますが、1日目、2日目とも見付けることができず、3日目になってやっと、篠山の押谷山で『おったぞ。』という叫び声が聞こえました。発見された搭乗員さんの御遺体は、源池公園の弁天様の所にあるマツの木の近くで荼(だ)毘(び)に付されました。発見された場所には後に碑が建てられた、と聞いています。」
 「私(Bさん)はそのとき、自宅横で母と畑仕事をしていました。すると、上槇の方角から2、3機の飛行機が追い掛け合いをしながら飛んで来て、ちょうど私たちが耕していた畑の真上の辺りを通って行きました。そのときに、追う側の米軍機が逃げる陸軍機を機銃で後ろから撃ちました。すると陸軍機の機体全体が真っ赤に燃え、機体が木の葉のように揺れながら、山に落ちていくのを見ました。そのときは、陸軍機が米軍機を撃ち落としたものと思って、『やったぞ。』と、声を上げたことを憶えています。
 耕していた畑と道を挟んだ向かいの田んぼには、撃ち出された弾の薬きょうが端から端まで筋になって落ちていました(写真1-2-2参照)。薬きょうは、二つを付けた上に一つ載せ、鉄で接合されたような形状でした(弾帯が三つ分丸まり、『品』の字のようになったものと思われる)。私はそれを拾い集めて、『こんなんで撃たれたんじゃ。』と、母と話したことを憶えています。
 敵機を撃ち落としたと思っていたので、父は、『敵が生きとったら撃たないかんけん。』と言って鉄砲を手に山へ入り、3日目にやっと見付けることができたと思います。私も父に墜落場所へ連れて行ってもらい、そのとき初めて飛行機を見て、『時計がたくさんある機械じゃ』と思ったことを憶えています。」
 「私(Dさん)は、搭乗員さんのお葬式のときには、母親に手を引いてもらい、日の丸の旗を手に持って参列しました。当時はまだ幼かったので記憶があまりないのですが、火葬場へ行く道には水溜(たま)りがたくさんあり、それを避(よ)けながら歩いたことが印象に残っています。舗装されていなかったので、雨が降ると3日から4日の間は水溜りが残っていました。たくさんあった水溜りを避けて源池公園へ行き、荼毘に付される搭乗員さんを拝んだことが強く印象に残っています。」

イ 老舗の様子

 (ア) 造り酒屋

 「私(Fさん)の母が話してくれた昔話ですが、母が嫁いで来たころには造り酒屋があったそうです(図表1-2-2の㋐参照)。そこにはお酒が大好きなお母さんがいて、昼間でもお酒を飲んでは左右で違う履物で外へ出て平然と歩いていた、というような女性だったそうです。
 そのころの造り酒屋は裕福だったでしょうから、とても大らかに生活されていて、『少々のことは、かまん(構わない)。』というような感じの、肝っ玉母ちゃんだったそうです。」

 (イ) 庄屋の分家

 「造り酒屋の隣には、吉良の庄屋さんが建てた分家がありました(図表1-2-2の㋑参照)。外見はそれほど派手ではありませんが、中2階に上がるととても贅(ぜい)沢(たく)な造りをしていることがよく分かります。一般的な家であれば、1間(約2m)ごとに梁(はり)がある程度ですが、それが半間ごとにあるので、梁がこれほどたくさん必要か、と思うくらいです。
 登記簿によると、明治21年(1888年)に建てられたと記録されていますが、使われているマツ材からは、今でも脂(やに)が出ています。脂が出なくなると虫食いが激しくなるそうですが、今でも脂が出るこの建材は、これからも長持ちするのではないかと私(Fさん)は思っています。
 また、棟上げのときの飾りが残されています。現在であれば、大工さんが棟上げのときに白い紙を挟み入れてボンデンのようなものを作り、孟宗竹(もうそうちく)の上に飾ります。しかし、この家では2mくらいの矢でしょうか、先が刺股(さすまた)のような形をした、木で作られているものが残されています。新築のときにそれが掲げられたのでしょう。中2階の天井に縛り付けられて、棟札と一緒に飾られたようになっています(写真1-2-3参照)。建てたときは威勢が良く、紙ではなく材木で作ったのだと思われます。」

 (ウ) 3階建ての旅館

 「庄屋の分家の斜め向かいには、堀川旅館という旅館がありました(図表1-2-2の㋒参照)。現在の方の先々代の方が建てて、戦前からあったと思うのですが、3階建てで庭も含めるとそれは立派なもので、一番賑(にぎ)やかな所だったということです。昭和30年(1955年)ころまでは確かにあったので、昭和40年(1965年)過ぎまでは営業していたのではないかと思います。しかし、そのころには2階建てに改装されていて、私(Fさん)が憶えているのは2階建ての姿です。その後、その家は犬除の三本松へ移築されました。使われている建材がとても良いものだったので、それを活(い)かすために建て直したそうです。
 その家の方に、当時、なぜこの集落に旅館が3軒もあり、それがなくなってしまったのか尋ねたことがあります。すると、『道の便利が良くなったからなくなった。』と答えてくれました。今は松山(まつやま)へ行くにも日帰りが可能で、宇和島は通勤圏となりましたが、昔は泊まりが必要でした。また、林業の仕事でこの地域に来られる季節労働の方のための宿も必要だったのです。」

 (2) 町並みと各店舗

ア 一の鳥居付近

 (ア) 一の鳥居

 「現在の農協から南へ行く道の所に、篠山神社の一の鳥居が建っていたことを、私(Cさん)は憶えています(図表1-2-2の㋓参照)。ここから御槇神社を通って槇川に抜け、しばらく細い道を行き、山に入って秡川温泉、九十九曲がりという道を通って山頂に行きます。今は車で行くので、この道を通ることがありません。
 一の鳥居が建てられる重要な場所だったので、奉納相撲も行われていました。現在、小学校で行われている篠(ささ)相撲は、農協から数軒入った右側の土俵で行われていました(図表1-2-2の㋔参照)。」
 「私(Fさん)は、地域で大切にされるべきものが、大切にされていないことが残念でなりません。昭和22年(1947年)か23年(1948年)ころまでは木の鳥居があり、寄付者の銘板も建てられていましたが、鳥居を撤去したときに銘板も撤去してしまい、現在は以前に駐在所があった所の裏手に放置されている、という状態になっています。(写真1-2-4、図表1-2-2の㋕参照)。」

 (イ) 役場付近

 「私(Cさん)が小学生のころはまだ戦後間もないころで、農協が現在の場所に建てられる少し前に、現在の郵便局裏にあった役場が移転しました(図表1-2-2の㋖参照)。農協の向かいから役場に入る道の角には駐在所があり、その裏側には駐在の官舎がありました。駐在所の奥には森林組合などの建物があり、さらに奥の建物には会議室があって、各地区から1名ずつ選ばれた12名の村会議員による会議が行われていました。」

 (ウ) 鳥居周辺の店

 「私(Eさん)は、農協と参道を挟んだ向かい側に、『お菓子屋』という屋号の店があったことを憶えています(図表1-2-2の㋗参照)。瓶のような容器にお菓子が小分けされて並べられて販売されていました。しかし、お菓子を買うことは何か特別なときで、普段は近くにあった木に実ったカキやクリをおやつにしていました。」
 「私(Cさん)は、『お菓子屋』から1、2軒入った所の『曽我屋』という飲食店に通っていました(図表1-2-2の㋘参照)。2階は旅館として使われていて、宿泊もできました。『ユキおばちゃん』という方が経営していて、この辺りの人の多くが仕事帰りに立ち寄っていました。
 ほかにもお酒を出す店が数軒あり、案外と繁盛していたことを憶えています。夜になると、飲み過ぎてふらふらと歩く人がいたり、道の側(そば)に転んで寝る人がいたりと、そのような人が大勢いる、というような時期があったことが思い出されます。」

イ 福田商店

 Gさんは、大阪から御内に移住をしてきて、本業の傍ら旧福田商店でオーガニック商品などを販売している(図表1-2-2の㋙参照)。Gさんが地域の方から聞いた、旧福田商店の様子について話してくれた。
 「この建物は、明治40年(1907年)に建てられた、と聞いていて、80歳くらいのお年寄りが、『私の祖父が建物に使う木材を山から伐(き)り出してきた。』と言っていました。建材にはベンガラと柿渋が塗られているだけなので、雑巾で拭くと今でも赤い染料が付着します。この建物が建てられたときには、福田商店は既に営業を始めていたそうですが、百貨店のような多くの商品を販売する店は、村に1軒しかなかったそうです。日用品から食料品と多くの品が、また、大きな樽(たる)が置かれていて、味噌(みそ)や醤油(しょうゆ)は量り売りだったと聞いています。
 店内のカウンターは、お客さんにお酒を提供するためのものだったそうです。立ち飲みか、もしくは樽や簡易な椅子を用意して、適当に座って飲んでいたのではないかと思います。福田商店の話ではないと思うのですが、この集落で営業していた飲食店では付け払いを受け入れていましたが、付けを払ってくれないお客さんがいたこともあって経営が難しかった、という話を以前に聞いたことがあります。季節労働で他所(よそ)から来ていた方が多かったからかもしれません。
 2階は田の字型の部屋になっていて、ふすまを取ると30畳くらいの大きな部屋になるので、結婚式や大勢が集まって会合を行うときなどの会場貸しをされていたそうです。また、近所の方が、『その部屋には立派な金屏風(びょうぶ)があって、その前で結婚式を挙げていた。』という話をされていた、と聞いています。箱膳など、宴会のための道具も全て揃(そろ)っているので、会場として使いやすかったのではないかと思います。
 また、地域のお年寄りの方に話を聞くと、『みんなここに買い物に来ていた。』と言われます。バス路線の終点でもあったので、『バス待ちをしていた。』とか、『回数券をここで買った。』という話もよく聞きます。
 店内の通路部分の土間にできた土の盛り上がりは、お客さんの靴の裏に付着してきた土でできたものです(写真1-2-6参照)。カウンターの前が一番盛り上がっていて、つまずいてしまう方がいますが、それでも、『長い年月をかけてお客さんが持ってきてくれたものだから、削ってはいけないよ。』という、元々の店主の方の思いもずっと受け継いでいく必要があるのではないかと思い、今もそのまま残しています。これは、商売人としてのとても面白い話だと思っています。これだけ土が盛り上がるというのは、道路の舗装も当然されていないし、多くの人が山仕事や農作業をされていたことが大きく影響していると思います。今は人々の生活環境や生活様式が変化して、土間の土が盛り上がっていかないので、寂しさを感じるところがあります。」

ウ 藤原衣料店

 (ア) 衣料店の開店と結婚

 「私(Aさん)の店の建物は、元々はお豆腐屋さんの方が全て所有していました(図表1-2-2の㋚参照)。正式な旅館というわけではありませんが、『ちょっと泊めてや。』と言うお客さんを2階の部屋に泊めていました。その後、その建物の半分を売却するという話があったときに、私の夫の親が購入してくれたので、夫が宇和島から戻り、昭和31年(1956年)に店を始めました。その後、私が23歳のときに結婚をして、この家に来たのです。
 結婚はお見合いでしたが、夫は以前に見掛けて知っていた方でした。私が宇和島の洋裁学校へ通っていたとき、夫は宇和島の店に勤めていました。勤めといっても、昔は住み込みの店員さんのようなものだったので、私が通学で店先を通るときに、朝早くから掃除をしたり、晩も遅くまで店の片付けなどをしたりする姿を見て、『あの人は、いよいよ仕事しの(よく仕事をする)、ええ人じゃな』と思っていました。そのときは名前も知らずにそのままになっていましたが、見合いをしてみるとその方だったのです。」

 (イ) オーダーメイドの衣料店

 「私(Aさん)は嫁いで来た当初から、縫物の仕事をしていました。衣料店とはいっても、現在の衣料店のように既製品を販売する店ではありませんでした。当時は既製品の服が少なく、ほとんど全てお客さんの寸法を測って型紙を取り、縫い上げた服を販売していたのです。
 私は洋裁学校へ通っていましたが、1年間で洋裁と本科というように何もかも学ぶような科目構成で、家の事情で何年も学校には通えないこともあって洋裁を完全に習っていない、ということが一番大変なことでした。洋裁科であれば、6か月の課程で洋裁だけを教えてもらえますが、本科に入ったので、洋裁以外にも多くの科目を学ばなければならず、学んだ科目はどれも中途半端な状態になってしまい、仕事をするにも苦労しました。技術力を上げるために、学校で書いたノートを見返しては勉強し、中学校のセーラー服や津島高校の制服、普通のブラウスやワンピースと、何でも縫いました。お客さんの寸法を測って型紙を取り、仮縫いをしてから試着してもらい、もしも太いや小さいなどの不具合があれば縫い直す、ということの繰り返しでした。納品日が決まっている上に、日中はお店にも出ないといけなかったので、夜も寝ないで縫わなければならず、何をするにも大変で、苦労したことを憶えています。」

 (ウ) 徹夜仕事の毎日

 「私(Aさん)は、頼まれたものはほとんど縫っていました。少しでも多く売りたいので、一度にたくさんの注文を受けることがありますが、学校の制服などは御槇のほとんどの人から頼まれていたので、後回しになるものも出てくることがありました。そのようなときには、徹夜をして縫い上げ、朝になってからお客さんの家へ夫が単車で持って行くことがありました。それくらい仕事が忙しく、とても大変だったことを憶えています。
 徹夜の仕事で一度だけ失敗をしたことがあります。朝まで縫っていて、袖の裏地を反対に付けてしまったのです。服を届けると、『腕が入らん。』と、すぐに苦情が来たことが思い出されます。しかし、大きな失敗はそれだけだったのではないかと思います。
 服ばかりではなく、カーテンも注文を取って縫っていました。カーテンを縫う仕事は服に比べると容易でしたが、かかる時間はあまり変わりませんでした。」

 (エ) 仕入れ

 「仕事で使う糸などは宇和島まで買いに行くこともありましたが、ほとんどは糸も含めて問屋さんから仕入れていて、私(Aさん)の家には今でも当時使っていた糸が残っています(写真1-2-7参照)。問屋さんは自転車で営業に来ていましたが、その後単車になり、さらに車での営業になりました。商品の見本などを持って来ていたので、それを見せてもらって注文をすると、運送業者が注文した商品を配達してくれていたことを憶えています。」

 (オ) 資金繰り

 「当時は今よりも多くの人が住んでいて、衣料品店がない槇川や犬除からもお客さんが来てくれていたので、経営は順調でした。ただし、お客さんに来てもらうにはサービスをしなければならず、嫌な顔をすることなくにこやかに接していかなければならなかったことが思い出されます。
 私(Aさん)の店は経営が順調だったとはいえ、今現在、普通に生活ができるくらいです。店となる建物こそ親が買ってくれていましたが、資金がない状態で始めた商売だったので、スタートから借金があったのです。銀行で借りた資金の返済を月々確実に行い、その上、仕入れた問屋さんにも支払うと、手元に残るお金は僅かなもので大変でした。少しでも収入を増やすには、徹夜で仕事をしなければなりませんでした。」

 (カ) 既製品販売への移行

 「昭和40年代になって、私(Aさん)の店でも既製品を売り始めました。型紙も取る必要がなくなったので、仕事が随分と楽になったと思います。既製品は袖や丈がお客さんのサイズに合わない場合があったので、その場合は適切なサイズに直してから買ってもらっていました。また、既製品の服は私が縫って作るよりも流行が取り入れられてセンスが良かったのでお客さんにも勧めやすく、売ること自体が楽で、商売としては良くなりました。」

エ 公民館

 「昭和30年(1955年)に設立された公民館は、白くて大きな建物を使っていて、その後、何回かは建て替えられたと思います(図表1-2-2の㋛参照)。公民館とはいえ、当時は演劇や芝居、映画の上映などが行われていたので、娯楽施設としての側面があったと私(Dさん)は思います。
 芝居が行われて女性が晴れ着で舞台に立つ姿を見ると、『きれいだな』と思っていました。芝居や映画は、現代劇よりも討ち入りものなどの時代劇が多かったと思います。」
 「私(Eさん)は、題名をはっきりと思い出せませんが、松島トモ子が演じる子どもが継(まま)母にいじめられるシーンを観(み)たと思います。その子どもがとてもかわいそうで、泣いてしまったことを憶えています。」
 「私(Bさん)は、学生のときに公民館へ観に行った、『哀愁列車(歌は昭和31年〔1956年〕発売、映画は昭和32年〔1957年〕封切り)』が印象に残っています。ものすごく人気があった映画で、今でも映像が思い浮かんでくるほどです。当時は鍛冶屋さんが主催者となって、映画の上映を行っていたと思います。」
 「公民館では、比較的多い頻度で映画や芝居が行われていましたが、私(Aさん)は店での仕事があったので、めったに観に行くことはありませんでした。
 二葉百合子さんが浪曲の実演で2回ほど来たことがあり、そのときにはキヌヤ食堂で宿泊をしていました(図表1-2-2の㋜参照)。恐らく、御内には既に旅館と呼べる施設がなかったのだと思います。」

オ そのほかの店

 (ア) キヌヤ食堂

 「私(Aさん)が嫁いで来たときには、キヌヤ食堂では魚も販売されていました。食堂のおじいちゃんが、毎日自転車で岩松まで仕入れに行っていたことを憶えています。トロ箱を自転車の荷台に積んで行き来する程度だったので、仕入れてくる魚はそれほど多くはなく、アジなどの一般的な魚ではなかったかと思います。おじいちゃんが仕入れてきた魚を、食堂でおばあちゃんが料理にして出していました。食堂には山仕事の方など、他地域から来ている方たちがお客さんとして来ていたのではないかと思います。その方たちがお酒をたくさん飲んで、とても賑やかだったことを憶えています。」

 (イ) 鍛冶屋

 「鍬(くわ)や鎌、ヨキ(小型の斧(おの))などは、山本さんという方が経営する鍛冶屋さんから購入していました。福田商店の横に雑貨屋さんのような店があり、その裏の鍛冶場で鉄などを打っていました(図表1-2-2の㋝参照)。私(Dさん)が子どものころには、鍛冶場へ行って作業の様子を眺めていたことを憶えています。火に入れて真っ赤に焼いた鉄を叩(たた)いて、鎌などを作っていたことが思い出されます。村で生活していく中で必要なものは作っていたと思います。
 ヨキや柄鎌などを使って、刃が小指くらいの大きさに割れると、鍛冶屋さんへ行って、『この店で作ってもらったものだから直してほしい。』と言って、直してもらっていたことを憶えています。」

 (ウ) 音無食堂

 「郵便局の斜め前の辺りには音無食堂があり、そこは旅館としても営業していました(図表1-2-2の㋞参照)。私(Dさん)が小学校3年生くらいのころ、その食堂で妹たちと食べた氷がとてもおいしかったことを憶えています。うどんなどもメニューにあったと思いますが、私は、その食堂で氷以外を食べたことがないと思います。ただ、氷を食べることが楽しみだったのです。」

 (エ) 郵便局

 「当時は、郵便局の中に電話交換台があったので、私(Aさん)の夫は郵便局へ電話交換の仕事に行っていたことがあります(図表1-2-2の㋟、写真1-2-10参照)。勤めるという感じではなく、『今日、休んだ人がおるけん、代わりに来てや。』という程度のことでした。当時の郵便局には、若い職員が3、4人と局長さんの5人くらいがいたと思います。
 夫が仕事を手伝ったことで郵便局の方と親しくなり、休みのときなどには私の店に来て、夫と花札などをして過ごしていたことを憶えています。
 そのような御縁があって、昭和55年(1980年)に郵便局が現在の場所に移転すると、清満(現宇和島市)から来ていた方が定年退職したということで、夫が郵便車に乗る仕事を始めました。郵便車の仕事では、朝早く起きて宇和島まで2往復していたようです。このため、衣料店の仕事は私がほとんど行うことになりましたが、朝早くから長時間郵便車に乗って仕事をする夫は本当に大変だったと思います。」

 (オ) 樫本商店

 「私(Cさん)の子どもが散髪をするときには、樫本商店の理髪部を利用させていました(図表1-2-2の㋠、写真1-2-11参照)。樫本家の方が散髪屋さんと結婚をして、樫本商店の理髪部として御内に店を構えていたのです。昭和40年代後半のころには、現在のスズラン美容室の前に移転をして独立したと思います。樫本商店自体は雑貨店というか百貨店のように、日用品などの多くの商品を販売していました。このような商店は樫本商店と福田商店、農協の三つがあり、お客さんはそれぞれの目的に合わせて、都合の良い店で買い物をしていました。」

 (カ) 渡辺食品と樽屋

 「渡辺食品は、何でも屋のような便利な店でした(図表1-2-2の㋡参照)。食料品の販売はもちろんのこと、自転車も販売していて、それに付随するパンク修理などの作業もしてくれ、さらに、一時はガソリンなども販売していました。また、当時は製材の仕事も行っていたと聞いています。
 渡辺食品の西隣の建物では、樽屋さんが営業をしていました(図表1-2-2の㋢参照)。私(Aさん)が嫁いで来たときにはまだ営業をしていて、お客さんから樽の製作を頼まれると作る程度で、たくさん作っておいてたくさん売る、というような販売の方法ではありませんでした。その後しばらくすると、廃業されたと思います。」

 (キ) 行商

 「私(Fさん)は、『ひげ店』と呼ばれていた、立派なひげを生やした男性が、旗を立てて『ひげ店が来ましたよ~。』と声を掛けながら洋服や雑貨の販売に来ていたことを憶えています。この方は、清満の方へも行っていたと思います。私の母から聞いた話によると、下駄や足袋など、本来は右左揃えて販売するものをどちらかの片方だけでも売っていたそうです。お客さんのニーズに細かく応えることで、売り上げを確保していたのだと思います。」
 「学校の前辺りに住み、私(Eさん)の親と親しくしていた女性も行商を営んでいました。服などを大きな風呂敷に包み、それを背負って売りに来ていたことを憶えています。」
 「私(Bさん)は、天秤(びん)棒を担いでイリコを売りに来ていた方がいたことを憶えています。売られるイリコは白い紙でできた袋に入れられていました。当時は1軒の家が1袋買い、小分けにして竹籠に入れ、天井から吊(つ)るしていたことを憶えています。私が子どものときのことで、当時はおやつというものがなかったので、竹籠に入れられたイリコを食べていましたが、親に見付かると叱られることもあったことが思い出されます。」
 「私(Aさん)が嫁いで来たころ、紋日(祝い事、祭りなどの特別な日)になると、清満から肉を売りに来る方がいました。その方は、豆腐屋さんの所で販売していたことを憶えています。そのころ、この辺りには肉を売る店がありませんでしたが、しばらくすると農協が扱うようになったので、そこで購入するようになりました。」

 (ク) 旧来の医術と医院

 「私(Dさん)が子どものときには、歯が痛くなると源池公園の上に住んでいた男性の所へ連れて行ってもらい、そこで『ヤキジン』という、痛い所を焼いて直す処置を受けていたことを憶えています。処置してくれる男性は正式な歯医者ではなかったと思いますが、歯の治療に関する知識が豊富で、とても器用な方だったので、患者さんの処置を行っていたのではないかと思います。
 また、現在の公民館の裏の所には医院がありました。私は、その医院の先生が車を持っていて、専属の運転手さんまでいたことを憶えています。当時、この辺りでは誰も車を持っていなかったので、印象に残っているのだと思います。また、それより以前には、学校の南側にあるお宮の下に病院があった、と聞いています。なぜ集落から離れた場所にあったのか、その理由は分かりませんが、私より年配の方は『避病舎』と呼ぶことがあるので、もしかすると元々は隔離病棟だったのかもしれません。」

写真1-2-2 薬きょうが落ちていた田

写真1-2-2 薬きょうが落ちていた田

令和元年11月撮影

写真1-2-3 屋根裏にある棟上げ飾り

写真1-2-3 屋根裏にある棟上げ飾り

令和元年11月撮影

写真1-2-4 放置されている寄付者銘板

写真1-2-4 放置されている寄付者銘板

令和元年11月撮影

図表1-2-2 昭和40年代の御内の町並み

図表1-2-2 昭和40年代の御内の町並み

地域の方々からの聞き取りにより作成(民家等、表示していないものがある。)

写真1-2-6 福田商店内の土間

写真1-2-6 福田商店内の土間

令和元年11月撮影

写真1-2-7 当時使っていた糸

写真1-2-7 当時使っていた糸

令和元年11月撮影

写真1-2-10 旧郵便局の建物

写真1-2-10 旧郵便局の建物

令和元年6月撮影

写真1-2-11 樫本商店理髪部

写真1-2-11 樫本商店理髪部

令和元年6月撮影