データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 パッチ網漁

 (1) パッチ網漁の始まり

ア 戦前戦後の漁からパッチ網漁へ

 「私(Cさん)は二名(ふたな)村(現四国中央市)の網元の子として生まれました。父はトロール船底引網漁をしていて、戦時中は景気が良く、魚をたくさん獲(と)ったことで表彰されたこともあるほどですが、終戦後、この漁法に規制がかかり、戦前のようにはできなくなりました。馬力制限がかかったり、操業する区域が制限されたりして苦労していたようで、この辺りでは漁ができなかったため、今治(いまばり)から松山(まつやま)の方へ漁に出ていた時期もありました。
 当時、地引網によるイワシ(カタクチイワシ)漁を行っていた網元は、二名に2軒、川之江に2軒あり、妻鳥(めんどり)の浜がある所でも地引網漁を行っていたようです。豊浜(とよはま)(現香川県観音寺(かんおんじ)市)にも1軒地引網がありました。海岸線としては長いのですが、浜のない所では地引網漁を行うことはできませんでした。
 私が小学校3年生だった昭和26年(1951年)に、父は、東町で網元をしていた友人から、『これからパッチ網漁に切り替えようと思っているので、手伝ってくれないか。』と相談を持ち掛けられたようです。その人の親戚は、徳島で機械船を用いてパッチ網漁をしていました。終戦後、トロール船を自由に使えなくなり、生業で船を活(い)かすことができないか考えていた父は、積極的にその話に乗ったようです。最初は徳島へパッチ網漁の方法を教わりに行っていました。パッチ網漁の利点は、何といってもイワシを獲ることのできるチャンスが多くなり、漁の時期も長くなったことです。地引網漁では、イワシが陸の方に寄ってこなければ網で囲むことができませんが、パッチ網漁では、船で沖に出ているため、沖を回遊しているイワシも網で囲むことができるからです。」

イ 初期のパッチ網漁

 「船長10mから15mくらいで漁具だけを積んだ動力のない船を網船と言い、パッチ網漁を始めた年は2隻の網船を動力船が引っ張って沖に出ていました。イワシの群れが現れると、海面が盛り上がって黒色に変わったので、すぐにそれと分かりました。イワシの群れを見付けると、2隻の網船が魚群を囲むように網を引っ張っていき、網を下ろして30分くらい引っ張り、2隻の船を合わせます。錨(いかり)を下ろして船を固定してから網を引っ張り、網船に網を取り入れていきました。翌年には動力船の後方部に網を積んで漁に出るようになり、網船を引っ張ることはなくなりました。この方法だと操船も単純で効率的であったため、川之江で8統、三島で7統、寒川で1統の網元が許可をもらい本格的にパッチ網漁を開始し、沖で魚を獲ることから『沖取組合』という組合名にしていました。操業が許可されていたのは5月15日から翌年の1月15日までで、そのうち120日間くらい操業をしていて、正月を過ぎても操業していたときもありました。私(Cさん)が中学生のころにはパッチ網漁が軌道に乗り始めました。私は学校から帰宅すると煎り場の作業を手伝わされていましたが、話しながら作業していると、父に『やかましいぞ。ぐだぐだ言わずにもっと動け。』と怒鳴られたことを憶えています。」

ウ 機関士として

 「私(Cさん)は昭和33年(1958年)に中学校を卒業すると、すぐに先輩に操船方法を教えてもらいながら、機関士として船に乗り込みました。当時の船は木造船で、25馬力の焼玉エンジンが取り付けられ、8ノット(約15㎞/h)から10ノット(約19㎞/h)くらいの速度で走っていたことを憶えています。
 今のディーゼルエンジンであれば、クラッチのレバーを操作するだけで前進と後進を切り替えることができますが、焼玉エンジンを上手に扱うためには経験と技術が必要でした。未熟な機関士が操船していると、船を岸壁にぶつけてしまうこともあったため、先輩から操船技術をしっかりと教えてもらわなければなりませんでした。焼玉エンジンは、ゆっくり走っていてもエンジンの調子が悪くなると急に回転数が上がってしまうことがあったため、馬力を調節するレバーをうまく使わなければなりませんでした。今のディーゼルエンジンにはガバナー(調速機)があるため、エンジンの負荷が急に変わって回転数が上がりそうになっても、スプリングの抑えと遠心力を利用して一定の回転数を保とうとしますが、焼玉エンジンにはガバナーがなかったため、機関士が機械場に付いていて上手に調節しなければなりませんでした。」

エ パッチ網漁の様子

 (ア) 船団

 「昔のパッチ網漁は、人力で網を引き上げていたので、船1隻に10人くらいの乗組員が乗っていました。乗組員や陸の加工場で働く人は地元の人だけでなく、伊吹島や鞆(とも)(広島県福山(ふくやま)市)の向かいの走(はしり)島からも、女性が働き手として来ていました。本船には乗組員の食事の世話係として、伊吹島の女性が1人乗っていました。一つの船団には本船のほかに運搬船が付いていたので、全体で22人くらいで構成されていました。
 船で沖に出ると、イワシの魚群がないか探していましたが、よく見付かるのは午前9時から10時ころと午後2時から3時ころで、正午ころにイワシの群れが見付かることはあまりありませんでした。そのため、正午ころになると、沖で船から錨を下ろしてのんびりと昼食を食べていたことを私(Cさん)は憶えています。」

 (イ) 大引き

 「私(Dさん)は、昭和41年(1966年)に高校を卒業してから漁を始めました。パッチ網の膝から下くらいに当たる部分を『大引き』と言いますが、私が漁を始めたころは、大引きはマニラ麻と藁(わら)で作られていました(図表3-1-5参照)。大引きの下部を『イワ』と言いますが、イワに使われているロープは藁を編んで作られていました。パッチ網の上部の方を『アバ』と言います。アバに使われているロープはマニラ麻で作られており、所々に印を付けていました。また、浮きの役割をしていた直径30㎝くらいの丸い樽(たる)を一尋(ひとひろ)(約1.5m)くらいのロープでくくり、ロープの先には引っ掛かる金具を付けておきます。網を下ろしているときに、印を付けた所に来ると樽のロープの先の金具を引っ掛け、金具がない所はくくっていました。網を引き上げるときには、金具が付いていればそれを外したり、くくられていればそれをほどいたりしていました。
 今は、イワには鉛の重りが付いていて、ロープにも鉛が入っていますが、当時は、鋳物の金具を通して止めていました。イワは藁で作られていたので、麻のロープで作られていたアバよりも早く傷むので、傷んだときには交換が必要でした。
 アバの浮きとイワの重りで網を上下方向に開かせ、左右方向への開き具合は、2隻の間隔で調整しました。昔は、浮きを付けたり外したりする作業に合わせて網を下ろしていて、網を引き上げるときには、アバの方、網の方、イワの方に分かれて人力で引き上げていたので、今と比べると引き上げるスピードはとても遅かったと思います。そのときに、網の染料であるコールタールが手に付いてとても汚かったことを憶えています。今は樽の代わりに小型の浮きをロープの何か所かに付けてそのまま網ごとネットローラーに巻き付けて引き上げるため、そのスピードは速く、網に触ると危険です。以前の巻き取り機で網を引き上げていたころは、らせん状に網を動かして巻き取っていました。」

 (ウ) 袋網とチャン船

 「私(Dさん)が漁を始めたころは、エンジンの付いていない小型の木造船が使われていて、その船のことを『チャン船』と呼んでいたことを憶えています。
 チャン船は運搬船で沖まで引っ張られた後、櫓(ろ)を漕(こ)いで網船に付いてきます。網を上げ、袋網がもう少しで上がるというときに、また櫓を漕いで、袋網の尻に付いている浮きのロープを捕まえます。袋網がどんどん上がっていくときに、袋網の一番後ろの尻の部分をチャン船に取り込んでいき、袋網がほぼ上がり切ると、チャン船に人が乗り込み、尻をくくっている部分をほどいて、網の中の魚を船上に広げていました。袋網の中に魚がたくさん入っていたときには、袋網を上げる前にタマ(玉網、魚をすくい上げるのに用いる柄の付いた丸い網。)である程度すくっていましたが、昔は、1回の漁で今のようにたくさん獲れなかったので、そのままチャン船に上げていました。」

 (エ) 六貫検器

 「私(Cさん)が30歳前後のころまでは、手船(Dさんの言うチャン船)に上げたイワシの重量を六貫検器で計っていました(図表3-1-6参照)。六貫検器は木製で、米を量るときに使う直径30㎝くらいの丸い升に水抜き用のスリットが入ったような造りをしていて、ロープを通して持ち運びやすくしていました。六貫検器と言うくらいなので、イワシが6貫(約24kg)入りました。獲った魚を網から手船に取り込むと再び漁に出ますが、若い衆(し)(乗組員)3、4人が手船に残って、タマでイワシと水を一緒にすくって六貫検器に移していきました。六貫検器がイワシで一杯になると、用意されたトロ箱2箱に分け入れ、その上から氷を入れていました。
 1日の漁獲量は六貫検器の何杯分かで表していて、当時は、1回の漁で六貫検器30杯分のイワシを獲ることができれば大漁でした。しかし、私が20歳前後のころは、陸の加工場も今に比べると湯沸かしの設備も整っていなかったので、大漁のときには加工が間に合わないこともありました。エンジン付きの運搬船で陸まで運んでいましたが、陸との通信手段がなかったので、大漁だったときには陸から見えるように運搬船に大漁旗を上げて戻っていました。陸では帰って来る船に掲げられた大漁旗を双眼鏡で確認して、釜でイワシを湯がくための準備をしていました。運搬船は今のようにたくさんのイワシを積むことができなかった上、積み荷があるときの速度は約6ノット(約11km/h)ととても遅かったので、大漁旗を確認してから準備を始めても間に合っていました。」

オ 網の手入れ

 「私(Cさん)が20歳代半ばまで、網の大引きは、マニラ麻を原料としたトワインという麻紐(ひも)から作っていました。網を長く使い続けていると傷んでしまうため、年に2回は交換する必要があり、網元の家では、漁に出ない期間に親方と息子たちが手作業で作っていました。網ができると、コールタールを沸かして、その中に網を漬けて染めて、春先の3月から4月にはコールタールで染めた網を岸壁に干していました。染めた網が臭(くさ)かったというよりも、コールタール負けして、手の皮や顔の皮いげた(ただれた)のがつらかったことを憶えています。」
 「私(Dさん)は、コールタール漬けの作業には危険が伴っていたことを憶えています。当時は、砂浜で網元たちがコールタール漬けの作業を行っていました。直径1mくらいの釜にコールタールを入れ、下から火で焚(た)いて温め、粘り気の強いコールタールをサラサラの状態にし、網を漬け込んでは出すという作業を繰り返します。しかし、あるとき、温める火力が強すぎたのか、沸騰したコールタールが釜からこぼれ出して火に飛び散って燃え始め、網が焼けてしまいました。私はそれを見て消火器を持って走ったことを憶えています。」
 「エビを獲るときに使う目の小さな網は、『カッシャゲ』と呼ばれた柿渋で染められていたことを私(Cさん)は憶えています。また、パッチ網の一番後ろのイワシが溜まる袋網は木綿で作られていたので、網が腐らないように、毎日漁から帰ってきたときには50mくらいの長さがある網をみんなで陸の方へ担ぎ上げ、網干場で天日干しをしていました。ところが、私が20歳になった昭和38年(1963年)よりも前のころから海水に硫酸銅を混ぜた液体の中に網を漬け込むことで、天日干しをしなくても網が腐らなくなりました。このとき使った硫酸銅は、翌日、沖へ出るときに全て海に廃棄していました。そのころ、この辺りは工場から排出される汚水の影響で、沿岸から2㎞くらいまでの海面は茶色に変色していて、冬場に西の風が吹くと、海岸線の浜には海から吹き上げられた泡が2、3mほど積み重なった状態になっていました。そのため、私たちも硫酸銅を廃棄することで海を汚しているという意識はあまりなかったのです。」

 (2) パッチ網漁の進歩

ア 網の引き上げ方法の改善

 「パッチ網漁を始めてから数年間は、網を引き上げるとき、船が後退しないように、エンジンを停止して、錨を下ろして船を固定していましたが、やがて、錨を下ろさなくても人力で引き上げることができるくらいにエンジンの回転数を下げ、その状態で網を引き上げるようになりました。しかし、この方法でもうまくいかなかったため、その後、巻き上げ機で巻き上げるようになり、引綱であるワイヤーにロープをしっかりと結び、結び目が船尾に来るとそれをほどいて巻き上げていました。この方法に変わってからは網を引き上げる作業が随分楽になったことを私(Cさん)は憶えています。」

イ 網の改良とネットローラー

 「私(Dさん)が昭和41年(1966年)に高校を卒業してパッチ網漁を始めたときには、袋網は既にナイロン製のものになっていたので、木綿製の袋網を見たことがありません。また、荒手網(漁網の両端または上端に取り付ける目の粗(あら)い網)はまだマニラ麻製だったことを憶えています。」
 「ナイロンは紫外線に当たると朽ちやすいため、私(Cさん)の所では、ナイロン製の袋網に替わってからは、袋網を船の中にしまっていました。漁で1日しか使わなかったときには、網にシートをかぶせたままの状態にしていました。その後しばらくすると、荒手網もマニラ麻製のものからポリエチレン製のものに替わり、コールタール漬けなどの手入れをする必要がほとんどなくなりました。このポリエチレン製の網は丈夫であったため、ネットローラーで直接巻き上げられるようになり、作業の効率化にとても役立ちました。
 昭和44、45年(1969、70年)ころには、ネットローラーを使って網を巻き上げるようになっていたと思います。ネットローラーには油圧式のものと機械式のものがありましたが、私は、油圧式の方がローラーを巻き上げる速度の調整をしやすいと思います。この辺りで使われているネットローラーを製造しているメーカーは3社くらいですが、そのほかにもいろいろなメーカーが製造していて、同じ油圧式のネットローラーでも、メーカーによって少しずつ特徴が異なっているようです。
 ネットローラーを使うようになってからしばらくすると、袋網を直接運搬船に引き上げ、イワシを六貫検器で計ることなくトロ箱へ入れるようになりました。その後、運搬船の船倉に水を少し張って氷を入れ、直接そこへイワシを入れるようになりました。六貫検器を扱う必要がなくなったので、人手が不要となり、乗組員が半分くらいに減ってしまいました。また、網を人力で引き上げたり、巻き上げ機で巻き上げたりしていたころは、1日に六貫検器200杯分のイワシを獲ることができれば大漁でしたが、その後、魚群探知機が普及してきたこともあって、1回の漁で六貫検器200杯分のイワシを獲ることができるようになりました。また、ネットローラーを使うようになってから網を引き上げる時間が短縮されたので、以前であれば1日に5、6回漁を行うのがやっとでしたが、1日に10回は漁を行うことができるようになり、多いときには12回から13回も漁を行うことがありました。」

ウ 運搬船の改良とフィッシュポンプ

 「昭和50年代に入ると、運搬船は大型化・高速化され、速度40ノット(約74㎞/h)くらいで進む船もあったことを私(Cさん)は憶えています。松山と広島の間を航行する高速船スーパージェットの速度が32ノット(約60㎞/h)なので、それよりも速いことになります。本船がネットローラーで網を巻き上げるようになったため、運搬船にもスピードが求められていたのです。2隻の運搬船が交互にやって来てイワシを積み込むと、陸に近い沖合まで移動し、そこから真空フィッシュポンプを使って陸の加工場までパイプでイワシを送っていました(写真3-1-3参照)。そのころには加工場のボイルの設備も良くなっていたので、六貫検器200杯分くらいであれば1時間以内に全てボイルをして乾燥機の中に入れることができていました。」

エ 改良の結果と海の荒廃

 「私(Cさん)たちがパッチ網漁を始める前後は、この辺りの漁業にはそれといった特色がありませんでした。しかし、漁法がどんどん進んでいくにつれて、『漁師は金になる』と言われていた時代となり、漁師になったばかりの若い人でも、会社勤めをしていた人の何倍も儲(もう)けていたので、漁師の息子は学校を卒業すると、漁師として家業に従事していたわけです。
 大きな生イワシをイリコに加工すると、元の重量の2割8分くらいになっていました。イワシのトロ箱一つ分が3㎏分のイリコ1袋になりました。そのころはイリコの値段が良かったので、イリコ1袋の値段が若い衆の1日の給料になるくらいでした。また、1年間のイワシの漁獲量は、例年を100とすると、多いときには120、最低でも80くらいだったので、比較的安定していましたが、私はそのころ、『将来どんなになるのだろうか』ととても心配していました。それはなぜかというと、パッチ網漁ではナイロン製の袋網やポリエチレン製の袋網ができて、ネットローラーを使って網を巻き上げるようになると、1日の漁獲量が大きく増えました。年間120日くらい操業していたのが80日くらいに減りはしましたが、それでも1年間の漁獲量が増えたため供給過剰となり、せっかく作ったイリコの相場での価格が安くなったことがあったからです。現在は50年から60年前に比べると、イリコを大量生産することができるようになりましたが、1㎏当たりの単価はそのころとほとんど変わっていません。それはイリコの単価が下がらないように生産量を抑えてきたことによるのです。」

オ 海の汚染

 「昭和50年(1975年)ころ、海の富栄養化が原因でイワシに脂肪が付きすぎて、イリコの品質が低下したことがありました。それまでは、少しくらい品質の良くないイリコであっても、一定の相場で買ってもらっていたので、イリコを作りさえすればお金になっていましたが、そのころは単価が極端に下がってしまいました。加工するにしても加工の手間が掛かるため、ハマチやタイの餌くらいにしかなりませんでした。この辺りの網元たちは冷蔵庫を持っていましたし、私(Cさん)の加工場では、急速冷凍庫と冷蔵庫を拵(こしら)えて、1日に30t近くの生イワシを餌に加工し、宇和島(うわじま)を中心に南予方面へ出荷しました。大きなイワシは、千葉の九十九里へさくら干しの原料として送ったりもしました。」

カ 漁業許可の影響

 「香川県の伊吹島は地図で見ると小さな島ですが、最盛期には18統もの網元があり、そのうち7統は地元の観音寺の方が経営していて、この辺りでは川之江に8統、三島に7統、寒川に1統の網元がありました。これらの網元の経営がうまくいかなくなったのは、ちりめんだけを獲る小パッチ網漁(イワシ機船船引網漁業)が許可されたからだと私(Cさん)は思っています。
 私たちはパッチ網漁を徳島から導入したこともあり、徳島の漁師との交流がありました。その人たちは、『私たちは、四国で最初にちりめん専門の漁を始めたが、そのような漁(小パッチ網漁)は絶対にやめてほしい。』と言っていました。小パッチ網漁ではイワシの稚魚を獲ってしまうだけでなく、網の目が小さいためにほかの魚の稚魚まで獲ってしまうことがその理由でした。愛媛県で小パッチ網漁の許可を受けた漁業者は、地先の漁業権、共同漁業権の区域でしか操業することができないため、フグやカニ、エビの稚魚などが育つ藻場でも操業をするようになりました。
 小パッチ網漁の最盛期には愛媛県全体で200統の許可が下りました。最初に許可が下りた昭和54年(1979年)は、イワシが例年どおりに獲れましたが、それは、親魚(しんぎょ)が既に産卵を終えていたからでした。徳島の漁師が言ったとおり、翌年になるとこの辺りの漁獲量が3分の1に減少し、その後も減り続けていきました(図表3-1-7参照)。あまりにも漁獲量が減ったため、許可が下りてから5年くらい過ぎたとき、私は県の担当者に苦情を言ったことを憶えています。香川県でも、愛媛県と同じように小パッチ網漁の許可申請があったようですが、香川県は認めなかったようです。
 現在は年間に35日くらい操業しています。漁獲量が減少したため、この辺りの網元も川之江は8統から3統に、三島は7統から4統に減少し、寒川は1統も残っておらず、伊吹島が18統から15統になっています。小パッチ網漁も200統ありましたが、現在は20統くらいしか残っていないと思います。共同漁業権のある海域が工場用地の確保などのために全て埋め立てられてしまったため、水深が10mから15mくらいの藻場がなくなった上に、残り少ない藻場で漁を行うため、魚の産卵場所や稚魚の隠れ場がなくなり、それらを餌にする魚も少なくなっています。現在、この辺りでは全体的に漁獲量が減ってきており、『コギノシ(小型機船底引網)』なども経営的に成り立たなくなっているため、後継者を育成するのが難しい状況になっています。」

図表3-1-5 パッチ網模式図

図表3-1-5 パッチ網模式図

Dさんからの聞き取りにより作成

図表3-1-6 六貫検器

図表3-1-6 六貫検器

Cさんからの聞き取りにより作成

写真3-1-3 接岸設備

写真3-1-3 接岸設備

令和元年10月撮影

図表3-1-7 カタクチイワシ漁獲高の推移

図表3-1-7 カタクチイワシ漁獲高の推移

『愛媛の水産統計』から作成  グラフの値は県内の瀬戸内海域における3か年の平均値  S39~41年の平均値をS41年と表示