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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業16ー四国中央市②ー(令和元年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 イワシの加工と消費

(1)イワシのイリコ加工

 ア トロ箱時代の浜上げ

 「私(Dさん)の家の加工場が天然の浜にあったころは、運搬船が浜に乗り上げてイワシを降ろしていました。船から浜に板を渡し、その上を滑らせるようにしてトロ箱を降ろしていました(写真3-1-4参照)。浜では、トロ箱を受けた人が大八車に積み込んでいました。浜は砂地で坂になっているため、たくさんのトロ箱を積んだ大八車をそのまま引っ張るのは大変でした。そのため、浜から大八車を引き上げるためのロープが用意されていて、ロープで引っ張る力を借りながら大八車を加工場まで上げていたことを憶えています。
 昭和45年(1970年)ころ、その浜が埋め立てられ、加工場が埋立地に移転しました。移転後は、ホイストクレーンを使って岸壁に接岸した運搬船からトロ箱を降ろしていました。そのときには、金属製の台に縦横4列ずつトロ箱を並べて、5段以上積んだ状態で降ろしていたと思います。移転した当初は、昔と同じように降ろされたトロ箱を大八車に載せて運んでいましたが、そのうち1t積みくらいのトラックを使って運ぶようになりました。」

 イ 湯沸かしバーナー

 「地引網漁が行われていたころ、イリコの加工場で窯の湯を沸かすときには、薪(まき)を燃やしていましたが、パッチ網漁が始まってから1年か2年のうちに重油バーナーを使うようになりました。そのときに、周りの大人が、『ええなぁ、油だけ入れよったらええんじゃけん。』と言って感心していたことを私(Cさん)は憶えています。」
 「私(Dさん)が漁を始めたときには、釜の湯を沸かすときに重油バーナーを使っていたので、薪を燃やしていたときのことは知りません。私が最初に見た重油バーナーは、コンプレッサーで圧力をかけて、バーナーの先端部分から油が霧状に出てくるようになっていました。バルブを開けると種火で火が点(つ)き、ボイルする湯槽が、幅70cm、長さ2mくらいだったと思いますが、湯槽一杯に炎が広がっていたことを憶えています。」

 ウ ボイル

 「トロ箱から出したイワシは、水を一杯に張った桶(おけ)の中でうろこを落とした後、セイロに満遍なく入れました(写真3-1-5参照)。イワシをボイルする湯槽の金枠にセイロを10枚ほど入れて、金枠ごと吊(つ)り上げて湯槽に入れていました。私(Dさん)が初めて見たときには、『ナンバ』と呼ばれる滑車を用いて、人力でロープを引っ張って、湯槽からセイロを出し入れしていたことを憶えています。昭和45年(1970年)ころ、加工場が移転する少し前には、電動ホイストを使うようになっていたと思います。
 当時、イワシをボイルする作業は、主に私の母が行っていました。母の仕事ぶりを見ていると、適切な湯の温度や湯がき加減は、経験に基づく勘に頼っていたのではないかと思います。私は小学生のころ、傍(そば)で見ていて、『まだボイルできていないイワシを湯槽から出すことはないのだろうか』と心配することもありましたが、案外そのようなことはなかったので、『すごいなぁ』と感心するとともに、なぜ分かるのか不思議に思ってもいました。また、湯槽に入れるセイロの順番を間違えることがなかったことにも感心していたことを憶えています。」

 エ 天日乾燥

 「昭和41年(1966年)に私(Dさん)が漁を始めたときには、既に乾燥機を使ってイワシを乾燥させていましたが、小学生のころから手伝いをしていたので、天日干しも経験したことがあります。長さ4.5m、幅60cmから70cmくらいの簾(す)台(だい)という干し台に筵(むしろ)を隙間なく敷き、その上にイワシを広げて干していました。このような作業には人手が必要だったため、夏休みに入ると、中学生や高校生が何人もアルバイトでよく来ていました。
 当時のお年寄りは、空の変化から天気を予測することができていました。お年寄りが、『おーい、雨が来よるけん、しまわんか。』と言うと、私たちは何十もある簾台を集めて回り、筵を折り畳んで家や倉庫の中に入れていました。少しでも長い時間乾燥させたかったので、雨が降り始める直前に声を掛けられ、慌てて屋内に取り込んでいましたが、間に合わずに少し濡(ぬ)れることもあったと思います。雨が止(や)むと、また屋外へイワシを出して乾燥させていました。
 イワシが1日で乾かなかったときは、夕方になると家や倉庫の中に取り込み、翌日もう一度天日干しを行っていました。また、何日も雨が降り続いたときには、イワシが腐らないようにボイルをやり直したり、寒川にあった冷凍庫で凍結させたりして、天気が良くなってから天日干しをしていました。イワシの積み降ろしに手間が掛かる上に、ボイルをするための燃料代や冷凍代もかかり、品質も落ちてしまいましたが、そのようなことは年に1回あるかないかのことでした。
 いつごろのことか定かではありませんが、イワシをセイロに入れたままで天日干しを行っていた時期もありました。そのとき、セイロを地面にべた置きするのではなく、セイロの端を次のセイロの端に少し重ねて斜めになるようにして干していました。イワシがある程度乾いたら、空のセイロを上からかぶせて、そのまま上下をひっくり返していました。イワシの裏側までよく乾かすため、そうすることで少しでも乾きやすいようにしていたのです。
 昔は、この辺りは、天然の浜が広がっていたので、夏になると子どもたちがよく海水浴に来ていました。子どものころに、その辺りに干してあるイリコをつまんで食べていたところを見付かって怒られたという人も結構いたようです。」

 オ 販売

 「昔は、イリコは、白い厚手の紙袋に入れられて販売されていました。紙袋の上に金属製のじょうご(口の小さな容器にはめて液体などを注ぎ入れる用具)を置き、それに入れながら秤(はかり)に掛けて3kg入りの紙袋を作っていました。昔は、イリコの共同販売が行われておらず、業者相手に個人売りが行われていました。紙袋を大八車に積んで、狭い路地を通って倉庫まで運ぶと、そこに業者が来ていました。業者は三島や観音寺から来ていたほか、寒川からも来ていて、業者ごとに取引をしていました。
 しばらくして、現在のように漁連を通さず、生産組合のような組織を作って共同販売を行っていた時期があり、今の三島漁協から道路を隔てた東側で販売していたことを私(Dさん)は憶えています。そのときには、紙袋に入れられたイリコがトラックに積まれて運ばれていました。漁連を通して販売するようになってからは、段ボール箱に詰められるようになったと思います。
 共同販売が始まったころまでは、六貫検器200杯分のイワシが獲れるとイリコ400袋分になりましたが、そのようなことはめったになく、普段はその半分以下でした。私が漁を始めた昭和41年(1966年)ころは大卒者の初任給が2万円から3万円の時代でしたが、それでもイリコ1袋が900円から1,000円くらいで売れていました。」

(2)イリコの文化

 ア イリコ屋

 「私(Eさん)は、今40歳ですが、23歳か24歳のときに、イリコの卸販売をしているこの大倉屋に戻ってきました。そのときは、白い袋の俵をたくさん作っていました。大王製紙のお歳暮はなくなっていましたが、そのほかの地元の企業や、個人のお客さんも、俵でよく買いに来ていました。
 この10年くらいで、随分食文化が変わってきたようですが、イリコを買いに来られるお客さんは今でもたくさんいます。祖父が元気だったころは、『お歳暮にはイリコ』という感じで、一度に3、4袋を買われるお客さんもいたそうです。以前は、大王製紙はお歳暮用にイリコを大量に購入されていて、100袋から200袋ものイリコを作らなければならなかったため、夜通しイリコを袋詰めしたり包装したりして納めていたと聞きました。それほどイリコがお歳暮やちょっとした祝い事などのお使い物に向いていたのだと思います。イリコの入った袋の口を締めるのはなかなか難しいのですが、祖父は、たくさんのイリコを袋に詰めていたので、片手で袋の口を締めることができていたのだと思います(写真3-1-7参照)。私がこちらに戻ってきたときには、祖父から袋の口の締め方を最初に教わりました。随分失敗を重ねながら、何とか上手に袋の口を締めることができるようになりましたが、私は両手でなければ袋の口を締めることができません。」

 イ 正月飾りと神事

 「祝い事の飾り物は地域によって異なります。例えば、今治では、正月のしめ飾りには剣先するめを敷くため、年末には剣先するめがよく売れるのですが、この辺りでは、昔はしめ飾りにイリコを差し込んでいたようです。今は、大きくて見栄えが良いのでウルメイワシを巻き付けることもあります。しかし、神様へのお供え物はやはりイリコのようで、古くからある家では、2匹のイリコの腹を合わせて、白いお皿に載せてお供えしています。
 私(Bさん)が聞いた話によると、イワシの漁獲量が多かったこと、イリコの品質と味が良かったことなどから、この辺りではイリコが神様へのお供え物や魔除(よ)けのおまじない、お守りとして使われています。
 例えば、今でもお葬式に行くとき、男性の中には魔除けとして大羽のイリコ2匹を紙に包んでポケットに入れていく人もいるそうです。また、女性の中には、妊娠したとき、元気な子どもが生まれるようにと、イリコを紙に包んで腹帯の中に入れている人もいるという話を聞きました。そのようなことを全ての人が行っているわけではありませんが、若い人の中にも、親から教えられて行っている人がいます。
 神事のとき、一般的にはタイなどの見栄えの良い魚が神様へのお供え物とされることが多いのですが、この辺りでは、袋に入ったイリコがお供えされています。今でも地鎮祭のお供え物としてはタイよりもイリコが使われることがあり、大王製紙が地鎮祭をするときは、必ず私の店にイリコを買いに来てくれます。大王製紙の工場や営業所は他県にも数多く建設されており、そこで地鎮祭が行われるときにもこちらのイリコが使われていて、以前に岐阜の方へ送ったこともありました。この辺りでは、昔からそのような風習が残っています。
 三島では秋祭りの太鼓台にもイリコにまつわる風習が残っているそうです。太鼓が置かれている台の下に小さな皿が置かれていて、その皿に塩を盛り、少しお酒を垂らして固めておいたところへイリコを置いておくという古くからの風習は、今でもしっかりと受け継がれているようです。川之江では秋祭りのとき、未(いま)だにイリコを2、3匹食べてから太鼓かつぐ(担ぐ)という風習が残っているそうです。」

 ウ 行商

 「今でもイリコの行商は残っているのではないかと思います。私(Eさん)は5年くらい前に亡くなった方から、昔は、池田(いけだ)町(現徳島県三好(みよし)市)や三好町(現徳島県東みよし町)の方まで行商に行っていたという話を聞きました。また、高知へ行く用事があったとき、その途中でも商売をしていたという話もよく聞きました。山間部に住む方は、普段は魚を手に入れることが難しいので、大変喜んでいたそうで、今でも結構イリコを買うことがあるようです。
 この辺りではイリコの行商に行っていた人もたくさんいたのですが、年々その人たちも高齢になったり、亡くなったり、体を壊されたりしてやめたというお話をよく聞きます。そういう方が減ってきたので、山間部の集落ではなかなか買い物が難しくなっているようです。道路事情が随分良くなってきたので、山間部に住んでいて自家用車のない方でも、誰かに頼んで、週に何回か車に乗り合わせて私の店に買い物に来るというお客さんもいらっしゃいます。」

 エ イリコ文化の記録と継承

 「私(Bさん)は、イリコのことについて、昔の人から聞き取った話のテープ起こしをして書き留めています。地元の皆さんにとっては当たり前のことであっても、他所(よそ)から来た私にとっては不思議に思ったようなことを書き留めていて、SNSで発信するようにしています。あまり宣伝をしておらず、反応があっても一切応答していませんが、ただ『記録として残れば』という思いで取り組んでいるところです(写真3-1-8参照)。
 また、NPO法人いりこ倶楽部を作って、川之江地区の活性化にも取り組んでいます。子どもたちを対象に、イリコ飯の料理教室を開いたり、大人の修学旅行と称してイリコ尽くしの料理を食べに行ったりしています。」

 オ イリコ飯

 「この辺りでは、お盆の時期になるとイリコ飯を炊いて食べる風習があることから、イリコ飯のことを『盆飯』とも呼んでいました。私(Aさん)が子どものころ、農家では両親が農作業に出ていたので、御飯を炊くのは子どもの役目でしたが、私は、酒屋の長男として大切に育てられ、炊事などを全くやったことがありませんでした。私が自分で初めて炊いた御飯はイリコ飯で、そのときには、『こんなうまいものが世の中にあるのか』と思ったことを憶えています。
 ところが、大人になってからは、イリコ飯をおいしいとは思わなくなりました。昭和49年(1974年)に私が梅錦に帰ったときには、従業員と一緒に御飯を食べていたのですが、炊き込み御飯の好きな従業員からの要望があったようで、週に1回くらいは炊き込み御飯が出されていました。ダイコン飯などの炊き込み御飯が結構よく出されていたのですが、その中にもイリコが入っていました。私は『また炊き込み御飯か』と思っていたことを憶えています。ほかの従業員は炊き込み御飯が出されるのを楽しみにしていた人が多かったようで、『炊き込み御飯が出ると食べる量が増える。』と言っていたことが思い出されます。」

 カ イリコの選び方

 「私(Bさん)がこの辺りの方から聞いた話によると、イリコは頭と胴体の区別ができるようになるまでの間は『ちりめん』とは呼ばずに『シラス』と呼び、その後は、成長していくにつれて、『ちいか、かえり、小羽、中羽、大羽』と呼び名が変わっていくそうです。なお、イリコというのは大羽だけを指した呼び名ではなく、卵からシラスの時期を経て大羽になるまでの一生全てを指しているとのことです。
 また、私が問屋さんなどから聞いた話によると、鮮度の良いイリコはへの字形になっているそうです。生きが良い状態のときに加工処理するとへの字形になるので、イリコを買うときにはそれを目安にするとよいそうです。イワシは陸に揚げるとすぐに傷んでしまいますが、鮮度が悪くなるとお腹がはじけてしまい、への字を逆さまにしたような形になるのだそうです(写真3-1-10参照)。
 さらに、いりこ倶楽部のツアーのときに、川之江の問屋さんがいつも話しているのは、口を裂けるくらいに大きく開けたイリコは大変鮮度が良いものなので、イリコを買うときには、そのようなイリコが入っている商品を選ぶとよいということです。その話を聞いたお客さんたちは、自分が買った商品の中に口を大きく開いたイリコが入っていると大変喜んでいました。」

 キ イリコのおいしい食べ方

 (ア)おいしいだしの取り方

 「御年配の方から聞いた話では、若いときには大羽のイリコと根昆布を朝30分くらい水に浸(つ)けておき、少し煮立てた後、冷ましておくと良いだしができており、そのだしをおつゆなどいろいろな料理に使っていたそうです。
 私(Bさん)が調べたところでは、昆布にはグルタミン酸、イリコにはイノシン酸という旨(うま)味成分が含まれていて、それらは単独よりも組み合わさることで、旨味がより強く感じられるようです。ただし、グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果による旨味の強さは、配合する比率によって変わってくるそうです。御年配の方は、最も旨味を増幅させるためには、昆布をたくさん入れたり良質の昆布を使ったりする必要はなく、値段の安い根昆布を少し使うくらいがちょうど良いと話していました。」

 (イ)調理法

 「私(Bさん)は、枝豆を炒(い)って醤油(しょうゆ)に漬けておき、それにもろ味とイリコを混ぜ合わせたものをお弁当のおかずとしてよく入れていた、という話を聞いたことがあります。そのころ、枝豆はよく田んぼの畔で作られていて手に入りやすかったこともあって、食材としてよく利用していたのだそうです。また、油揚げと酢はイリコとの相性が非常に良いため、イリコ飯には油揚げが入っていることが多いそうです。」


<参考文献>
・川之江市『川之江市誌』 1984
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』 1985
・伊予三島市『伊予三島市史(下巻)』 1986
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『愛媛の地域調査報告集(二)』 1990
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県ホームページ『愛媛の水産統計』
・農林水産省中四国農政局ホームページ『平成28~29年愛媛農林水産統計年報』

写真3-1-4 トロ箱

写真3-1-4 トロ箱

令和元年10月撮影

写真3-1-5 セイロ

写真3-1-5 セイロ

令和元年10月撮影

写真3-1-7 袋を締める

写真3-1-7 袋を締める

令和元年12月撮影

写真3-1-8 Bさんの取材ノート

写真3-1-8 Bさんの取材ノート

令和元年12月撮影

写真3-1-10 口を開けたイリコと逆への字形のイリコ 

写真3-1-10 口を開けたイリコと逆への字形のイリコ 

上の4匹は口を開けへの字形になっており、下の1匹は逆への字形になっている。令和元年12月撮影