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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 ミツマタの栽培

 (1) ミツマタの仕事

ア 生きていくための仕事

 「私(Bさん)は惣川でも大野ヶ原(おおのがはら)に近い今久保(いまくぼ)という地域で生活をしていました(図表1-3-6参照)。ミツマタの仕事を手伝ったのは戦時中のことで、父が出征して家にいなかったので、私と弟、母、祖父の4人で仕事をしていました。
 父がいない中で4人の生活を維持していかなければなりませんが、お米を作るといっても山間地であったため、ほんの少ししかできないうえに、せっかくできたお米は供出しなければならず、私たち家族の口に入ることはほとんどありませんでした。お米をほとんど食糧として確保することができなかったため、私たち家族はトウキビを栽培してそれを食べていました。しかし、このトウキビもたくさん作っていたら、食糧に余裕があると見なされて供出させられていたことを憶えています。このように、食糧を確保することすら難しい時代の中で、私たち家族が生きていくためには、ミツマタの仕事は冬の仕事として欠かせないものだったのです。」

イ ミツマタを植える

 (ア) 焼畑の記憶

 「焼畑を行う前には成長した木を伐採し、それを自宅で飼っていた牛に引かせて山から搬出していました。山から搬出した木材は販売して一家の収入に充てていました。木材を搬出した後に、伐採した範囲を焼畑として使っていたのです。木の伐採は、主に私(Bさん)の祖父が行っていました。また、伐(き)った木を運搬する牛を操るのも祖父の仕事でした。
 私の家は、戦争で父が留守をしていたこともあって、焼畑をするときには地域内の元気な男性を何人か雇って火入れを行っていました。実際に焼畑を行うときには人手が必要になるので、地域内の元気な男性に何人か集まってもらう必要があったのです。
 協力してくれる男性は焼畑を行う場所のポイントごとに配置され、火が点けられます。焼畑はきちんと管理された中で行われていたので、火を点けるには役場だったか消防だったか忘れてしまいましたが、公的な機関からの許可を得ておく必要がありました。山に火を点けるという、一つ間違えると山火事になったり、人の命に関わる事故になったりする危険があったため、火道を切るというような準備も含めて、しっかりとしたルールが必要だったのだと思います。
 焼畑を行うときには、昼間ではなく夕方に火を点けます。夕方になると日中吹いていた風が収まることが多く、また、火が焼畑にする範囲以外に飛んで行ったとしても、辺りが暗くなってくると、その火を確認することが容易で、すぐに現場へ行くことができるという利点がありました。焼畑は日中の仕事が終わってから行う仕事だったのです。
 焼畑の作業が終わりに近づいてくると、手伝ってくれた方々の労に報いようと、家の者総出でおにぎりを作ってもてなしていました。このおにぎりには、手伝ってくれた方をもてなす意味と、もう一つ大切な意味がありました。それは、焼畑の作業が終わってすぐに帰らせてしまうのではなく、火を入れた山を見ながらおにぎりを食べてもらい、自分が火を点けた場所で延焼が起きていないかどうかなど、焼畑を無事に終わらせるための最後の確認作業というものでした。元気な方を中心に、何事にも地域内で協力をし合って行っていたことが思い出されます。」

 (イ) ミツマタとコウゾ

 「焼畑をすると私(Bさん)の家ではまず、ダイズやアズキ、トウモロコシなどを作り、それらが成育不良になってくるとミツマタを植えていました。土が痩せるというほどでもないのですが、土の状態が良くなくてもミツマタは春に土をおがし(掘り起こし)て、夏に草を刈るという年に2回の畑の手入れを行うと、翌春に採ることができていました。大きくなっているものから採ってやれば、そこから新しい芽が出てくるので、毎年採ることができるようになっていました。
 秋にミツマタの花が咲くと種ができ、その種を普通の畑に播いて、芽が出て成長してきたところで焼畑に植え替えていました。焼畑にミツマタを植えて何年かすると、その場所には木を植えて、ミツマタは新しく焼畑を行った場所へ植えていました。焼畑をした場所にミツマタを植えるとよく成長していたので、ミツマタが大きく成長してくると、『あそこのミツマタはもう大きくなったけん、そろそろ木を植えて、他(ほか)の場所へミツマタを植えないかんのう。』と、家族で話していたことを憶えています。一度焼畑にしてしまった土地は、肥料をやるなど、土地の世話の仕方にもよると思いますが、3年から5年はミツマタを育てる畑として使うことができていました。
 また、惣川ではミツマタだけではなく、コウゾを栽培していた時期もあり、私の家でも一時期コウゾを栽培していたことを憶えています。コウゾの良いところは毎年採ることができるというところでした。コウゾを育てるときには、毎年麦やトウキビだけを栽培するための畑の隅の方のスペースを使っていました。麦やトウキビと同じ畑に植えておくと、畑に施される肥料の影響を受けて、コウゾが早く成長するためでした。コウゾはその手入れに手が掛かるものではなく、放っておいても成長していました。ただ、放っておくとコウゾの枝が伸びて、皮を取るときに取りにくくなるということがあったので、毎年枝の手入れだけをしてやれば、地面からすっと伸びた状態にすることができました。コウゾの皮を取ったときに、枝分かれして手袋のような形で取られた皮は、質が悪いと判断されていました。そのため、質が良い1級品と評価される皮を取るためには、毎年手入れをして、枝がない状態にしなければならなかったのです。1級品とそれ以外のものでは、価格が大きく違っていたことを憶えています。私がよく聞かされていたのは、『コウゾは紙幣として使われるように、ええとこ(この場合、国の機関)へ送られて、天皇陛下さんがお使いになるお金になるんやと。』というような話でした。」

ウ ミツマタを刈る

 「焼畑に植えたミツマタは、刈り取ることができる大きさにまで成長するには3年ほどかかっていたと思います。焼畑は、ミツマタを植えてから3年目、2年目、1年目と、それぞれ分けられていて、私(Bさん)の家では3年目を迎えたミツマタを家族で刈り取っていました。
 刈り取ったミツマタは、オイコで背負って山から下ろし、それを集めて蒸すことができるようになれば、地域内の人の手を借りて蒸す作業を行っていました(写真1-3-4参照)。ミツマタをオイコで背負って山道を歩くことは大変でした。ミツマタは軽いので、2把かるうて(背負って)もあまり重たくはありませんでしたが、刈り取ったミツマタは大きく成長しているので長さがあり、それをオイコに横向きに積むので、ミツマタが山道の両側に残る木や草に引っ掛かり、狭い山道を歩くのが困難になるのです。私の母は足が悪かったこともあり、山を一緒に出発しても私が早く家に着くので、先に家に着くと背負っていたミツマタを置き、山道を急いで引き返して母が歩いている所へ行って母の荷物を持ったり、もう一度畑まで行ってミツマタを背負って運んだりしていたので、ミツマタの運搬に関しては、母の2倍は働いていたことを憶えています。」

エ ミツマタを蒸す

 「ミツマタを蒸す時期になると、祖父から『明日の朝は2時から焚かないかんぞ。』と言われ、夜中から作業が開始されていたので、私(Bさん)は、ミツマタを蒸す仕事は、本当に大仕事だと思っていました。
 ミツマタは、大きな束を10把ほど、『ヒャクニジュッコ』と呼ばれていたお釜にまるけて(束ねて)入れ、その上から『ムシコガ』と呼ばれていた大きな桶(おけ)をお釜に被(かぶ)せて蒸していました。10把であれば、2時間ほど蒸せば皮を剥ぎやすい状態にすることができていました。『ムシコガ』は大きく、人の力で上げ下げをするのが難しいので、釣瓶(つるべ)のようなものに綱で吊り、滑車を使って動かしていたことを憶えています。
 夜中の2時ころから蒸し始めて、2時間かけて蒸す作業を8回は行っていました。8回の作業の間には、蒸し上がったミツマタを取り出したり、減った水を補給したりといろいろな作業がありました。2時に蒸し始めて、2回蒸して皮を剥いだら朝御飯を食べるので、その家の人は、1把分の皮を剥いだら雇っている人の分も含めて、10人分以上の朝御飯の支度を行っていたことを憶えています。
 地域の中で、今日はここの家のミツマタを蒸す、明日はあそこの家のミツマタ、というように決められていて、家族だけではなく、地域の方々がそれぞれ協力し合いながら蒸したり、皮を剥いだりする作業を行っていたのです。お金を出して人を雇っていた家もあったと思いますが、地域の中にそのような裕福な家はほとんどなく、どの家の人もお互いの家の様子を理解していたので、それぞれができる範囲で精一杯のもてなしをしていたのです。」

オ ミツマタの皮を剥ぐ

 「蒸したミツマタは皮を剥ぎ、その皮を竿(さお)に掛けて干して乾燥させ、雨が降れば濡れないように移動させなければなりませんでした。たくさんの皮を干している状態だったので、その全てを濡れないように移動させるのはとても大変な作業でした。昼間であればまだましですが、夜、寝静まっている夜中でも雨が降り始めると布団から出てミツマタを移動させなければならなかったので、眠たくてたまらなかったことを憶えています。ただ、相当の量を移動させなければならず、大変な作業であることは地域のほとんどの方が理解していたので、『雨が降り出したぞ。』と誰かが言うと、何も言わなくても近所の方が手伝いに来てくれていました。しかし、私(Bさん)たち家族は、あまり人に迷惑をかけることはできないと考えていたので、なるべく自分たちで作業ができるように一生懸命に働いていました。
 ミツマタは剥いだ皮が大切で、皮を除(の)けた身(幹)は飛ばして(捨てて)おいてもかまわず、焚き物として使われることが多かったと思います。ただ、皮を剥いだミツマタの木は、白くてとてもきれいだったので、焚き物だけでなく、その美しさを活(い)かして生け花の材料として使われることもあったと思います。薪としてミツマタが使われると、その灰は肥料として畑に撒(ま)かれるため、土で育ったミツマタを再び土に還すことができていました。」

カ ミツマタを出荷する

 「乾燥させたミツマタはすぐに出荷するわけではないので、納屋へ積んで保管しておきます。冬場に雪が降って外での農作業ができなくなると、家の中での仕事として、納屋に保管してあるミツマタを取り出し、『五貫丸(ごかんまる)』と呼ばれていたと思いますが、皮の長さを揃(そろ)えた束にまとめると、それを一束いくらで内子(うちこ)や大洲の業者さんが買い取ってくれていました。当時、この地域にやって来る人を見ていると、『あの人がミツマタ買いさんじゃ。』というように、すぐに分かっていました。ミツマタを買い取る商売をしていた人たちは、ものすごく利益を上げて儲けていたようで、見た目でも分かるような感じがしていたことを憶えています。
 ミツマタを買い取る業者さんは、ミツマタを出荷する農家との前年からの口約束で、この地域の農家の何軒分かをまとめて買い取って帰ることができるよう、オート三輪に乗って買いに来ていました。業者さんによって買い取り価格が違っていたので、私たち売る側は、『だれだれさんより、だれだれさんの方が高かった。』というような情報交換を行っていました。また、買い取り価格の違いから、『去年はだれだれさんに売ったが安かったけん、今年はだれだれさんに売ろうか。」というようなこともあったと思います。ミツマタを買う業者と売る農家との間で、細やかな駆け引きが展開されていたのです。
 ミツマタの皮を業者さんに売るときには、表の皮である梶(かじ)は外していませんでした。梶が付いたまま業者さんに売り渡すと、業者さんの方で梶を取り除く作業を手配していたようです。」

キ ミツマタ栽培の衰退

 「昭和30年代に入ると、ミツマタの生産は大分減っていたと思います。私(Bさん)の家ではその後4、5年は細々とミツマタの栽培を行っていたことを憶えています。
 惣川では、ミツマタの栽培が下火になってくると、代わって養蚕が盛んに行われるようになり、ミツマタの畑が桑畑になっていきました(写真1-3-5参照)。また、お年寄りには蚕の世話が大変だったのでしょう、牛を飼って子どもを産ませ、博労に売って収入を確保する農家もありました。
 私の家では、家の中がお蚕さんで一杯になり、私たち家族が寝る所すらない状態だったので、私は天井から吊り下げられている、蚕が繭を作る網代(あじろ)の下で寝ていたことを憶えています。」

 (2) 惣川でのくらし

 「私(Bさん)は惣川で生まれて惣川で育ちました。私が国民学校2年生のときに父が戦死しました。父と離れて長い年月が経(た)ちましたが、今でも父の写真を見ると、父との思い出が脳裏に浮かびます。
 父がいなくなってしまったため、私は家を懸命に切り盛りする母親の手伝いをしなければなりませんでした。私には、学校を卒業したら野村町にある組合製糸で働きたい、という強い希望がありましたが、家の状況を考えると、就職のために家を出るという夢は叶えることができなかったのです。」

ア 子どものくらし

 (ア) 小松の国民学校へ通う

 「私(Bさん)がくらしていた今久保地区から、4kmほど奥へ行った小松(こまつ)地区に私が通っていた国民学校がありました。各学年1学級でしたが、複式学級ではなく、学年ごとに担任の先生がいました。私の同級生が23人ほどいたと思うので、山間部の小さな学校ではありましたが、そこで100人以上は学んでいたと思います(写真1-3-6参照)。
 私の家から学校までは片道4kmの道のりでした。整備が行き届いたきれいな道ではありませんでしたが、道路らしきものはあったので、『少し遠いな』とは思っていましたが、歩いて通学すること自体が大変だとは思いませんでした。学校が近づくと、少しだけ坂道を上がっていかなければならない、という程度の通学路だったことを憶えています。
 4kmを歩いて登校しなければならなかったので、朝6時には家を出ていたと思います。また、当時は靴がなかったので、下駄(げた)や草履を履いて通学していました。冬になると霜柱が立ちますが、霜柱が融(と)けない朝は草履を履いて登校し、午後になると霜柱が融けて道路がぬかるんでしまうため、草履では歩くことが困難になり、下駄を履いて下校しなければなりませんでした。また、下校時に学校から道路までの坂道に雪が積もっているときには、下駄を履いて坂を下りると滑って危ないので、通学用に買ってもらっていたマントをお尻に敷いて、ソリのようにして滑り下りていたことを憶えています。」

 (イ) 通学用の草履

 「私(Bさん)の世代では、子どもでも草履を作ることができて当たり前ですが、私は子どものころ草履を作ることがありませんでした。私が履いていた草履は祖父が作ってくれたものでした。祖父は、『お前は仕事を手伝わないかん。草履はわしが作ってやる。』と言って、作ってくれていました。祖父が作る草履を履いて登校すると、霜柱が立っているような所でも全く滑ることがなく、とても歩きやすかったことを憶えています。私は、『祖父が作ってくれた草履と同じくらいの草履を作れ。』と言われても作ることができないと思います。本当に良くできた草履でした。」

 (ウ) トウモロコシとサツマイモ

 「私(Bさん)が幼いころ、お祭りの料理を作っている母を近くで見ていると、『竹輪がええか、蒲鉾(かまぼこ)がええか。』と聞かれ、弟と2人で竹に残っている竹輪や板に残っている蒲鉾をかじらせてもらえることが楽しみでした。戦前、戦中はもちろんのこと、戦後になっても昭和30年(1955年)ころまでは、食糧事情は良くなかったと思います。私たちの主食はトウモロコシで、それを挽(ひ)いた粉を網に通して、網を通った粉と網に引っ掛かった粗い粒の中の部分を食べていたことを憶えています。
 学校へ持って行っていたお弁当でもトウモロコシ御飯が使われていました。トウモロコシ御飯はおむすびにすると食べやすかったので、塩を振っておむすびにしていたことを憶えています。私たちは焼きトウモロコシか、『おちらし』と呼ばれていたトウモロコシの粉をお弁当に持って行って、それで済ますこともありました。あるとき、学校の友人がお弁当におイモさんを持って来たことがありました。私は、そのおイモさんをもらって食べて、『いいなあ』と思ったことを憶えています。戦時中は私の家でもイモを作っていましたが、大きくなったイモは供出で出さなければならなかったので、小さなイモしか残らず、それほどたくさん食べることができなかったのです。
 あるとき、学校から帰ると私の家に大勢の人が集まっていました。私は何事だろうかと思いながら家の中に入ると、祖母がサツマイモのフライを作っていました。サツマイモのフライのような食べものは、お正月かお祭りでしか食べることができないものでしたが、その日はなぜか作られていたのです。この前日に祖母が、『明日イモのフライを食べさせてやるけんの。』と言ってイモを掘っていたので、私が、『どうして。』と聞くと、『今に分からや。』という返事で、はっきりと教えてくれませんでした。学校から帰った私は、大勢の人やイモのフライを見て、初めて父が送り出されるということに気付いたことが心に残っています(写真1-3-7参照)。」

 (エ) 子どもの楽しみ

 「私(Bさん)が子どものときの楽しみといえば、七日(なぬか)盆や12日のお寺のお施かけ(施餓鬼(せがき))、お盆などの年中行事のときでした。特に、お盆の期間、16日まではお昼になると遊ばせてもらっていました。夏休みの期間でも仕事の手伝いはしなければならなかったので、昼から遊ぶことができるだけでもうれしく思っていました。
 学校が休みの日はもちろんのこと、学校へ行く日でも、前の日のうちに山で引いてあるアズキやダイズを、母が朝御飯を作ってくれている間に、私と弟の2人で山からかるうて(背負って)下ろさなければなりませんでした。山から戻って来ると、ちょうど朝御飯ができているので、それを食べてすぐに学校へ行っていました。手伝いの時間が多かったので、勉強をする時間をほとんど取ることができず、勉強する時間といえば、夜、私が教科書を声に出して読んでいるのを、祖父に聞いてもらう程度だったことを憶えています。」

イ 農作業の思い出

 (ア) 草刈りのルール

 「当時は牛を飼う農家が多く、どの農家も1頭か2頭は飼っていたと思います。餌となる草は、山で刈ってそれをオイコでかるうて家まで帰って来なくてはならないため、せいぜい2頭分の草を運ぶのが精一杯で、たくさんの牛を飼うことはできませんでした。山の草は、どこでも取って良いわけではなく、『自分の家の草は、どこそこからどこそこまでの間』というように決められていました。これは地域内でしっかりと分けられていて、自分の家が権利を持つ範囲でしか刈ることができず、どこの草でも刈ってしまう行為はルール違反とされていました。ミツマタやトウモロコシなどを植える場合でも、自分の家の名義となっている場所でなければならず、焼畑についても同様で、自分の家が行うことができる範囲は定められていたのです。」

 (イ) 下肥を使う

 「麦畑に撒(ま)くための下肥を桶に入れ、天秤(てんびん)棒で荷(にな)っていたことは忘れられません。この仕事も人を雇って行うことがあり、私(Bさん)の家でも地域の人にお願いしていたことがありましたが、私が10代中ごろのときには、天秤棒で運ぶ仕事を手伝っていたことを憶えています。私の弟は身体が小さかったのですが、私は女性にしては比較的体格が良かったので、力仕事を手伝わなければならなかったのでしょう。当時は、畑にやる肥料はなかなか手に入れることができなかったため、畑仕事をする私たちにとって、下肥はとても貴重なものでした。とにかく肥料というものがなかったので、麦やトウモロコシを育てるときには、下肥を用いなければならなかったのです。天秤棒で畑に運んだ下肥は、作物の根元に一杓ずつ丁寧にやっていました。丁寧にやらなければならない作業だったので、一度に広い範囲を行うことは難しかったと思います。
 このような話は若い人には分かってもらえません。これは、下肥を用いて農作業を行っていた人しか分からない、大切な記憶だと思います。他にも、当時のくらしでは、風呂を焚くには薪を使っていましたし、暖を取るにも木を燃やしていました。これらで出た灰は肥料として使われ、作物にはものすごく効果があり、必要でした。灰を肥料として使っていた農家の方は口を揃えて、『よう効く。』と言っていたことを憶えています。こう考えると、当時のくらしでは、捨てるものや無駄なものがほとんどなかったと言えるのです。」

 (ウ) 書き置き

 「山や畑がある場所には、それぞれ地名がありました。例えば、『ホリキリ』や『ヨコヒラ』、山の上の方であれば『テンムキ』などです。そのほか、『イナヤントウ』や『ハラガタ』、大きな一本松があった所はその名の通り『イッポンマツ』と呼ばれていたことを憶えています。
 私(Bさん)が学校から帰ったら、『どこそこの山へ来い』という書き置きがあり、それを見てすぐに仕事の手伝いに行かなくてはなりませんでした。私はよく、オイコで牛の堆肥をかるうて山へ手伝いに行っていました。書き置きには、牛の堆肥をどれくらい持って行かなければならないか、ということまで書かれていたことを憶えています。手伝いに行くときには、手ぶらで行くことはなく、何かしらのものを持って行かなくてはならなかったので、手伝いに行く道中は、『しんどいなあ。』と思うことがしばしばあったことを憶えています。」

参考文献
・ 野村公民館惣川支館『惣川誌』1965
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 日本たばこ産業株式会社『葉たばこ技術・研究史 総論編』1990
・ 野村町『野村町誌』1997


図表1-3-6 惣川

図表1-3-6 惣川

昭和42年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「惣川」による