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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業14-西予市②-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 葉タバコの栽培

(1)葉タバコ作りの仕事

 ア 葉タバコを作り始める

 「私(Aさん)の家は代々農家で、子どものころから家の手伝いをしていました。当時、祖父母は少しばかりの田んぼで米を作っていたほか泉貨紙も作っていて、原料となるコウゾを蒸すところから作業を行っていました。私も小学生のころ、学校から帰宅すると屋外で板に張って乾燥させていた紙を取り入れる作業を手伝っていたことを憶えています。また、昔はほとんどの農家が養蚕を行っており、蚕の餌に必要となる桑畑が山一面に広がっていました。私は昭和35年(1960年)に高校を卒業した後、本格的に農業に携わるようになりましたが、そのころ、この辺りではまだ多くの家で養蚕を行っていました。
 ところが、昭和35年ころにこの辺りで葉タバコの栽培が始まると、養蚕をやめて葉タバコの栽培を始める農家が増えていき、その後は酪農を始める農家も増えていきました。日本で作られている葉タバコの品種の大半は黄色種と、主に東北地方で作られているバーレー種で、こちらでは黄色種が作られていました。当時、この辺りの耕作農家は1戸当たり3反(約30a)から4反くらい葉タバコを植えていました。私の家では、高校を卒業してから4、5年くらいは、葉タバコを植えている畝の間に麦を1mくらいの間隔で植えていたことを憶えています。」

 イ 栽培面積を拡大する

 「私(Aさん)は、30歳から40歳のころ、最も多いときで3町5反(約3.5ha)くらい葉タバコを作っていて、総収入は多い年で1,400万円から1,500万円くらいありました。そのころ、野村町の葉タバコ農家で栽培面積が1町よりも狭い人はあまりおらず、ほとんどの農家が1町5反から2町ないし3町くらい葉タバコを作っていて、みんなで販売実績5億円に挑戦しようと取り組んでいました(図表1-3-2参照)。当時、野村町で大規模に葉タバコを作っていた人はみんな宇和(うわ)町(現西予(せいよ)市宇和町)へ出掛けて葉タバコを作っていました。私も10人程度のグループを作り、10年から15年くらいの間、宇和のほぼ全域に出向いて葉タバコを作っていたことを憶えています。
 葉タバコは連作の難しい作物で、同じ土地で連続して作ることができるのはせいぜい2年くらいだったので、葉タバコを栽培するための土地を何回も探さなければなりませんでした。当時、借地料が1反当たり5万円くらいもしましたが、葉タバコによる収入が1反当たり40万円くらいあったので、借地料を払うことができていました。宇和町では最初に坂戸(さかど)で葉タバコを作った後、東多田(ひがしただ)、田野中(たのなか)、岩木(いわき)などでも作っていました。野村町で葉タバコを作っていたころは7畝(約7a)から8畝くらいの小さな田畑で作っていましたが、宇和町では岩木で4反くらいの田を借りるなど、広い土地で葉タバコを作るようになりました。岩木で3年くらい葉タバコを作っていると連作障害が出始めたため、耕作場所を山田(やまだ)へ移し、平成22年(2010年)に葉タバコ作りをやめるまでの6、7年くらいはそこで作っていました。山田で借りた土地は、セイタカアワダチソウなどの生い茂る8町ほどの荒地で、その全てが五畝(いつせ)切れ(1区画の面積が約5a)でした。そこで同じグループの人たちと葉タバコを作っていたのですが、2年ほどの間に少しずつ開墾して耕地を広げていったので、土地の所有者から、『あんたらのおかげで土地がきれいになった。』とお礼を言われたものでした。私たちが葉タバコを作っていた場所のほとんどは、後に実施された基盤整備事業により4反切れ(1区画の面積が約40a)の田地になり、そこでは現在も稲作が行われています。」

 ウ 苗作りから本圃への移植

 「苗作りは、最初は夫婦で種を播(ま)き、苗は何軒かの耕作農家と共同で作っていましたが、最後の20年ほどは蔵良(くらら)地区の荷刺(にさし)にある育苗ハウスで育てていました。種を播いてから苗が育つまでの間に、本圃(ほんぽ)に肥料をやり、畝を盛ってその上にビニールを掛けるという作業を行い、苗が育った3月下旬くらいに本圃へ移植していました。本圃へ移植するときには歩行式の移植機を使用し、3人の子どものうち1人が移植機を運転し、ほかの2人が苗をポンポンと機械に入れていきました。移植機は当時の値段で50万円くらいはしたと思いますが、当時は会社(日本専売公社。昭和60年〔1985年〕に民営化され、日本たばこ産業株式会社)から補助金が出ていたこともあって購入することができました。本圃に苗を植えた後は、生育後の管理が必要になります。葉の根元から生えてくる芽をわき芽と言いますが、放っておくと大きくなり、葉に必要な栄養分を芽に取られてしまうため、わき芽を取る作業が必要でした。最初は、わき芽を1本ずつ手で取り除いていましたが、後に、MH30という農薬が販売され、わき芽が2、3cm生えてきたころに葉の上から農薬を散布するとわき芽だけを枯らすことができるようになったので、随分楽になりました。」

 エ 栽培本数の検査

 「葉タバコの耕作農家は、会社と1反当たり2,200本くらい栽培するという契約を結んでいて、横流しを防ぐため、苗を1本でも余分に植えてはいけませんでした。毎年4月ころに、会社の検査員がこちらに来て、苗の本数を検査していました。検査日は事前に私たちに通知されましたが、その日にどの圃地を調べるかまでは教えてくれませんでした。実際に植えられていた苗の本数が会社に申告していた本数を超過していたときには、検査員が、『申告した本数と違いますから何本抜いてください。』と指導することもありました。私(Aさん)が宇和町で葉タバコを作っていたとき、検査のときには圃地の端の1列の苗の本数を数えて、植えていた列の数と掛け算して合計本数を計算していましたが、それで検査には合格していました。長方形の圃地に移植機を使用して42cm間隔で苗を植えていたので、1本ずつ数えなくてもほぼ正確に苗の本数を把握することができました。そのような苗の本数検査は現在でも行われています。」

 オ 収穫

 「収穫は6月くらいから始まり、8月のお盆のころまでかかっていました。タバコの葉は、直射日光に当たるとすぐに乾燥して品質が落ちてしまうので、日の当たる前に収穫するというのが鉄則であり、収穫時期には朝早く起きなければならず苦痛だったことを憶えています。私(Aさん)が宇和町の圃地で葉タバコを作っていたころ、朝の移動中に収穫を終えて戻って来る耕作農家に出会ったことがありました。葉タバコは下の方の葉から順に上の葉へと熟していくため、最初は下の方の葉を収穫していきました。収穫は最短でも3時間はかかっていたので、その人は夜が明ける前から収穫を始めていたのだと思います。
 葉タバコの1本の茎からは16枚から17枚の葉が生えてきます。葉には下の方から、土葉、中葉、合中(あいちゅう)、本葉、天下(てんじた)、天葉という名前が付けられていました。上の方の葉にはニコチンが多く含まれているため、ニコチン含有量の少ないタバコが好まれるようになってからは会社が買い取ってくれませんでした。昔は一番下の葉はニコチンが少ないため買い取ってくれなかったのですが、今では喜んで買い取ってくれるようになりました。昔は、ピースなどのニコチン含有量の多い銘柄のたばこを吸っている人も結構いましたが、時代とともにニコチン含有量の少ないたばこが好まれるようになりました。私は、昭和45年(1970年)ころから10年くらい高架型作業機を使用して収穫していました。高架型作業機は、葉タバコの畝をまたいで自走可能な走行装置に葉タバコの幹から葉をもぎ取る装置の付いたもので、当時、野村町にも10台以上入っていました。こちらの方が移植機よりも高価だったのですが、会社から半額の補助があったので購入することができ、収穫以外に防除(病虫害を防ぐための作業)にも使用していました。最後のころは高架型作業機を使わずに手作業で行うようになりましたが、長年の使用で機械が傷んで能力が落ちたことと、栽培面積が小さくなり機械を動かすほどのスペースが圃地になかったことがその理由でした。葉タバコ作りは冬の畝立てに始まり8月の収穫で終わりますが、年に2回タバコを作る場合には、年間を通じて草が生えないように耕耘(こううん)をしておく必要がありました。」

 カ 乾燥

 「昭和35年(1960年)ころは、私(Aさん)の家の上の所に、共同利用していた大きな土壁の乾燥室があり、収穫した葉をそこへ運んで乾燥させていました。乾燥室の内部には鉄管が回されていて、焚(た)き口で燃料を燃やすと鉄管の内部を通る空気の熱が室内全体に回りタバコの葉を乾燥させる仕組みになっていました。燃料には最初は薪(まき)を使用していましたが、後に灯油を使用するようになりました。そのころには、連縄(稲わらの縄及び麻縄)にタバコの葉を編みつけて吊(つ)っていて、天井の高さが8mくらいあった室内に、8段から9段くらい吊り下げていたと思います。焚き口付近が室内で最も温度が高くなったので、なるべくその辺りに葉を吊るすようにしていましたが、ときには葉が縄から抜けて、鉄管の上に落ちて火事になるといったこともありました。葉をきちんと乾燥させるためには5日間くらい夜通しで燃料を燃やさなければならず、その間は交替で室内の温度管理をしていました。燃料に薪を使用していたころ、疲れて居眠りしている間に火種がなくなってしまい、再び火を点(つ)けなければならなくなったこともありました。室内の温度が下がると葉の品質が悪くなるため、寝ずの番で温度計を確認しながら几(き)帳面に温度管理をしていたことを憶えています。
 また、私が個人で所有していた乾燥室が自宅に3室と、野村ダム付近の老人ホームの近くに3室ありました(写真1-3-1参照)。乾燥室は、バーナーで加熱した熱風を送風機で乾燥室の下部から吹き込み乾燥させる仕組みで、灯油さえ切らさなければ燃え続け、マイコンで時間が来たら自動で順番に上がるようになっていました。タバコを3町5反くらい作っていたころは、私の乾燥室のほかに蔵良地区にある共同乾燥場も使用していましたが、自宅にあった乾燥室は音が大きく近所迷惑となったので、ある時期から使用しなくなりました(写真1-3-2参照)。そのころは、のこぎりの歯状の凹部に葉柄(ようへい)部(葉身と茎をつなぐ部分)を挟み、押さえで止めるハンガーを使って葉を編みつけていました。乾燥室の内部は2段になっていて、一つの乾燥室に100連以上のハンガーを吊り下げていたと思います。私は平成23年(2011年)で葉タバコ作りをやめたので、野村ダム付近にある乾燥室は20年ほど使用していることになります。元々は乾燥室の奥の吹き込み口から横向きに熱風が流れていましたが、吹き込み口に近い所の葉が早く乾燥するという欠点を解消し均一に乾燥させるため、室内の下方から熱風を吹き上げる仕組みに変更していました。室内の温度を一気に上昇させると葉が真っ赤に変色してしまうため、段階に応じて室内の温度や湿度を調節していました。葉タバコ作りをやめた今では、自分の田で収穫した稲を乾燥させるときにこの乾燥室を使用しています。」

 キ 葉の等級の選別

 「葉の等級は品質によって5等級くらいに分かれていたと思いますが、等級に応じて会社が買い取ってくれる価格も異なっていました。最も高い等級の葉は1kg当たり2,300円くらいでしたが、最も低い等級の葉になると1kg当たり14、15円くらいにしかなりませんでした。等級の上位の、品質の良い葉は色も鮮やかで、湿気を帯びていないので軽かったのに対して、等級の下位の葉は湿気を帯びているために重いばかりで全く儲(もう)けにはなりませんでした。出荷するときにそれぞれの農家が等級別に分けて袋詰めにしていました。1等はこのような葉というような、等級の標本があり、出荷前には耕作農家を集め、標本を並べて確認していました。仮に、1等の葉を詰めた袋の中に2等の品質の葉が混じっていたとすると、その袋の葉は全て2等の値段でしか買い取ってくれなかったので、タバコの葉の等級を正確に評価する能力が必要でした。熟している葉の表面は小さな赤ゴマをふいたような状態になりました。葉タバコ作りをやめる20年ほど前から、会社は熟していない葉を買い取ってくれなくなったため、乾燥させた後、赤ゴマの出具合を観察して、葉が熟しているかどうかを見分けていました。また、薄黄緑色くらいになった生葉を収穫し乾燥させると赤ゴマがふいてきましたが、そうでない葉をいくら乾燥させても品質の良い葉にはなりませんでした。」

 ク 収納

 「私(Aさん)が農業を手伝い始めたころ、冬場にはそれぞれの家で薦(こも)を編んでいて、その中にタバコの葉を入れて収納していて、薦の方が葉タバコよりも重かったそうです。家で薦を編むのはお年寄りの冬場の仕事でしたが、私も編んだ経験があるので今でも編もうと思えば編むことができます。薦に入れて収納していたころは、まだ葉タバコの栽培面積が少なく、薦の1袋には最大40kgの葉タバコが入っていたので、30袋くらいあれば足りました。昭和35、36年(1960、61年)ころから布袋に入れるようになりましたが、それは会社で用意してくれました。最後のころになると、200袋から250袋も出していました。収納の荷造りは個人で行い、南予通運や日本通運の4tトラックに袋詰めされた葉タバコを積み込んでいて、その運送費用は会社が負担してくれました。どのトラックにどの農家の袋を積むのかということはあらかじめ決められていて、トラックがそれぞれの農家を回って来ていました。収納先は最初は野村の収納所でしたが、後に大洲(おおず)出張所へ収納しなければならなくなり、10年くらいすると高松(たかまつ)支社(香川県)まで運んで収納しなければなりませんでした。高松支社へ運んでいたのは10年くらいの間だったと思います。」

(2)葉タバコ作りをふりかえって

 ア 大変だった圃地の確保

 「葉タバコ作りで私(Aさん)が一番苦労したのは、冬の間に栽培する土地を確保することでした。宇和町の見ず知らずの人の家を何軒も訪ねて回り、葉タバコを栽培するための土地を貸してもらえるようにお願いしていました。中には親切な方もいて、『わしが世話してやるから、あそこへ行け、ここへ行け。』と言って案内してもらったこともありました。
 また、人家の近くでタバコを植えていたときには、ニコチンの臭(にお)いが臭(くさ)いと嫌われました。東多田で作っていたときには、養蚕農家から、『ニコチンの臭いが付いた桑を食べた蚕が繭を作らなくなった。』と苦情が入ったこともありました。そのときは、普及所の人に間に入ってもらい、桑を食べさせなければ蚕は翌日に元の状態に戻ったので事なきを得たことを憶えています。」

 イ 実習生の受入れ

 「私(Aさん)が最も多く葉タバコを作っていたころ、高松の専売公社を訪れたことがありました。そのとき、当時の耕作指導課長さんに、労働力の確保に苦労していると話したところ、香川県綾歌(あやうた)郡にある香川県立農業経営高校の生徒さん12人から14人を実習生として野村町へ派遣してくれることになりました。当時、農業経営高校は学校の実習地で葉タバコを栽培していて、私も2回くらい訪問して指導したことがありました。野村町に派遣された実習生は、各葉タバコ農家に3人ずつ振り分けられ、実習期間中は共同炊事で生活していました。農業経営高校からの実習生の派遣は3、4年くらい続けられましたが、実習生の皆さんがとても熱心に葉タバコ作りに取り組んでくれたことを憶えています。」

 ウ アメリカでの研修

 「昭和50年代の後半ころ、会社が実施した耕作農家のリーダー研修会に、私(Aさん)は四国代表として参加しました。研修では、アメリカのノースカロライナ州、サウスカロライナ州、バージニア州、ケンタッキー州、ワシントンD.C.、ニューヨーク、サンフランシスコ、ハワイを1か月間で回り、各地の大きな会社を見学しました。アメリカではベルトコンベヤーに載せられたタバコの葉が流れてくると、ちょうどミカンをセンサー付きの選果機で選別するように、機械で等級ごとに葉を選別し、葉を200kgずつ麻袋に袋詰めしていました。当時、そのような機械は日本では使われていなかったので、『ざっとしているな。』と思いましたが、後でタバコの葉を少し分けてもらって見てみると、葉には赤ゴマがきれいにふいていました。こちらへ帰って来てから、ほかの耕作農家の人たちと持ち帰ったアメリカ産の葉タバコを見ながら、『アメリカのタバコはやっぱりいいんじゃな。』と言い合ったことを憶えています。アメリカでは施設の規模の大きさや、作業の合理化・機械化が随分進んでいることに大変驚きましたが、その研修で指導を受けた品質管理や選別の方法は、3年後くらいに日本でも導入されていました。」

 エ タバコ農家の減少

 「かつて葉タバコといえば、野村町の様々な農産物の中でも最も利益をあげていた作物の一つであり、多くの耕作農家にとって葉タバコ作りが生活の基礎になっていました。それが時代の流れで、健康志向の高まりとともに、たばこの健康への悪影響が指摘されるようになったこともあって、たばこ離れが進むと、耕作農家の人たちは次々と葉タバコ作りをやめていくようになりました。平成の初めころにはまだ70、80人くらいの耕作農家がいましたが、会社から廃作協力金が出されるたびに少しずつ葉タバコ作りをやめていきました。最初は1反当たり10万円から20万円のときもありましたが、平成22年(2010年)には1反当たり27、28万円の協力金が出され、そのときに私を含めてほとんどの耕作農家が葉タバコ作りをやめてしまいました。野村町には今も葉タバコ作りを続けている耕作農家が4人いますが、その中のある農家の方は、今年の西日本豪雨に伴う水害で葉タバコの圃地が水に浸(つ)かる被害を受け、せっかく育てた葉タバコが全滅したこともあって葉タバコ作りをやめることにしたそうです。蔵良にある共同乾燥場は今年の西日本豪雨で被害を受けましたが、昨年までは4人の農家が使用していました。そのうちの1人が葉タバコ作りをやめたため、今年は3人しか使用していません。もう1人やめると収穫した葉タバコをハンガーに編みつけるのに必要な人手が足りなくなり、全て個人で行わなくてはならなくなります。また、共同乾燥場の電気代も馬鹿にならないので、2人で使用するくらいならば、個人で所有している乾燥室でまかなえる程度に葉タバコの栽培面積を減らすしかないと思います。いったん葉タバコ作りをやめると二度と葉タバコ作りをしようという気にはなりません。それは葉タバコ作りがそれだけ厳しく大変な仕事であるからですが、同じことは養蚕や酪農についても言えると思います。ですから、私は、今でも葉タバコ作りを続けている方は本当にえらいなと思うのです。」

 オ 薬草栽培に取り組む

 「私(Aさん)は、今は、5町5反(約5.5ha)の田畑でカボチャ、キャベツ、米を作ったり、サンショウやミシマサイコ、トウキを育てたりしています。ミシマサイコとトウキは、漢方薬の原料となる植物で、ミシマサイコの根を1回かじると20日間くらいはこむらがえりにはならないという効用があります。現在、西予市の農家により、ゴーイングフォワード西予(GFS)薬草生産組合が組織され、85人くらいの組合員がいます。薬草生産組合では、医薬品の製造販売を行っているツムラ(株式会社ツムラ)と栽培契約を結び、無償で種を提供してもらっています。ミシマサイコは、種を播いてから発芽するまで40日くらいかかるうえに、その間に除草を欠かさず行う必要があるので、栽培を始めたばかりの組合員の中には、『こんなに骨が折れるものは嫌だ。』と言っていた人も結構いました。その後、試行錯誤を続けるうちに、種を植えた場所が乾燥していると発芽が遅れるということが分かりました。そこで、種を播いた場所の土の上を籾(もみ)殻で覆ってやると、ほとんどの種が発芽するようになりました。また、私はここ2年くらい、野村町内の学校でミシマサイコの栽培を指導する活動を続けています。周りの人たちからは、『そろそろ農作業をやめたら。』と言われるのですが、今も現役で農業を続けています。」

図表1-3-2 野村町の葉タバコ販売実績

図表1-3-2 野村町の葉タバコ販売実績

『野村町誌』により作成。

写真1-3-1 Aさんの葉タバコ乾燥室

写真1-3-1 Aさんの葉タバコ乾燥室

平成30年12月撮影

写真1-3-2 野村町葉たばこ生産組合共同乾燥場

写真1-3-2 野村町葉たばこ生産組合共同乾燥場

平成30年9月撮影