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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 船とともに生きる

 (1) 周木の船大工

ア 力を合わせて造る船

 「私(増川米子さん)の実家は船大工で、主に漁船の製造を行い、小さな手漕(こ)ぎの船からエンジン付きの船まで造っていて、三瓶の漁業を支えた突船やサバ船も私の実家で造っていました。渡海船として使っていた福寿丸も私の実家で製造されたものです(写真3-1-1参照)。
 当時製造していた船はプラスチック製ではなく木造だったので、板と板を繋(つな)がなければならず、繋ぎ目にはマキハダ(ヒノキの皮を縄状にしたもので、水に浸〔つ〕けると膨らんで水を通さない)を埋め込んでいました。マキハダを埋め込むと、その上から白いペンキを塗り、防水のためのパテを詰めていきます。造船の作業過程で、これは女性や子どもでもできるというような箇所については、その多くの作業を私たちが行ってきました。この、パテを詰める仕事は子どもの仕事だったので、私もよく手伝っていたことを憶えています。今になってみると、防水という、船にとって大切な作業を子どもが担っていたのに、よく水が入らなかったものだ、と思います。当時は父親から、『ここからここまでの範囲はお前の担当。』というように分担されていて、割り当てられた箇所の作業を終えなければ食事をとらせてもらえませんでした。
 私の実家の作業場はそれほど広くなかったので、船の注文を受けると、1隻完成させてから次の注文の船を造るというように、1隻ずつ造っていました。なるべく早く船を完成させなければならなかったので、父はほとんど休みなく仕事をしていましたし、私たち子どもも本当によく手伝いをしました。
 突船にしてもサバ船にしても完成させて依頼主に引き渡すと、その代金は盆と正月に支払われていました。当時、弟子として従業員を雇い、賄いを出して食事だけは不自由させないようにしていましたが、依頼主からの入金の関係で、給料の支払いは盆と正月になってしまっていたので、盆や正月に弟子が休暇を取ると、『こんだけ貯まっとるけん。』と言って、半年分の給料を渡していたことを憶えています。弟子の給料に関わる勤務日数などは、母親が独自に帳面を作って管理をしていて、出勤をすると○印、何君は風邪を引いて休みを取った、というようなことがあれば×印を入れていました。作業時間は基本的には8時から17時まででしたが、注文が多く、納期が差し迫って作業を急がなければならないときなどには、残業や早出をしてもらって対応しなければならず、残業や早出は弟子に負担をかけることになるので、食事をとるときに、母親が、『今日は迷惑かけたのう。御苦労やったのう。』というように労(ねぎら)いの言葉を必ずかけていたことをよく憶えています。
 私の父の下で造船の技術を学び、その後に独立していった弟子はたくさんいます。中には南予でも屈指の造船所を設立した方もいるほどです。」

イ 進水に向けて

 「木製の船を建造するには相当な手間がかかっていました。木を削ってきれいな曲線を作ったり、真っ直(す)ぐな板を蒸気に少しずつ当てて、ちょうど良い具合に曲げたりして造っていたので、子ども心に、『船大工は道具を上手に使って難しい仕事をするんだな』と、感心していました。
 板を曲げるときには、時間がかかりますが一気に曲げていく必要があったので、父親も弟子も夜中まで残業になってしまおうとも、時間に関係なく仕事をしていました。父親が、『今日は残業になるぞ。』と言うと、母親が弟子に食べさせるおにぎりを作って食べさせ、板を必要な分だけ曲げる仕事が夜遅くに終わると、父親が弟子に、『遅くまでご苦労さん。一杯飲むか。』と、その日の仕事の労を労っていました。
 私(増川米子さん)の家には弟子が多いときで25人ほどいました。小さい船であれば、40日ほどで完成していましたが、25人ほどで仕事をしても、突船やサバ船であれば、船の大きさにもよりますが、年に2杯程度しか造ることができなかったと思います。また、当時、周木の実家の前の道路には、許可を得てブロックを敷いていました。なぜブロックが必要だったかというと、作事場で完成した船を海に下ろすために、作事場から海に向かって道路を斜めに切る必要があり、普段は切った部分にブロックを積んでいたのです。私の家では船が完成すると、道路に敷いていたブロックを除(の)けて、作事場から海へ完成した船を丸太のコロを使って滑り下ろしていました。海に下ろされた船には幟(のぼり)が立てられ、船主が餅まきを行うなど、お祝いムード一色でしたが、船を下ろすときには前からは引っ張り、後ろからは押さなければならない上に、船が完成するたびに、船を海へ下ろすために大量に敷き詰めたブロックを取り除き、下ろし終えるとまた積み直さなければならず、大変な作業だったことを憶えています。」

ウ 進水を祝う

 「船の中には小さい社が作られ、船霊(ふなだま)様が祀(まつ)られていたので、『まずは、船霊様の行事を終えるまでは女性を乗せてはいけない。』と、言われていました。その神事が終わると、女性も乗り込んで、餅まきなどの新船の行事を行っていました。
 また、新船の行事が終わった晩には宴会が催されていました。この宴会は船主さんが主催し、親族や地域の人々、船大工の職人が招かれ、本当に盛大な宴会だったことを、私(増川米子さん)はよく憶えています。招かれる側は一升瓶の酒を2、3本持って行ったり、大漁旗を作って持って行ったりしていました。当時、大漁旗は旗屋で作っていましたが、三瓶には旗屋がなく、八幡浜の江尻の旗屋や、宇和島の黒田などに頼んで作ってもらっていました。船名は親方(船主)がうちの船は何々丸というように、完成までに船名が決められていたので、大漁旗は船の完成に合わせてあらかじめ作っておくことが可能でした。」
 また、船名について、久保田幸一さんは次のように話してくれた。
 「船名には縁起を担いで末広がりの文字や数字が使われることが多くあり、1隻目には第八と付け、2隻目以降は第十八、第二十八と付けるというような例があります。船団を組むと、本船があり、火船があり、ボートや運搬船がありますが、第八と付けられている船は多いと思います。」

エ 子どもの楽しみ

 (ア) イリコとイモ

 「私(増川米子さん)の実家の隣ではイリコを製造していました。大工の作事場のすぐ横でイリコが干されていたので、イモとお皿を持って行き、イリコをもらっていました。イリコは熱いうちに頭から骨を引き抜くと、きれいに骨と身を分けることができていました。イリコから骨を取ると、骨を皿に置いてイリコとイモを食べながら学校へ行っていました。イリコの塩加減がちょうどよく、イモと一緒に食べるととてもおいしかったことをよく憶えています。
 また、私の家では船の材料となる板を曲げるのに、ドラム缶に水を入れ、下から火を焚(た)いて出てくる湯気を使っていました。冬場になると、焚き口にイモを入れて焼イモを作っていました。私が子どものころには、これが唯一のおやつでした。」

 (イ) 豊かな海で遊ぶ

 「私(増川米子さん)が子どものころには、波打ち際に来た小さなフグをすくい上げ、足でコロコロと転がして刺激を与えると大きく膨らむので、それを道路に置くといういたずらをしていました。バスが通過する際に踏み付けると『パンッ』と大きな音が鳴っていました。驚くほど大きな音が鳴るため、バスの運転手さんはパンクをしたと勘違いしてバスを停車させ、急いで降りて来てタイヤの確認をしていました。私と友だちは、その様子を橋の下などの陰に隠れて見ていたことをよく憶えています。
 当時、周木の海水浴場は、何より子どもが普段から自然と関わることができる遊び場でもあったのです。」
 「フグは刺激を与えると腹を膨らませるので、私(久保田幸一さん)も子どものころは捕まえて来ては、友だち同士で投げ合いをして遊んでいました。安土でも、夜に釣糸を垂らすとゼンゴ(アジの子)がバケツ一杯になるくらいよく釣れていました。釣れたゼンゴは三杯酢にしたり、焼いたりして食べていたことを憶えています。小さな子どもでもよく釣れていたので、それだけ魚がたくさんいたということなのでしょう。曲がった竹を火で炙(あぶ)って真っ直ぐにして釣り竿(ざお)にしたり、仕掛けを作ったりするなど、子どもでも自分が工夫して遊びを創っていました。」

 (2) 回漕店の仕事

ア 海上交通が盛んな三瓶

 (ア) 繁久丸

 「陸上交通が発達していなかったころは、海上輸送が主で、船舶が活躍していたので、三瓶は海上交通や漁業に歴史があると思います。三瓶には今でもハゼの木がたくさんありますが、そのハゼが原材料となった蝋(ろう)は大阪へ、さらに敷島紡績の綿布の運搬、牛の運搬などと多岐に渡って船が活躍していました。私(久保田幸一さん)は、牛を運搬する船は鋼鉄製の大きな船だったことを憶えています。
 海上交通が盛んだったことは、港の桟橋が設置されて90年経過していることを見ても明らかなことであると言えます(写真3-1-2参照)。この桟橋には青木汽船(青木運輸)の繁久丸という別府航路の船が着いていて、私は学校へ通うのにこの繁久丸を利用していました。繁久丸は沿岸の港に寄港するので、別府まで9時間から10時間はかかり、午前中に出発しても到着するのが夕方から晩になっていたことを憶えています。」
 「瀬戸(せと)(現伊方〔いかた〕町)の方では、繁久丸は港に着岸できず沖に停泊していたので、塩成(しおなし)や大久(おおく)では繁久丸に乗船するために、港から伝馬船に乗って沖へ出ていかなければならなかったということを、私(小野正昭さん)は憶えています。」

 (イ) 三島丸

 「私(増川米子さん)が幼いころには、三瓶と八幡浜とを結ぶ旅客船の三島丸は周木に船を着けることができず、乗客は港から伝馬船に乗って沖へ出ていました。伝馬船の船頭さんがお客さんを10人ほどずつ伝馬船に乗せ、一生懸命に艪(ろ)を漕いで港と三島丸の間を何回も往復していたことをよく憶えています。三島丸への乗船客が多かったので、全ての乗客を運ぶのに相当な時間がかかっていたと思います。」

 (ウ) 渡し船

 「私(増川米子さん)は、二及と三瓶との間に渡し船があったことを憶えています。二及では旗が立てられていて、こちらの桟橋から眺めて誰かが旗を振っているのが見えると、発着の時間が決まっている訳でないので、時間に関係なく二及へ迎えに行っていました。この湾内の渡しは町内の病院へ通う人や学校へ行く子どもたちに利用されていました。
 三瓶高校(愛媛県立三瓶高等学校)の生徒たちは、天気が悪い日には家へ帰るのにバスが満員の状態で乗ることができず、渡しを利用して帰宅していたようです。また、病院へ通う人は、治療が終わると桟橋に来て、船がいなければ二及の方を眺めて、船に向かって『おーい。』と声を出して手を振ると迎えに来てくれていました。
 渡し船は前方にブリッジがあって、後方にお客さんが乗れる構造になっており、長椅子が備え付けられ屋根も付いていて、しかも動力がエンジンだったので比較的快適で、お客さんが1人の場合でも迎えに来てくれていたのでとても便利だったことをよく憶えています。」

イ 渡海船

 (ア) 福寿丸

 「三瓶と八幡浜との間の道路事情が悪く、また、バスの便も少なく、それほど便利ではありませんでした。さらに、物資を輸送するにもトラックがそれほど普及していなかったので、貨物船である渡海船で日用品を八幡浜から三瓶へ運び、三瓶から地元で収穫された野菜などを八幡浜の市場へ運んでいました。三瓶と八幡浜との間を運航していた渡海船は2杯あり、一つは共栄丸、もう一つが私(増川米子さん)の家が所有していた15tほどの大きさの福寿丸でした。途中、穴井丸という船が営業を行っていた時期もありましたが、私の家で穴井丸の権利を買い取ったので、ほぼ共栄丸と福寿丸の2杯での運航でした。
 私の回漕店では、湾内のどこを運航してもよい権利を取っていました。三瓶と八幡浜間を運航する権利もあり、その中に八幡浜の大島(おおしま)へ運航する権利も含まれていました。現在、この権利は一括して譲渡してしまっているので、私たちが使っていた福寿丸は八幡浜と大島との間で運航されています(写真3-1-3参照)。」

 (イ) 八幡浜へ行く人々

 「私(増川米子さん)は生まれも育ちも周木ですが、周木から八幡浜の病院へ朝一番で行くためには、バスに乗って行っていたのでは受付に間に合いませんでした。一方、三瓶からは旅客船の三島丸が就航しており、三瓶町内の港に寄港して八幡浜へ行っていましたが、それでも朝一番の受付には1時間から1時間半ほど遅れてしまうので、病院へ通わなければならない人たちは、貨物を運ぶ共栄丸や福寿丸に乗って八幡浜まで行っていました。貨物運搬用の船に旅客を乗せることは禁止されていたのですが、朝だけは病院へ行かなくてはならないという事情があったので、暗黙の了解というような形で乗船させていました。暗黙の了解の下での乗船だったので、当然、八幡浜から三瓶へ帰る乗客は旅客船に乗らなければならず、共栄丸や福寿丸のような貨物運搬用の渡海船に乗せて運航するということは認められていませんでした。
 福寿丸は焼き玉エンジンを積んでいたので、冬の寒い日には、5分から10分程度バーナーでエンジンを温めてからでないと動きませんでした。陸取(おかど)りのものは前の晩に船に積んでおいて、エンジンをかけて出航するのが朝4時ころでした。
 病院へ通うお客さんは、出航する朝4時よりも早く港に来て、『乗せてや~。』と言っていたことをよく憶えていて、福寿丸に乗って来たお客さんには、『おばちゃん、どこが悪いの。』などと話しかけることがありました。乗船するお客さんからは一応運賃をもらっていましたが、旅客船の運賃をいただくのではなく、貨物運搬船は荷物一つがいくらというように決まっていたので、それに基づいた金額をいただいていました。旅客船よりは安く八幡浜まで行くことができるので、病院へ通わなければならない方は多く利用していましたし、何より、小学生までの子どもについては、乗船しても料金を徴収しなかったので、使う方にもメリットがあったと思います。人を運ぶことが本来の仕事ではなかったので、このような配慮をさせてもらっていました。」

ウ 沖取り

 「八幡浜の魚市場へ運搬する魚介類については、『沖取り』と言って、漁を終えた漁師さんが船を港に着けることなく、沖に停泊させている所へ、私(増川米子さん)たち渡海船が受け取りに行っていました(図表3-1-1参照)。渡海船にはそれぞれどの漁船に受け取りに行くかが決まっていて、○○丸(渡海船)は□□丸(漁船)へというようになっていました。
 渡海船は朝八幡浜へ行って、夕方に三瓶へ帰って来る1日に1往復の運航でした。朝4時に三瓶港を出港し、沖取りをしてから各港に寄港して病院へ行く方を乗せて、周木を出港するのが大体6時ころ、八幡浜に着くのが7時半ころになっていました。沖取りをしている間、病院へ通う方たちはその作業が終わるまで待たなければならず、船に乗ったままで、船室で寝ていることが多かったと思います。」

エ 八幡浜港

 「当時、福寿丸は三瓶を出港して二及へ寄り、二及から周木へ行く間に沖取りで魚を受け取ると、須崎を回って周木へと向かっていました。周木を出ると穴井へ向かいますが、穴井では積む荷物がある場合には港で白い旗などが振られて合図がされていました(図表3-1-1参照)。沖から港を見て、合図があれば港へ寄りますし、合図がなければそのまま八幡浜へ向けて運航し、港に着くとまず魚市場へ入っていました(写真3-1-4参照)。
 渡海船が魚市場の一番端に着くと、病院へ行く乗客はそれぞれ市内の市立病院など、自分の掛かり付けの病院へと走ったり、急ぎ足で行ったりしていました。また、私(増川米子さん)が幼いときには、八幡浜では人力車が走っていたことを憶えています。お金に余裕がある人たちは、港に着くと人力車に乗って国鉄八幡浜駅まで行っていたようです。八幡浜の港には人力車が何台も並び、お客さんを待っていました。八幡浜の旧港は食堂街で多くの店があったので、八幡浜の港に着くと、清家食堂へ行ってうどんを食べて帰ることがとても楽しみでした。
 乗客を降ろした渡海船は、三瓶から運んで来た荷物を降ろします。果物などを降ろすときには、港の近くにあった青果市場のカネカや丸八などのリヤカーが浜で待っているので、そこへ持って行っていました。荷物を降ろし終えると、三瓶の商店街の店から注文を受けていたお菓子や酒などの日用品や空になったボンベにガスを充てんしたプロパンガスなどを積み込んで三瓶へ帰り、三瓶に着くと注文をいただいていた各店に配達をしていました。
 各店が注文する商品は、前日には連絡が入って来ていました。当時は電話が一般家庭には普及していませんでしたが、各店には電話があったので、注文を受けてから八幡浜の卸売店に電話で連絡を入れておき、八幡浜に着くと、港の近くに預けておいたリヤカーを引いて商店街の卸売店を回って注文された商品を受け取り、港まで持って帰って船に積み、三瓶へ向けて帰っていました。帰りは八幡浜を昼に出航して、各港に寄港して荷物を降ろして三瓶に帰ってくるのが午後3時半から4時ころになっていました。
 三瓶町内に入ると、各港に船を着け、注文をしていた店に1軒ずつ商品を配達して回らなければなりませんでした。ただし、私たちだけで配達することは大変だったので、各港に配達をしてくれる人を確保しておき、その方々に港まで取りに来てもらい、商品を渡して配達してもらっていました。周木は商品が何個、二及は何個、垣生は何個というように各港で降ろす商品を分けておいて、手早く渡していました。三瓶に着くと、三瓶の各商店が注文していた商品を1軒ずつ回って配達し、下泊方面の荷物については、数が少なければ車で配達することもありましたが、数が多いときにはそのまま船で持って行っていました。」

オ 天気を読む知恵

 「渡海船の仕事は、台風などの特別な日には休まなければなりませんでしたが、少々の時化(しけ)で休むということはありませんでした。当時は詳細な天気予報の情報がなく、自分で雲や風向きを眺めて天気を読んでいました。当時は学校の先生が、遠足や運動会が近くなると、『何日に遠足があるんやけど、天気どうやろか。』などと、開催当日の天気を漁師さんに聞いていたほどです。
 私(増川米子さん)たちは、山の木の揺れ具合や雲の走り具合などを眺めて、漁に出るか出ないかを決めるのです。渡海船は早朝に出航しなければならないので、『台風、どうやろ。いけんで、やっぱり今日はやめておこうか。』というように早く決断をして、出航できないときには、荷物を依頼している各店に電話で連絡を入れ、『今日は台風のために休ませていただきます。』ということを伝えていました。三瓶の湾内は天気が荒れているときでも波は穏やかですが、湾外に出ると波が高くなるというように極端に変わるので、天気を読み、適切に判断をすることが海での仕事に携わる者にはとても大切なことでした。」
 「ここでは、天気を読むのに、『どこの山の竹が揺れたら沖に行っても仕事にならない』、というような船乗りの共通の認識がありました。私(久保田幸一さん)らの地域では、『裏山の竹が揺れたら。』というようなことがあり、竹林を見てその揺れ具合で判断していたことを憶えています。その場所の竹林が風で揺れていると、三瓶の湾内は波が穏やかでも、沖に出ると仕事になることが絶対にありませんでした。昔の漁師は、山を見たり島を見たりして網を入れるのはどこが良いかということまで探っていたので、仕事をする上でも優れていたと思います。このような天気や風、波の高さや網を入れる場所の読み方は、船乗りの間で代々受け継がれて来た大切なものだと思います。」

カ 隠れ岩

 「渡海船を運航しているとき、私(増川米子さん)は一度船を沈めてしまったことがありました。頃時(ごろどき)鼻(鼻:海に突き出た陸地の尖端〔せんたん〕)の沖の隠れ岩に私が船を乗り上げてしまい、海水が船のエンジン室にまで入ってきて、沈めてしまったのです(図表3-1-1、写真3-1-5参照)。
 隠れ岩は干潮のときに海面からほんの少しだけ確認できる岩で、そのほとんどが海面下に隠れてしまっています。しかし、満潮であれば渡海船が問題なく通行できる場所でした。穴井の港で八幡浜からの荷物を降ろして出港し、巴理(びり)島に向けて舵(かじ)を取るというときに、ほんの少しの時間だけ操船を任せた方が、舵を取り損ねてしまったのです。穴井から周木や三瓶に向けて船を運航するときには、『穴井を出たら巴理島に向けて船を廻せよ。』と教えられていましたが、舵を取るタイミングが少し早かったのだと思います。」



写真3-1-2 桟橋

写真3-1-2 桟橋

平成29年12月撮影

図表3-1-1 沖取りの場所と隠れ岩

図表3-1-1 沖取りの場所と隠れ岩

昭和42年国土地理院発行の5万分の1地形図「三瓶」による